第44話 公爵令嬢は、館に戻る
「では、そろそろ――」
そう言いかけた時、外で馬がいなないた。
私は言葉を止める。
馬の声だけではない。
石畳を叩く蹄の音。
速い。
止めるための速さではなく、間に合わせるための……つまり警告の速さだ。
次の瞬間、鐘が鳴った。
低く、短く、二度。
孤児院の庭から、子どもたちの笑い声が消える。
院長が焼き菓子の包みを持ったまま顔を上げ、護衛が一歩、門の方へ動いた。
北門の鐘。
ただの火事ではない。
もちろん、迷子でもない。
これは、警戒鐘だ。
私は、焼き菓子を持ったまま固まっている子どもたちを見た。
心臓が、一度だけ強く鳴った。
怖くないわけではない。
何も分かっていないうちから、怖がるわけにはいかないだけだ。
ここには子どもがいる。
院長がいる。
護衛がいる。
そして、マリエンヌがいる。
最初に声を震わせた者の不安は、周囲へ移る。
だから、私の最初の声だけは、必ず平らでなければならなかった。
「院長」
私が名を呼ぶと、院長はすでに頷いていた。
「年長の子を集めます。小さい子は礼拝堂へ」
「竃は開けて。火はまだ入れないでください。薪は先ほどの数では足りません。庁舎へ請求を」
「承知しました」
「門は内側から閉じて。水桶の確認を先に。子どもたちには走らせないように」
「はい、お嬢様」
マリエンヌが息を呑む気配がした。
けれど、振り返って説明している暇はない。
「マリエンヌ、視察はここまでです。館へ戻ります」
「は、はい」
声は震えていた。
けれど、逃げ出す声ではなかった。
よろしい。
私は護衛へ視線を向ける。
「馬車を正面へ。市場の中央は避けます。庁舎前を通り、橋へ向かいなさい」
「はっ」
「通行人を押しのけないように。まだ避難命令ではありません。混乱を作る必要はありません」
護衛が頷き、すぐに門の外へ走った。
子どもたちは、院長の指示で礼拝堂へ向かい始めていた。
年長の子が小さい子の手を引いている。
先ほどまで焼き菓子に目を輝かせていた子も、唇を結び、列から外れようとはしなかった。
怖くないはずがない。
けれど、泣き叫んではいない。
走り回ってもいない。
平時に教えてきたことは、無駄ではなかった。
私は小さく息を吐いた。
「行きます」
馬車に乗り込むと、マリエンヌが私の向かいに座った。
顔色は少し悪い。
だが、両手を膝の上で握りしめ、必死に背筋を伸ばしている。
「エレノア様、今の鐘は……」
「北門の警戒鐘です」
「北門……」
「まだ襲撃とは限りません。ですが、北側で何かが起きました」
そう答えながら、私は窓の外へ目を向けた。
馬車が動き出す。
孤児院の門が、背後で閉じられる音がした。
通りへ出ると、街の空気はすでに変わっていた。
市場へ向かっていた荷車が道端へ寄せられている。
店主たちは商品を広げたまま、互いに短い言葉を交わしていた。
子どもを連れた女が、子どもの手を強く握り直す。
商人の一人が帳面を閉じ、隣の店へ何かを伝えに走った。
浮き足立っている。
それは間違いない。
人の声は少し高く、足取りは速い。
誰もが北門の方角を気にしている。
見張り台の鐘がもう一度鳴るのではないかと、耳を澄ませている。
教会の鐘楼では、若い修道士が別の鐘紐に手をかけていた。
ただし、まだ鳴らさない。
院長からの合図を待っているのだろう。
市場の端では、魚屋の女が子どもを店の奥へ押し込みながら、隣の穀物屋へ何かを叫んでいる。
その声は高い。
けれど、乱れてはいない。
皆、怖いのだ。
怖いまま、手順に従っている。
けれど――。
誰も叫んでいない。
荷を捨てて逃げる者もいない。
押し合い、転ぶ者もいない。
店主たちは、品物を隠すより先に通りを空けている。
荷車の男たちは、馬車が通れるだけの幅を残して車輪を止めている。
年配の女が、戸口に出てきた子どもを中へ戻し、扉を閉めた。
まだ、崩れていない。
私はそれを見て、ほんの少しだけ胸の奥の力を抜いた。
よかった。
恐怖は伝わっている。
だが、恐慌にはなっていない。
この街は、まだ自分の足で立っている。
その時になって、私はマリエンヌが恐怖に支配されていないことに気がついた。
「皆様……慣れていらっしゃるのですか」
マリエンヌが小さく尋ねた。
「慣れているわけではありません」
私は答える。
「怖いものは、何度経験しても怖いものです」
窓の外で、庁舎の職員が二人、書類を抱えて走っていた。
その後ろから、教会の鐘楼へ向かう若い修道士が駆けていく。
「ですが、何をすればよいか知っている者は、怖くても動けます」
マリエンヌは息を呑んだ。
つい先ほど、調理場で彼女に言ったことだ。
優しさは、混乱に負ける。
だから、負けない形を作っておく。
それが、今ここにある。
馬車は庁舎前へ差しかかった。
庁舎の扉はすでに開かれていた。
中から机が運び出され、広場の端へ置かれている。
役人が木札を並べ、別の者が水桶の数を確認していた。
教会の方からは、院長が遣いを出したのだろう。
若い女が薪の束について、庁舎の者と言葉を交わしている。
早い。
確かに荒い部分は見て取れるが、悪くない。
「庁舎は、すでに動いています」
マリエンヌの声は、さっきより少し落ち着いていた。
「ええ」
「孤児院の院長先生も、きっと……」
「動いています。あの方は、手順を知っていますから」
そう。
知っている者は動ける。
動ける者がいれば、周りもつられて立ち直る。
ただし、それも最初だけだ。
本当に危険が迫れば、人は崩れる。
だから、崩れる前に次を打つ。
「護衛」
「はっ」
「橋へ急いで。ただし速度を上げすぎないように。馬を焦らせれば、通りが乱れます」
「承知しました」
馬車が石畳を進む。
橋が見えてきた。
川の向こうに、館がある。
昨日までマリエンヌが“館”と呼んでいたもの。
けれど、今は違って見えるはずだ。
あれは屋敷ではない。
砦だ。
最初に敵を受ける場所。
橋を守り、街を守るための盾。
父は、もう動いているし、兄も橋の手順を確認しているはずだ。
ならば私がすべきことは、街を崩さず館へ戻ること。
そして、次の指示を受ける前に、こちらでできることを終えておくこと。
「マリエンヌ」
「はい」
「私から離れないように」
彼女は一瞬だけ目を見開いた。
それから、しっかりと頷く。
「はい、エレノア様」
その返事に、少しだけ安心した。
馬車は、スピードこそ出してはいないが、のどかさとは真逆な様子で橋へ向かう。
浮き足立った街のざわめきが、背後へ流れていった。
けれど、それはまだ悲鳴ではなかった。
まだ間に合う。
私はそう判断した。
橋のたもとには、馬にまたがった兄の配下が待っていた。
馬車から身を乗り出すようして声を聞く。
隣でマリエンヌが目を丸くしているのに気付いたが、構っていられない。
「エレノア様。閣下より、至急お戻りをとのことです」
「状況は」
「北の見張り台から煙。騎馬、およそ三十。村へ向かっています」
私は首肯いた。
「急ぎ戻りますと伝えて」
「いえ、私は伝令のみです。これより庁舎にまいりますので」
私は首肯いた。
その程度に気付かないとは、私も相当動揺しているようだ。
……そういえば、慌てる者が一緒に居ると、かえって冷静になれるという。
となりのマリエンヌが落ち着いているのが悪いのだ。
そうに決まっている。
けれど、言い訳をしている場合ではない。
騎馬三十。
村へ向かっている。
数だけなら、街を落とすほどではない。
だが、村を焼き、民を追い、こちらの守りを揺さぶるには十分な数だ。
父はどう動く。
兄は橋を閉じるか。
街の避難は、どこまで進む。
考えることが、一気に増えた。
橋を渡りきる頃、館の正門が見えた。
昨日は、灰色の石で造られた大きな館に見えた。
けれど今は違う。
門は半ば閉じられ、兵が左右へ散り、厩舎からは馬が引き出されている。
屋敷ではない。
砦だ。
そして私は、そこの娘である。
「マリエンヌ」
私は馬車の揺れの中で、彼女へ告げた。
「ここから先は、決して私の前へ出ないように」
「……はい」
馬車が門をくぐる。
その向こうで、父と兄の声がすでに飛んでいた。




