第38話 男爵令嬢は、公爵家の広さを痛感する
「素敵なお部屋ですね」
私は、四分の三くらいの本心と、残り四分の一のなんとも言えない戸惑いを隠して、そう言った。
実際、素敵ではあるのだ。
けれど、王都の大貴族の応接室として想像していたものとは、少し違った。
金箔の装飾も、壁一面の絵画も、これ見よがしな彫像もない。
大きな壺や、飾り棚に並んだ珍しい品々もない。
部屋に置かれているものは、驚くほど少なかった。
長椅子と椅子。
低い卓。
壁際の書棚。
暖炉。
それから、窓辺に置かれた花瓶が一つ。
ただ、それら一つ一つの素材は、素人の私にも分かるほど吟味されていた。
椅子の木目は深く、磨かれた肘掛けは手に吸いつくような艶を持っている。
卓の脚は太すぎず細すぎず、華美な彫刻こそないが、見る角度によって陰影が美しい。
絨毯も派手ではない。けれど足を置いた瞬間、音と冷えを静かに吸い込む。
飾り立ててはいない。
でも、貧しくも粗くもない。
必要なものだけを置き、置いたものには一切妥協していない。
そんな部屋だった。
実家の応接間には、もう少し雑多な安心感がある。
母の好みの小物や、父が置きっぱなしにした書類や、兄がなぜか持ち込んだ本などが、少しずつ生活の気配を作っている。
けれど、この部屋は違った。
散らかっていない。
余分なものがない。
それなのに、冷たいだけではない。
一見すると厳しく、近寄りがたい。
でも、身を置いてみると、不思議と落ち着く。
空間そのものに、威厳と安心感が同居していた。
……まるで、エレノア様みたい。
そう思ったのは、たぶん勘違いではない。
「ああ、殺風景と言われることもあるがね」
お兄様――アルベール様が、淡々とした声で言った。
「導線や機能を考えると、結局、常設の飾りを増やすより、必要なものを都度持ってくる方が理にかなっている。人を通す部屋だからこそ、余計なものを置かない方がいい」
その声音は、穏やかで理知的だった。
眼鏡の奥の目も静かで、どう見ても書斎や執務室が似合う方に見える。
けれど、この方が公爵軍の実質的な指揮を担っているという話は、私ですら知っている。
会う前までは、むしろ公爵閣下のような、見るからに武人らしい方を想像していたくらいだ。
「タペストリーや絨毯をもっと掛ける案もあったのだがな」
公爵閣下が、朗らかに笑いながら続ける。
「中途半端に飾るくらいなら、いっそ壁と柱の良さを見せた方がいいという話になってな。なに、掃除もしやすい」
こちらはこちらで、見た目だけなら完全に豪放磊落な武人だった。
広い肩、よく通る声、ただ座っているだけで部屋の中心にいるような存在感。
なのに、話している内容は、掃除と管理と使い勝手である。
王国の政界を裏から動かす怪物――などという噂を聞いていたので、もっと鋭く冷たい方を想像していた。
けれど実際にお会いすると、表面上はどう見ても、物理的に何かを動かしていそうな迫力の方が先に来る。
……エレノア様、絶対、今の私の心を読んでいる。
ちらりと横を見ると、エレノア様は何事もなかったようにカップを持っていた。
けれど、ほんのわずかに目元が冷たい。
あれはたぶん、何を妙な忖度で褒めようとしているの、という顔だ。
私は慌てて視線を戻した。
「せっかくだから、コーヒーでもどうぞ」
公爵閣下が言うと、女中が手際よくカップを並べた。
ふわりと、紅茶とは違う深い香りが立つ。
「ありがとうございます」
「ミルクと砂糖は?」
「では、ミルクだけで」
私は、エレノア様の真似をして、ミルクだけ入れていただくことにした。
なんだか、それだけで少し淑女に近づいた気がするからだ。
公爵閣下が、妙に楽しそうに目を細めた。
「そういえば、エレノアもミルクだけだったな。
だが、そこまで真似しなくてもよいのだぞ? 砂糖も我が領で製造に成功していてな。むしろ、どんどん使ってほしいくらいだ」
「砂糖を、こちらで?」
思わず聞き返すと、アルベール様が静かに頷いた。
「試験的にだがね。まだ量は限られる。
だが、国外から高値で買うだけでは、いざという時に弱い。甘味は贅沢品に見えるが、保存や薬用、兵の士気にも関わる」
「兵の、士気……」
コーヒーに入れる砂糖の話だったはずなのに、あっという間に産業と兵站の話になっている。
私はカップを持つ指先に、少しだけ力を入れてしまった。
公爵閣下は豪快に笑う。
「まあ、難しい話はあとでよい。まずは飲むことだ。砂糖は遠慮せず使っていい」
「父上。そういう勧め方をすると、かえって遠慮されます」
「そうか?」
「そうです」
「では、マリエンヌ嬢。遠慮なく、という言い方は撤回しよう。
使いたければ使ってくれ。使わないなら、それもよい」
「は、はい」
どちらにしても、少し難しい。
そこで公爵閣下が、ふと思い出したように言った。
「そもそもエレノアがミルクだけにし始めたのも、レオン殿下がこちらへ遊びに来た時のことだったな」
その瞬間、エレノア様の指が、ほんのわずかに止まった。
「父上」
声が低い。
だが、公爵閣下はまったく気にしない。
「最初は殿下が、無理をしてブラックで飲もうとしてな。
苦い顔を隠しきれていなかった。そこでミルクだけ入れたのを見て、エレノアも真似し始めたのだ」
「父上」
今度は、少しだけ鋭い。
けれどアルベール様まで、眼鏡の位置を直しながら淡々と続けた。
「正確には、殿下がミルクを入れたあと、エレノアが『それが正式なのですか』と聞いて、次から同じにした」
「兄上」
「事実だ」
「今、話す必要はありません」
「必要はないが、関連はある」
「ありません」
私は思わず、エレノア様を見た。
必死に澄ました顔をしている。
背筋も伸びているし、カップを持つ手も乱れていない。
表情だけ見れば、いつもの冷静な公爵令嬢だ。
でも、最近のエレノア様をよく見ている私には分かった。
これは、普通の人でいうならば、怒りと羞恥で“顔を真っ赤にしている”状態だ。
顔色そのものは大きく変わっていない。
けれど、目元がほんの少しだけ硬い。
耳のあたりに、わずかに熱が差している。
それに、カップを置くタイミングがいつもより半拍遅れた。
……可愛い。
そう思った瞬間、私は慌てて視線を落とした。
こんなことを思ったと知られたら、たぶん次の稽古が三倍になる。
それにしても。
公爵閣下は豪快に見えて、話す内容は驚くほど細かい。
砂糖一つから、産業や備蓄や兵の士気へ繋げてしまう。
大きく笑っているのに、見ているものはとても現実的だ。
アルベール様は理知的で静かな方に見える。
けれど、言葉の端々には、常に防衛や動線や実地の感覚がある。
書斎の人に見えるのに、見ているものは戦場に近い。
合理的で、でも心情を無視しているわけではない。
いざとなれば果断に動ける。
そして、どちらも少しずつ、エレノア様の中にあるものに似ている。
さらに言えば。
公爵閣下の大きさ。
アルベール様の鋭さ。
その二つを合わせて、王宮風に整えて、あの人を食ったような笑みを少しだけ加えたら――。
「……公爵閣下と兄君を足して二で割ったら、第一王子殿下みたいですね」
思わず、声が漏れてしまった。
言ってから、私は固まった。
公爵閣下とアルベール様が、同時にこちらを見る。
「あはは、なるほど」
「そういうことですか」
二人の言葉が、妙に綺麗に重なった。
その瞬間、あ、と思った。
思ったが、すでに遅かった。
横で、エレノア様が完全に硬直していた。




