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断罪劇で王子が破棄したのは婚約ではなく計画でした ――断罪されたはずの公爵令嬢は男爵令嬢の王妃教育係になります  作者: 製本業者


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第42話 令嬢達は、市井を感じる

「では、まいりましょう」


その言葉とともに、エレノア様は玄関前に停められた馬車へと視線を向けた。


来る時に使った長距離用の馬車とは違う。

装飾は少なく、車体もいくらか小さいけれど、見窄らしいわけではなかった。


木材はよく磨かれ、車輪の金具もきちんと手入れされている。

座席も簡素ではあるけれど、背もたれの角度や足元の広さは考えられていて、使い勝手は良さそうだった。


豪華ではない。

でも、雑ではない。


この家のものは、どこまでもそうなのだと思う。


「まず、市場へ」


エレノア様の言葉に、馭者が「はい、お嬢様」と答えた。

それから手綱を軽く鳴らし、馬へ合図を送る。


馬車はゆっくりと動き出した。


館を出ると、朝の空気が少しだけ冷たく感じられた。


空は晴れている。

けれど王都の朝とは違い、どこか土と水の匂いが強い。


橋を渡ると、すでに荷車が何台か動いていた。

農夫らしき男たちが麦袋を積み、商人らしき者が帳面を片手に何かを確認している。

道端では、子どもが母親に手を引かれながら、こちらを見上げていた。


その子が、ぱっと顔を輝かせる。


「お嬢様だ!」


声に気づいたのか、近くにいた大人たちもこちらを向いた。


「お嬢様、お帰りなさいませ」


「お早うございます、お嬢様」


「今年は早くお戻りで」


次々と声がかかる。


私は思わずエレノア様を見た。


エレノア様は、少しだけ窓を開け、落ち着いた声で応じる。


「お早うございます。荷は順調に入っていますか」


「はい。南の豆は昨日入りました」


「では、北側の倉には回さず、市場近くの倉へ一度入れてください。雨が続けば傷みます」


「承知しました」


別の女が、籠を抱えたまま頭を下げる。


「お嬢様、去年教えていただいた塩漬け、今年も上手くできましたよ」


「それはよかったです。ですが、塩は使いすぎないように。冬場に足りなくなります」


「はいはい。お嬢様は相変わらず細かいねえ」


「必要なことです」


少しだけ不機嫌そうに言い返すエレノア様を見て、その女の人は楽しそうに笑った。


驚いた。


怒っているわけではない。

恐れているわけでもない。


親しげなのだ。


王都で見るエレノア様は、いつも完璧で、隙がなくて、近寄りがたい。

学園であれば、誰もが背筋を伸ばして道を譲る。


けれど、この街の人たちは違った。


敬意はある。

でも、距離が近い。


お嬢様、と呼ぶ声の中に、懐かしさや親しみが混じっている。


「……皆様、エレノア様をよくご存じなのですね」


思わずそう言うと、エレノア様は当然のように頷いた。


「領地の者ですもの。顔を知らずに治めることなどできません」


その言葉は、冷静だった。

けれど私は、その冷静さの中に、少しだけ誇らしさのようなものを感じた。


橋を渡る頃には、人の流れがさらに増えていた。


エレノア様は、橋の上では言葉少なだった。

代わりに、視線だけがよく動く。


川を下る小舟。

橋のたもとの見張り。

荷車の列。

市へ向かう人と、館の方へ戻る人。


私は最初、品物や建物を見ようとしていた。

でも、エレノア様の視線を追っているうちに、少しだけ分かってくる。


見るべきものは、むしろ見えないもの。


人の流れ。

足の速さ。

荷の量。

店主の顔色。

道の端で立ち止まっている者。


それら全部が、何かを語っている。


「市場では、まず何を見ますか」


馬車を降りる前に、エレノア様が問いかけた。


私は少し考える。


品物の種類、値段。

人の多さ。


昨日までなら、そう答えていたかもしれない。


でも、今は違う気がした。


「……人の流れ、でしょうか」


エレノア様の目が、ほんのわずかに細くなる。


「続けて」


「品物の量や値段も大事だと思います。けれど、それを買いに来る人がどういう顔をしているか、荷を運ぶ人が急いでいるか、店主が落ち着いているか……そこを見なければ、数字だけでは分からないのではないかと」


言ってから、私は少し不安になった。


間違っているかもしれない。

足りないかもしれない。


けれどエレノア様は、静かに頷いた。


「よろしいですわ」


その一言だけだった。


でも、それで十分だった。

胸の奥が少しだけ明るくなる。


市場へ入ると、音と匂いが一気に押し寄せてきた。


焼いたパンの香り。

魚の匂い。

野菜を並べる音。

商人の声。

子どもたちの笑い声。

荷車の車輪が石畳を噛む音。


王都の市場よりは小さい。

けれど、活気は負けていない。


むしろ、こちらの方が人の顔が近い。


「あら、お嬢様」


最初に声をかけてきたのは、魚を並べていた中年の女性だった。


「お帰りなさいませ。まあ、今日はお客人もご一緒で」


「ええ。こちらはハウゼン男爵令嬢、マリエンヌです。領地の暮らしを学んでいただいています」


紹介され、私は慌てて礼をした。


「お初にお目にかかります。マリエンヌ・ハウゼンにございます」


「まあまあ、ご丁寧に。お嬢様の生徒さんなら、きっと大変でしょう」


「大変、ですか」


「ええ。お嬢様は昔から、教える時は容赦がありませんからねえ」


私は思わずエレノア様を見た。


エレノア様は何も言わない。

ただ、少しだけ目元が冷たい。


魚屋の女性は、くすくすと笑いながら続けた。


「でも、面倒見はいいんですよ。昔、ここの魚の匂いが苦手で眉を寄せていたお嬢様が、今では魚の値段と保存具合で眉を寄せるんですから。立派になられて」


「余計なことは言わなくてよろしいです」


「はいはい」


この「はいはい」が、完全に子どもをあやす時の声だった。


私は慌てて口元にハンカチを当てた。

同時にエレノア様が、こちらを見る。


「何か?」


「い、いえ。何も」


危なかった。


次に向かったのは、穀物を扱う店だった。


店主は年配の男性で、エレノア様を見るなり深く頭を下げた。

ただし、その顔はどこか嬉しそうだった。


「お嬢様。今年は北の麦が少し細いです」


「雨の時期がずれましたものね。倉へ入れる前に、乾き具合を必ず見てください」


「もちろんです。去年のように叱られるのは御免ですからな」


「叱られるようなことをする方が悪いのです」


「はいはい。お嬢様は昔から正しい」


まただ。


また、この「はいはい」だ。


市場の人たちは、エレノア様を敬っているし信頼している。

けれど同時に、少しだけ微笑ましく見ている。

男爵領(うち)の領民と、規模は違うが、距離感は一緒だ。


完璧な公爵令嬢。

王都でのエレノア様はそうだった。


でも、ここでは違う。


ここでは、エレノア様は「お嬢様」なのだ。

領民の顔を知っていて、領民からも顔を知られている人。


私はそのことに、少し圧倒されていた。


市場を回る間、エレノア様はただ挨拶をしているだけではなかった。


野菜の並びを見て、今年は根菜が早いと言う。

薬草を扱う店で、乾燥の具合を確かめる。

布屋で、冬用の厚手の布が去年より少し高いことに気づく。


そして、そのたびに私へ問いかける。


「今の値上がりは、何を意味しますか」


「冬支度が早まっている……のでしょうか」


「一つです。他には?」


「北の方で、布の需要が増えている?」


「悪くありません」


褒められているのか、まだ足りないと言われているのか分からない。

たぶん、両方なのだと思う。


けれど、不思議と嫌ではなかった。


エレノア様の問いは厳しい。

でも、見落とさせないためのものだ。


私は今、ただ市場を歩いているのではない。

人の暮らしを見る練習をしているのだ。


市場の後、庁舎へ向かった。


そこでは記録係が税や倉の帳簿を広げ、エレノア様は数字を見ながらいくつか質問した。

私にも、数字の裏に人の暮らしがあるということが少しずつ分かってきた。


麦の収量。

塩の使用量。

冬に配る薪の数。

教会へ回す布と薬。


一つ一つはただの数字なのに、それが増えたり減ったりするだけで、誰かの生活が揺れる。


王妃候補として必要なのは、綺麗に笑うことだけではない。

そう思い知らされた。


そして最後に、私たちは教会の隣にある孤児院へ向かった。


孤児院は、思っていたより明るい場所だった。


古い建物ではある。

壁にも床にも、使い込まれた跡がある。

けれど窓はよく磨かれ、庭には小さな畑が作られていた。


私たちが門をくぐると、子どもたちが一斉に顔を上げた。


「お嬢様!」


「エレノア様だ!」


「本当に帰ってきた!」


あっという間に、子どもたちが駆け寄ってくる。


私は思わず一歩下がりそうになった。

けれどエレノア様は、少しも慌てない。


「走らない。転びます」


その一言で、子どもたちはぴたりと足を緩めた。


すごい。


怖がっているのではない。

ちゃんと聞いているのだ。


一番小さな女の子が、エレノア様のスカートの端をつかんだ。


「お嬢様、本読んでくれる?」


「今日は視察です。時間があれば一冊だけ」


「ほんと?」


「約束はしません。時間があれば、です」


「じゃあ、時間ある!」


「決めるのはあなたではありません」


厳しい。

でも、子どもたちは笑っている。


別の男の子が、胸を張って言った。


「おれ、字が読めるようになった!」


「そう。では後で確かめます」


「えっ」


「読めると言ったのでしょう」


「……ちょっとだけ」


「では、ちょっとだけ確かめます」


子どもたちが笑った。


その光景を見て、私は胸が温かくなるのを感じた。


エレノア様は、ここでもエレノア様だった。

厳しくて、隙がなくて、逃がしてくれない。


でも、子どもたちはそれを怖がっていない。

むしろ、エレノア様に見てもらいたくて仕方ないようだった。


孤児院の院長らしき年配の女性が近づいてきて、深く礼をした。


「お嬢様、お帰りなさいませ」


「ご無沙汰しております。子どもたちの様子は?」


「皆、元気です。冬の間に少し風邪が流行りましたが、いただいた薬草と布のおかげで大事には至りませんでした」


「それは何よりです」


エレノア様の声が、ほんの少しだけ柔らかくなった。


本当に、ほんの少しだけ。

でも、私は気づいた。


この人は、この子たちのことも、ちゃんと見ている。


その時だった。


さっきの小さな女の子が、不思議そうに首を傾げた。


「ねえ、お嬢様」


「何ですか」


「お嬢様って、王妃様にならないの?」


空気が止まった。


本当に、止まった気がした。


院長が息を呑む。

近くにいた年長の子が「こら」と小さく言う。

護衛の一人が視線を動かした。


そしてエレノア様は――。


珍しく、言葉に詰まっていた。


「それは……」


その横顔を見て、私は反射的に口を開いてしまった。


助けなければ、と思ったのだ。


本当に、そう思ったのだ。


「ええと……王妃様になることと、レオン殿下のお妃様になることは、同じではありませんから」


言った瞬間、自分でも何かを間違えた気がした。


エレノア様が、ゆっくりこちらを見る。


目が……

とても、怖い。


「マリエンヌ」


「は、はい」


「子どもたちの前で軽々しく話して良い内容ではありませんよ?」


「申し訳ありません……」


私は小さくなった。


けれど、子どもたちは違った。


「そっか」


「王妃様は王様のお妃様だもんね」


「レオン殿下って王子様だよね」


「じゃあ、王妃様じゃなくても、お妃様にはなれるんだ」


「なんだ、そうか」


次々と納得していく。


いや、私が言ったのだけれど……

そんなに綺麗に納得しないでほしい。


エレノア様の視線が、さらに冷たくなった。


私はそっと目を逸らす。


子どもたちは、もうすっかり分かった顔をしていた。


一番小さな女の子が、にこにこと笑う。


「じゃあ、お嬢様はまだプリンセスになれるんだ」


エレノア様が、静かに息を吸った。


私は反射的に背筋を伸ばす。


次の教育は、たぶん、とても厳しくなる。


そう確信したところで、孤児院の庭に、子どもたちの明るい笑い声が広がった。


次回は8月15日投稿します。

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