第40話 男爵令嬢は、現状に思いをはせる
客室に案内されてからも、私はしばらく落ち着かなかった。
ルクレール公爵家の客室は、応接室と同じく華美ではない。
けれど、必要なものはすべて整っていた。
寝台の布は柔らかく、机は使いやすい位置に置かれ、窓辺には小さな椅子と膝掛けまで用意されている。
余計なものはない。
けれど、不足もない。
それが、かえって緊張を誘う。
実家の部屋なら、置き場所の決まっていないリボンや、読みかけの本や、母が勝手に置いていった香袋があって、もう少し気が抜ける。
ここには、そういう隙がない。
それなのに、冷たくはなかった。
ああ、と私は思う。
やっぱりこの家は、エレノア様に似ている。
厳しくて、整っていて、近寄りがたい。
……ように見える。
でも、ちゃんと人を休ませるための形をしている。
侍女の方に手伝ってもらいながら、髪飾りを外し、首元の留め具を緩める。
侍女の方は、驚くほど静かな手つきだった。
髪飾りを外す時も、櫛を通す時も、布の擦れる音さえ控えめで、まるでこの部屋そのものが眠りにつく準備をしているようだった。
「何かございましたら、鈴をお鳴らしくださいませ」
そう言って一礼し、侍女は下がっていく。
扉が閉まる音まで、柔らかかった。
完全に一人になると、急に今日一日の出来事が押し寄せてきた。
一つ一つ身軽になっていくはずなのに、胸の奥だけは、ずっと騒がしいままだった。
「……今日は、いろいろありすぎました」
小さく呟いた声は、たぶん誰にも届かなかった。
公爵領の街。
川を挟んだ城。
公爵閣下とアルベール様。
応接室。
コーヒー。
砂糖。
そして――エレノア様の昔話。
思い出しただけで、また少し顔が熱くなる。
……いや、私が熱くなることではない。
あの場で恥ずかしそうにしていたのは、どう考えてもエレノア様の方だ。
あのエレノア様が、
昔は第一王子殿下が来る日を暦に印して、
綴りを覚えて、
魚を綺麗に食べられなくて落ち込んでいた。
想像できない。以前なら。
でも、少しだけなら想像できてしまう。今なら。
幼いエレノア様が、背筋を伸ばして、精一杯大人びた顔をして。
第一王子殿下に恥ずかしくないようにと、きっと今よりずっと必死に頑張っていたのだ。
そう思うと、胸の奥がじんわりと温かくなる。
「……素敵、だったな」
思わず、声が漏れた。
エレノア様と第一王子殿下。
二人は、やっぱりお似合いなのだと思う。
ただ綺麗だからではない。
ただ身分が釣り合うからでもない。
エレノア様にとって、第一王子殿下は、ずっと目標だった。
そして第一王子殿下にとっても、たぶんエレノア様は、ただ与えられた婚約者ではなかったのだと思う。
あの誕生パーティーのダンスを思い出す。
視線を合わせない。
口を開けば、すぐに言葉の刃を交える。
なのに、足はぴたりと合っていた。
あの二人は、きっと言葉より先に分かってしまうのだ。
相手がどこへ動くのか。
何を考えているのか。
どこで踏み込み、どこで引くのか。
怖いくらいに、合っていた。
だから私は思ったのだ。
最初からそうなるように出来ていたみたいだ、と。
そう言った時、エレノア様は困った顔をしていた。
でも、本当に嫌そうではなかった気がする。
少なくとも、私にはそう見えた。
私は寝台の端に腰かけ、膝の上で指を組んだ。
だったら、私はどうなのだろう。
私は、誰を目標にしてきたのだろう。
第一王子殿下は、すごい方だ。
私を見出してくださった。
逃げるな、と言ってくださった。
あの方がいなければ、私は今、ここにいない。
王宮の大広間で場を塗り替えた姿も、
エレノア様と踊る姿も、
まるで物語の中の王子様みたいだった。
……そう。
物語の中の王子様。
私は、第一王子殿下に憧れていたのだと思う。
眩しい人。
遠い人。
舞台の上で、自分の運命を変えてしまった人。
それは、たぶん間違いない。
けれど。
ふいに、別の顔が浮かんだ。
柔らかい声。
こちらを急かさない手。
王宮の広間で、私が転ばない速さで歩いてくれた人。
――ジュリアン殿下。
胸が、跳ねた。
「……え?」
自分で自分に驚いて、私は思わず顔を上げた。
誰もいない客室の中で、燭台の火だけが静かに揺れている。
どうして今、第二王子殿下の顔が浮かぶのだろう。
第一王子殿下とエレノア様の話を思い出していたはずなのに。
あの二人がお似合いだと思っていたはずなのに。
自分も、そんなふうに誰かを目標にしたことがあるのかと考えていただけなのに。
どうして。
誕生パーティーの一曲が、急に鮮やかに戻ってくる。
手を取られた瞬間の熱。
「緊張していますか」と聞かれた時の距離。
「たいしたものです」と言われた時、胸の奥がふわりと明るくなった感じ。
それから、あの言葉。
――あの二人みたいに、息が合ってるように見えているといいなって。
私は両手で頬を押さえた。
熱い。
とても熱い。
「ち、違う……違う、わよね?」
誰に言い訳しているのか、自分でも分からない。
私は第一王子殿下に憧れていた。
それは本当だ。
第一王子殿下は、すごい方だ。
王子様みたいで、眩しくて、遠くて。
でも、第二王子殿下は違う。
第一王子殿下を思い出す時、私は少し背筋を伸ばしたくなる。
恥ずかしくない自分でいなければ、と思う。
あの方に見出された者として、逃げてはいけないと思う。
けれど、第二王子殿下を思い出す時は違う。
背筋を伸ばしたいのに、同時に肩の力が抜けてしまう。
ちゃんとしていたいのに、少しだけ素の自分を見られてもいいのかもしれないと思ってしまう。
それが、怖い。
第一王子殿下への憧れより、ずっと近くて、ずっと逃げ場がない。
第二王子殿下を思い出す時の胸の熱は、少し違う。
遠くの光を見上げるような気持ちではない。
もっと近くて、もっと恥ずかしくて、もっと困る。
優しい声を思い出すだけで、胸が落ち着かなくなる。
手を取られた時の感触を思い出すだけで、指先まで熱くなる。
また会えるかもしれないと聞いた時、私は思わず顔を上げてしまった。
あれは、どうして?
「……ひょっとして」
その言葉を口にした瞬間、心臓が強く鳴った。
ひょっとして、私が好きなのは――
第一王子殿下ではなく。
「ジュリアン殿下……?」
名前を口にした途端、私は耐えきれずに寝台へ倒れ込んだ。
枕に顔を埋める。
だめだ。
これはだめだ。
明日から公爵領での教育が始まるのに、こんなことを考えている場合ではない。
領民。
家臣。
公爵家。
北辺。
学ぶべきことは山ほどある。
それなのに。
「……どうしよう」
小さな声は、枕に吸い込まれて消えた。
エレノア様と第一王子殿下は、あんなにもお似合いで。
私はそれを素敵だと思った。
なのに、そのすぐ後に浮かんだのは、第二王子殿下の顔だった。
私は寝台の上で、もう一度枕を抱きしめる。
眠らなければ。
明日はきっと、今日より大変なのだから。
そう分かっているのに、目を閉じるたび、ジュリアン殿下の声が耳の奥によみがえる。
――少しだけ、ですか。……それなら、たいしたものです。
「……もう」
私は、誰に向けるでもなく小さく呟いた。
明日の教育より先に、自分の気持ちの扱い方を教えてほしい。
そんな情けないことを考えながら、私はしばらく、灯りを消すこともできずにいた。
次回は7/29投稿します。




