第41話 公爵令嬢は、予想外に煩わされる
「お早うございます。お湯をお持ちしました」
侍女がそう言って、鏡台の前へ進み出た。
陶器の洗面器に、まず水を注ぎ、続けて湯を少しずつ足していく。
白い湯気が、朝の薄い光の中でふわりと立った。
「ありがとう。後はよろしくてよ」
「かしこまりました」
侍女は一礼して下がる。
私は袖を少し上げ、両手を洗面器へ沈めた。
指先から、じんわりと温かさが広がっていく。
そう。
昨日のことは忘れる。
昨日は何もなかった。
何もなかったのだ。
父と兄が余計なことを言った気もするが、それは気のせいだ。
鏡の前で髪を整えている時に、暦だの、綴りだの、魚だのという言葉が聞こえてきたような気もするが、あれは幻聴である。
聞いていない。
言われていない。
覚えていない。
そう決めた。
決めたはずなのに、鏡の中の自分は、少しだけ不機嫌そうな顔をしていた。
「……朝から、何をしているのかしら」
小さく呟いて、私は顔を洗う。
冷静に。
いつも通りに。
今日はマリエンヌに、領地を見る目を教える日なのだから。
身支度を終えて部屋を出ると、廊下にはすでに館の朝が動き始めていた。
遠くで、馬具の金具がかすかに鳴る。
階下からは、使用人たちの抑えた声が聞こえた。
誰かが水差しを運び、別の誰かが書類を抱えて足早に通り過ぎていく。
王都の屋敷の朝とは違う。
ここでは、朝食前から領地が動いている。
貴族の屋敷というより、指揮所に近い。
そういうところまで、我が家らしいと思う。
王都の貴族には、朝食を寝室でとる者もいるそうだが、我が家ではそのような習慣はない。
父も兄も、朝から顔を合わせ、報告を聞き、予定を確かめる。
食卓は食事の場であると同時に、その日の動き出しを揃える場所でもあった。
食堂へ向かう途中、ちょうど隣の客室の扉が開いた。
マリエンヌが姿を見せる。
「お早うございます」
「お早うございます」
声が重なった。
思わず顔を見合わせ、私たちは小さく笑った。
昨夜より、少し表情が柔らかい。
緊張は残っている。けれど、昨日のように肩へ力が入りすぎているわけではない。
ただ――。
目元に、妙な浮つきがある。
寝不足だろうか。
それとも、何か考え事でもしていたのだろうか。
「よく眠れまして?」
「は、はい。たぶん」
たぶん。
そこは、普通は言い切るところではないかしら。
私は一瞬だけ眉を動かしかけたが、すぐにやめた。
人には、昨夜のことを思い出されたくない朝というものがある。
私にもある。
今まさにある。
「……そう。なら、よろしいですわ」
「エレノア様は、よくお休みになれましたか?」
「ええ。何も問題ありませんでした」
即答した。
少し早すぎたかもしれない。
マリエンヌが、不思議そうに首を傾げる。
私は何事もなかったように歩き出した。
食堂に入ると、父と兄はすでに席についていた。
ただし、食事を始めているわけではない。
父の横には執事が控え、兄の前には小さな地図と数枚の報告書が置かれている。
兵長らしき男が、扉の近くで背筋を伸ばしていた。
「北の巡回から戻った者の話では、昨日よりさらに二つ、火の跡が見つかっております」
兵長が低い声で告げる。
父は腕を組んだまま、地図へ目を落としていた。
「村を焼いた跡ではないな?」
「はい。野営跡か、示威のための火と思われます」
「こちらを見ている、ということか」
兄が地図の一点を指で押さえる。
「あるいは、見せている。どちらにせよ、まだ本隊ではないでしょう」
「ゼヌンが代替わりしたばかりだったか」
父の言葉に、兵長が頷く。
「はい。新しいゼヌンは、かなり若いとのことです。諸部族をまとめるため、武威を示す必要があるのではないかと」
「若い長には、手柄がいる」
兄が静かに言った。
「そして、手柄を欲しがる者は、たいてい余計なことをする」
朝食前に聞くには、いささか物騒な話だった。
マリエンヌがわずかに息を呑む。
私は彼女の横顔を見てから、父へ視線を戻した。
「では、本日の視察は中止になさいますか?」
「いや」
父はあっさり首を振った。
「街の内側を見るだけなら問題はない。むしろ予定通り見ておいた方がいい。こういう時ほど、市場と倉の顔色を見るべきだ」
兄も頷く。
「護衛は一名増やします。橋の上と庁舎前には、いつも通り人を置いておきましょう」
「分かりました」
私は短く答えた。
予定は変えない。
ただし、気は抜かない。
それがこの家のやり方だ。
父はそこでようやく顔を上げ、マリエンヌへ笑いかけた。
「朝から物騒な話で驚かせたかな、マリエンヌ嬢」
「い、いえ。あの……領地では、こういうことも朝に確認されるのですね」
「確認するとも。夜に考えても腹は減るし、朝に考えても腹は減る。なら朝食の前に片づけた方がよい」
「父上、それは説明として適切ではありません」
兄が淡々と言う。
「だが事実だ」
「事実でも、令嬢に聞かせる言い方というものがあります」
「では、お前が言え」
兄は涼しい顔でマリエンヌを見る。
「領地では、食事も休息も、領民の暮らしと切り離せません。市場、橋、倉、教会、孤児院。どこか一つに不具合が出れば、別の場所にも必ず影響が出ます。ですから、朝のうちにその日の動きを揃えるのです」
「……はい」
マリエンヌは真剣に頷いた。
その目から、先ほどの浮つきが少し消える。
代わりに、学ぼうとする光が宿った。
よろしい。
私は内心で頷く。
やはりこの子は、切り替えができる。
四人が席につくと、朝食が運ばれてきた。
王都の貴族の朝食と比べれば、多少、量は多い。
焼いたソーセージ、豆を煮込んだもの、黒パン、卵、薄く切った燻製肉。
それに温かいスープ。
マリエンヌは一瞬だけ目を丸くしたが、すぐに礼を言って手をつけた。
驚いてはいるが、戸惑ってはいない。
田舎の領主家としては普通だと受け取ったのか。
それとも、父と兄を見て納得したのか。
……後者の可能性も、もちろんある。
食事が進むにつれ、場の空気は少しずつ和らいでいった。
父は市場の露店の配置について話し、兄は庁舎の記録庫を見せる順番を確認する。
私は今日の視察の意図を頭の中で組み直しながら、マリエンヌの様子を見ていた。
彼女は緊張している。
けれど、萎縮はしていない。
昨日、父と兄にあれだけ妙な話を聞かされても逃げ腰になっていないのだから、十分に上出来だ。
食後のコーヒーが出されたところで、父がふと思い出したように口を開いた。
「そういえば、今日は市場へ行くのだったな」
「ええ」
「殿下に似た者を見つけても、固まるなよ」
私は吹き出さなかった。
偉い。
今の私は、非常に偉い。
「お・と・う・さ・ま?」
「ははは、悪かった。いや、昨日のマリエンヌ嬢の言葉は実に面白かったのでな」
「面白がるところではありません」
「そうか? あれほど的確な感想も珍しいと思うが」
「お父様」
兄が、コーヒーを一口飲んでから口を挟む。
「父上。昨日の反応を見る限り、レオン王子の話題は視察前には避けた方がよさそうです」
「兄上」
「特に、暦と魚の話は」
「兄上」
「分かった。では孤児院の話にしよう」
嫌な予感がした。
「そういえば、殿下と孤児院へ行った時、お前は子どもたちに向かって言っていたな。
私たちは、父と母のようなものだから安心してよい、と」
私はカップを静かに置いた。
今度こそ、本当に静かに置いた。
「お二人とも」
声は穏やかだったと思う。
少なくとも、私はそう信じている。
「朝から余計なことを言わないでください」
父は愉快そうに笑い、兄は眼鏡の位置を直した。
マリエンヌは、両手でカップを持ったまま、目をぱちぱちと瞬かせている。
まただ。
また、あの顔だ。
驚いている。
けれど、恐れてはいない。
むしろ、何か大事なものを見つけたような顔をしている。
私は軽く咳払いをした。
このままでは、また余計な方向へ話が転がる。
「本日の視察について説明します」
そう告げると、ようやく父と兄が口を閉じた。
完全に閉じたわけではない。
笑いを堪えている顔だったが、少なくとも言葉は止まった。
「今日は、王都では学べない領民との接し方を見ていただきます」
私はマリエンヌへ向き直る。
「まず橋を渡り、市場へ向かいます。市場では、品物の種類や値段だけを見るのではありません。人の流れ、荷の入り方、店主たちの表情、買いに来る者の様子を見ます」
「はい」
「次に庁舎です。記録と税の流れを見ます。数字は退屈に見えるかもしれませんが、民の生活は必ず数字に残ります」
「数字に……生活が」
「ええ。穀物が足りなければ、買われるものが変わります。冬が厳しければ、薪と薬の記録が増えます。子どもが増えれば、教会と孤児院の動きも変わります」
マリエンヌの表情が引き締まった。
「そのあと、教会と孤児院へ向かいます。そこでは、困っている者を見るだけでは足りません。誰が支えているのか、どこに手が届いていないのかを見ます」
「……はい。分かりました」
よい返事だった。
ただ頷くだけではない。
言葉の意味を飲み込もうとしている。
私は少しだけ表情を和らげた。
「王都で学ぶ礼法は、人前に立つためのものです。ですが、領地で学ぶべきことは、人の暮らしを見落とさないためのものです」
マリエンヌはまっすぐ私を見た。
「エレノア様は、それをずっと見てこられたのですね」
不意にそう言われ、私は一瞬だけ返答に詰まった。
「……当然です。公爵家の娘ですもの」
そう答えると、父と兄が妙な顔をした。
やめてください。
そこで微笑ましそうにしないでください。
父が低く笑う。
「当然と言いながら、昔から誰より真剣だったがな」
「父上」
兄が止めた。
珍しく止めた。
と思ったのに、兄はすぐに続ける。
「そのあたりも、市場へ行けば分かるでしょう。領民は、案外よく見ていますから」
私は兄を睨んだ。
余計なことを。
マリエンヌは首を傾げていたが、深く尋ねてはこなかった。
それでいい。
今はまだ、それでいい。
私は立ち上がる。
「では、支度が整い次第、出発します」
父が頷いた。
「気をつけて行ってこい。護衛は増やしてある。だが、あまり固くなりすぎるな。市場は生き物だ。怖がって見れば、怖い顔しか見せん」
兄も席を立ちながら言う。
「橋の上では立ち止まりすぎないように。川を見るなら、帰りにしなさい。行きは人の流れを止めます」
「分かっています」
「それから、エレノア」
兄の声が少しだけ柔らかくなった。
「昨日のことは忘れてやる」
私は足を止めた。
「……何のことでしょう」
「そうだな。何もなかった」
父が、実に楽しそうに頷く。
「何もなかったとも」
本当に、この家の男たちは。
私は振り返らずに歩き出した。
「マリエンヌ、行きますわよ」
「は、はい」
背後で、父と兄が小さく笑う声が聞こえた気がした。
気のせいだ。
きっと気のせいだ。
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