第43話 令嬢達は、まつりごとの意味を確認し合う
エレノア様の視線が痛い。
学園でのエレノア様しか知らない人間なら、単なる厳しい視線だと思ったかもしれない。
氷の令嬢らしい、冷たくて、隙のない視線だと。
けれど、私はもう知ってしまっている。
この方の厳しさは、ただ人を突き放すためのものではない。
間違えた者を、そのまま転ばせないためのものだ。
だからこそ、余計に痛い。
……分家の騎士家の方々にからかわれた後で、調子に乗った弟へ私が向ける視線に似ているかもしれない。
分かってしまった。
分かってしまったから、余計に逃げ場がない。
「マリエンヌ」
「はい」
私は背筋を伸ばした。
孤児院の庭には、まだ子どもたちの明るい声が残っている。
先ほどの女の子は、何が悪かったのか分からない顔で、院長先生の後ろに隠れながらこちらを見ていた。
悪いのは、たぶんあの子ではない。
場を収めようとして、余計なことを言った私だ。
「王位、婚姻、継承に関わる話を、子どもたちの前で軽々しく口にしてはいけません」
「……はい。申し訳ありません」
「あなたの言葉は、あなたが思っているよりも周囲に残ります。特に、誰かを安心させようとして言った言葉ほど」
胸の奥が、きゅっと縮む。
怒鳴られているわけではない。
責め立てられているわけでもない。
それなのに、言葉が一つ一つ、きちんと刺さる。
「ですが」
エレノア様の声が、ほんの少しだけ柔らかくなった。
「私を助けようとしたことは、分かっています」
私は顔を上げた。
エレノア様は、こちらを見ていた。
厳しいままの目で。
けれど、その奥にあるものは、冷たさではなかった。
流石だと思った。ちゃんと、自分の気持ちと、何を言うべきかを切り分けている。
「次は、助け方を間違えないようになさい」
「……はい」
その返事だけは、ちゃんとできたと思う。
エレノア様は小さく頷き、それから院長先生へ向き直った。
「お騒がせしました。続けましょう」
「はい、お嬢様」
院長先生は、少しだけ微笑んで頷いた。
「では、調理場の様子を見ましょうか」
「はーい!」
「エレノア様にって、お菓子作ってたんだ」
「こら、それは後で出す予定だったでしょう」
子どもたちの声が、せめてもの慰めだった。
この後を考えて、少しだけ胃が痛かったけれど。
エレノア様はきちんと切り分けることが出来る方だ。
そして……切り分けた上で、きちんと言葉を選んでくるのだから。
教会の隣にある調理場は、思っていたよりも広かった。
普段から毎日使っているわけではないらしく、奥の大きな竃には布が掛けられている。
けれど、その周囲はきれいに掃き清められ、壁際には薪が整然と積まれていた。
大鍋が二つ、棚の上に伏せて置かれている。
水桶、塩の壺、干した豆の袋、布で包まれた乾燥野菜。
私は思わず足を止めた。
「ここは……」
「普段は祭礼や施しの時に使います」
エレノア様が答える。
「ですが、有事には炊き出しの場になります」
「有事……」
その言葉だけで、朝に食堂で聞いた話が蘇った。
北の巡回。
火の跡。
若いゼヌン。
手柄を欲しがる者。
エレノア様は、調理場の奥へ進みながら、壁際の薪へ目を向ける。
「院長、薪の数は」
「昨日の夕方に確認しました。通常の施しなら三日分。有事の炊き出しなら、一日半ほどです」
「足りませんね」
「ええ。ですから、庁舎から回していただく予定です。それと、城壁の倉庫から」
「倉庫は城内側扉がまだ修理中のはず。運ぶなら早めに」
「承知しています」
二人の会話は、あまりにも自然だった。
私は調理場を見回した。
ここは、子どもたちの食事を作る場所だと思っていた。
教会で施しをするための場所だと思っていた。
でも、それだけではない。
戦になれば、ここは人を生かす場所になるのだ。
「街の者は、館へ避難するのではありませんの?」
思わず尋ねると、エレノア様がこちらを見た。
「無理です」
はっきりとした答えだった。
「川の向こうにある館は、最初に敵を受ける場所です。
指揮、備蓄、騎兵、伝令を動かすための拠点でもあります。そこへ街の者を入れれば、かえって動きが止まります」
「では、街の方々は……」
「館が守ります」
エレノア様は静かに言った。
「川が天然の壕となります。橋の入口は館が守ります。
館と街は別々に見えて、橋を挟んで一つの防衛線です」
橋を挟んで、一つの防衛線。
昨日、馬車の中から見た川と橋を思い出す。
あの時は、ただ立派な街と、川向こうの大きな館だと思っていた。
でも違った。
川は景色ではない。
橋は飾りではない。
館はただの屋敷ではない。
全部、守るための形なのだ。
「神は足掻く者を愛で、縋るだけの者を見ない」
エレノア様は、教会の壁に置かれた大鍋へ視線を向けながら、教典の一節を言った。
「祈りは大切です。
ですが、神は何もしない人間に手を差し伸べません」
私は何も言えなかった。
王都で学んだ礼法。
それとは正反対の、男爵領での貧しいけれどのんびりした暮らし。
けれど、ここで見せられているものは、そのどちらともまるで違う。
もっと重くて、もっと近い。
人が生きるための形だ。
「お嬢様、これも見る?」
さっきの男の子が、胸を張って小さな板を持ってきた。
板には、いくつかの印が刻まれている。
「これは?」
私が尋ねると、男の子は得意げに答えた。
「水桶の数! こっちが大きいやつで、こっちが小さいやつ」
「この子たちには、数の確認を手伝わせています」
院長先生が穏やかに説明する。
「いざという時、自分が何をすればよいか知っている子は、泣き続けずに済みますから」
私は思わず、子どもたちを見た。
一人は薪の束を数えている。
一人は布をたたんでいる。
年長の女の子は、小さい子の手を引いて、どこへ並ぶのかを教えている。
遊びではない。
けれど、無理やりやらされているようにも見えない。
彼らは、自分たちにも役目があると知っているのだ。
「子どもまで……」
私が呟くと、エレノア様は少しだけ目を伏せた。
「できることを知っている子は、恐慌に巻き込まれにくいのです」
「恐慌……」
「何も知らない者ほど、走ってはいけない時に走り、集まってはいけない場所に集まります。だから、平時に教えます」
その言葉に、私は先ほどの孤児院の庭を思い出した。
「走らない。転びます」
あの一言で、子どもたちが足を緩めた理由が、少し分かった気がした。
エレノア様は、ただ厳しいのではない。
この子たちに、危ない時に生き残る方法を覚えさせているのだ。
「マリエンヌ」
「はい」
「あなたが今見ているのは、慈善ではありません」
私は息を呑んだ。
「教会も、孤児院も、施しも、もちろん大切です。ですが、領地を預かる者にとっては、それだけでは足りません。困った者を助ける仕組みは、有事に人をまとめる仕組みでもあります」
「……はい」
「可哀想と思うだけでは、人は救えません。誰が動き、どこへ集め、何を食べさせ、どの順番で逃がすか。それを決めておかなければ、優しさは混乱に負けます」
優しさは、混乱に負ける。
その言葉が、胸に残った。
私は、たぶん今まで、優しい人になりたいと思っていた。
男爵領ではそれで十分だった。
けれど、それだけでは足りないのだ。
安心させるためには、何をすればよいか知っていなければならない。
守るためには、守る形を作っておかなければならない。
エレノア様は、それを知っている。
だから、この街の人たちは、あの方を信じているのだ。
「お嬢様、豆の袋はこっちで合ってる?」
年長の女の子が尋ねる。
エレノア様は振り返った。
「湿気の少ない壁側へ。床に直接置かないように」
「はーい」
「返事は一度で十分です」
「はい」
子どもたちがくすくす笑う。
私はその様子を見て、思わず口元を緩めた。
厳しい。
でも、誰も離れていかない。
むしろ、厳しく言われることを、少し誇らしそうにしている。
その時、院長先生が奥から小さな包みを持ってきた。
「お嬢様、子どもたちが昨日から準備していたものです」
「何ですか」
「焼き菓子です。お帰りになると聞いて、皆で作りまして」
子どもたちが、途端にそわそわし始めた。
「形、ちょっと変になったけど」
「焦げたのは隠したよ」
「隠してはだめでしょう」
エレノア様が即座に言う。
子どもたちは「あっ」と声を上げる。
私は耐えきれず、少し笑ってしまった。
エレノア様がこちらを見る。
「何か?」
「い、いえ。何も」
今日、何度このやり取りをしているのだろう。
院長先生が包みを開くと、小さな焼き菓子がいくつも並んでいた。
形は少し不揃いだった。
丸いもの、平たいもの、端が欠けたもの。
けれど、どれも丁寧に焼かれている。
エレノア様は、一つを手に取った。
「……よくできています」
その一言で、子どもたちの顔がぱっと輝いた。
「ほんと?」
「焦げてない?」
「甘い?」
「まだ食べていません」
「じゃあ食べて!」
「視察中です」
「一口だけ!」
エレノア様は、しばらく焼き菓子を見下ろしていた。
それから、小さく息を吐く。
「一口だけです」
歓声が上がった。
エレノア様は焼き菓子を少しだけかじる。
子どもたちが、息を詰めて見守る。
私はなぜか、自分まで緊張してしまった。
「……少し硬いです」
子どもたちが一斉に肩を落とす。
「ですが、悪くありません。次は焼き時間を少し短くしなさい」
次の瞬間、子どもたちはまた笑顔になった。
「じゃあ、また作る!」
「次はもっと柔らかくする!」
「お嬢様、また食べてね!」
「約束はしません」
「時間があれば?」
「時間があれば、です」
また、子どもたちが笑う。
私は胸の奥が、じんわりと温かくなるのを感じた。
「では、そろそろ――」
エレノア様がそう言いかけた時だった。




