第39話 氷の令嬢は、凍り付く
何てことを言うの、この娘は。
心の中でそう叫んだはずなのに、現実の私は一瞬、声すら出なかった。
公爵閣下と兄君を足して二で割ったら第一王子殿下みたい――。
その言葉が応接室に落ちた瞬間、空気が妙に澄んだ気がした。
父も兄も、ぴたりとこちらを見る。
しかも、あまりにも分かりやすく「面白いことを聞いた」という顔で。
最悪だ。
「そんなことはありませんわね」
私は即座に言い返した。
声は震えていない。
語尾も崩れていない。
少なくとも、自分ではそのつもりだった。
「全く似ても似つきませんわ」
そう重ねて、ようやく一息ついた――つもりだった。
だが、向かいに座るマリエンヌの顔を見て、私は悟る。
その顔は、驚いていた。
いや、驚いているだけではない。
もっと率直に言えば、
**普段、そんな言い方していませんよね?**
と、顔に書いてあった。
しまった、と思った時には遅い。
「そういえば」
父が口を開きかけた、その瞬間。
「お父様!」
私は反射的に声を上げた。
だが、父より一拍早く、兄が喉の奥で笑いながら言葉を継いだ。
「確か、レオン王子がこちらへいらっしゃると分かるたびに、暦へ印をつけていたな」
「兄上」
「赤い印だったね。自分では“予定の確認”のつもりだったらしいが、どう見ても楽しみにしている子どもの印の付け方だった」
「お兄様」
私は兄を睨んだ。
だが兄は意に介さない。
眼鏡の奥の目だけが、明らかに面白がっていた。
「レオン、という綴りを真っ先に覚えたのも、その頃だったな」
と父が、妙に懐かしそうに言う。
「ああ」
兄が即座に頷く。
「自分の名前の綴りより先に覚えていた時期があった」
「それはさすがに語弊があります」
「だが、半分くらいは本当だろう?」
「半分でも本当なら十分に駄目です」
マリエンヌが、ぱちぱちと目を瞬かせているのが視界の端に入った。
やめて。
そんな純粋な顔で聞かないでほしい。
そこで真面目に情報を受け取らないで。
だが父と兄は止まらない。
「お前、何かにつけて“殿下ならどうなさるか”と言っていたな」
父が楽しそうに言う。
「ええ」
兄が淡々と補足する。
「字を書く時も、剣を持つ時も、馬へ乗る時も。礼の角度ひとつまで、“第一王子殿下ならもっと綺麗に見えるでしょうか”と聞いていた」
「そんな言い方は」
「していた」
兄は一切の情けなく断言した。
「昼食の席で魚をきれいに食べられなくて、半刻ほど落ち込んでいたこともあったな」
と父。
「理由を尋ねたら、“殿下の前でこれでは恥ずかしい”と」
と兄。
「……殺して」
思わず、口から本音が漏れた。
「何か言ったかしら、エレノア」
兄が、実に穏やかな声で聞いてくる。
「いいえ。何も」
「そうか」
兄は頷く。
「なら続けよう」
続けるな。
私は表情を崩さぬよう必死に呼吸を整えた。
公爵令嬢として、教育係として、ここで取り乱すわけにはいかない。
取り乱すわけにはいかないのに、父も兄も、私の黒歴史を一切の遠慮なく並べてくる。
マリエンヌは完全に固まっていた。
だが、その固まり方は怯えではない。
むしろ、あまりにも意外なエレノア像を前にして、どう反応してよいか分からない顔だ。
分からなくていい。
むしろ忘れて。
今聞いたことは全部忘れてちょうだい。
しかし父は、そんな私の願いを踏みにじるように、さらに明るく続けた。
「レオン王子と結婚する、と可愛らしく言い出したこともあったな」
「お父様!」
今度は本当に大きな声が出た。
だが父は豪快に笑うばかりだ。
「だから、婚約者だと教えてやったのだ。結婚の約束を、互いの父母が正式に認めた相手だとな」
「その説明、たぶん必要以上に夢を与えていますわ」
「夢ではなく事実だぞ」
「事実でも、言い方というものが」
「それを聞いて、小躍りしていたな」
兄がさらりと差し込む。
「“じゃあ、もうお嫁さんみたいなものなのですね”と」
私はカップを置いた。
静かに置いたつもりだったが、わずかに音が立った。
「兄上」
「何だ」
「なぜ、そんな細部まで覚えているのですか」
「面白かったから」
「最低です」
「家族の思い出だよ」
「最悪です」
父が腹を抱えて笑う。
兄は兄で、笑ってはいないのに口元だけ妙に満足そうだ。
そのやり取りを見て、マリエンヌがとうとう小さく息を呑んだ。
「エレノア様……その、ほんとうに……?」
「本当だろうな」
父が即答する。
「本当だったね」
兄も頷く。
「お二人とも黙ってください」
私がそう言うと、父と兄は顔を見合わせた。
そして、ほとんど同時に肩をすくめる。
息ぴったりで腹立たしい。
けれど、止まったかと思えば、兄が今度は少しだけ声を和らげた。
「まあ、何というか。今だから笑い話になるだけで、当時のお前は本気だったよ」
「本気、というか……基準が全部そこにあったな」
父が続ける。
「勉強も、礼法も、馬術も、剣も。“殿下の隣に立つなら、この程度では足りない”が口癖だった」
その言葉に、私は反論できなかった。
できるはずがない。
それは、事実だったからだ。
幼い頃の私は、本当にそう思っていた。
レオン王子は、あまりにも遠く、あまりにも眩しかった。
だから少しでも近づきたかった。
隣に立つに相応しいと、自分で思えるようになりたかった。
字を覚えたのも、
礼法を叩き込んだのも、
剣を握ったのも、
政の本を開いたのも、
どこかに必ず、“レオン王子に恥ずかしくないように”があった。
今になって言葉にされると、いっそ床へ沈みたい。
「……ずいぶんと、分かりやすかったのですね」
恐る恐る、マリエンヌが言った。
その声音には、からかいはなかった。
ただ純粋な驚きと、少しの敬意のようなものが混じっている。
そこがまた厄介だ。
笑ってくれた方がまだ楽なのに、真面目に受け止められると余計に逃げ場がない。
「分かりやすかったとも」
父が断言する。
「今のお前からは想像しにくいかもしれんが、昔は本当に、殿下の話になると目の色が違った」
「今でもでは?」
と兄がぼそりと言った。
「兄上」
「いや、これは失言だった。訂正しよう」
兄は眼鏡の位置を直しながら続けた。
「今は、目の色ではなく、返答の間で分かる」
「兄上」
「あるいは、耳だな」
「お兄様」
「そう怒るな。昔よりは、ずっと隠すのが上手くなったという話だ」
慰めになっていない。
どこにも。
私はゆっくりと息を吐いた。
落ち着け。
ここで本気で怒れば、それこそ図星だと認めるようなものだ。
父も兄も、それを分かっていてやっている。
本当に性質が悪い。
けれど――。
私は視線をわずかに落とした。
カップの中で、コーヒーの表面が静かに揺れている。
昔の私は、たしかにひどく分かりやすかった。
全部の基準があの人だった。
隣に立てるか、見劣りしないか、恥をかかないか。
そればかりを考えていた。
そして、今はもう違うと思っていた。
違うと、整理したつもりでいた。
なのにこうして、ほんの少し名前を出され、昔を持ち出されるだけで、
私はまだ、こんなにも乱される。
……本当に、腹立たしい。
「……なんだか、お二人って、最初からそうなるように出来ていたみたいですね」
マリエンヌの声に、私は顔を上げた。
「その……素敵、だと思います」
一瞬、言葉の意味が分からなかった。
「何が?」
聞き返してから、少し棘があったかもしれないと思う。
だが、マリエンヌはひるまなかった。
「そこまで、一人の方を目標にして、たくさん努力してきたことです」
私は、答えを失った。
父も兄も黙る。
この二人が黙るのは珍しい。
「わ、私は、まだそこまで一つのものを基準に頑張ったことがなくて……だから、すごいなって」
マリエンヌは少し頬を赤くしながら、それでも真面目に言い切った。
ああ、この子は。
本当にこういう時、思ってもいない角度から真っ直ぐ刺してくる。
私は何も返せず、ただカップを持ち直した。
顔が熱い。
けれど今度の熱は、父と兄に暴露された羞恥だけではなかった。
次回は8/10投稿予定です。




