第36話 男爵令嬢は、侯爵家に思いをはせる
馬車の窓から見えた街は、王都とはまるで違う顔をしていた。
華やかではない。
けれど、整っている。
石畳の道はまっすぐ伸び、両脇の建物は高さこそ王都ほどではないものの、どれも堅牢で、窓の位置や通りの幅に妙な規則性があった。
市場には人の声があり、荷車の音があり、焼きたてのパンと川風の匂いが混ざっている。
けれど、その賑わいの奥に、私は別のものを感じていた。
守るための形。
街の外縁を囲む低い城壁。
門の上に立つ見張り。
川へ向かって下る道。
倉庫らしき建物の並び。
そして、街の向こう――中ほどの幅を持つ川を挟んだ対岸に、灰色の石で造られた大きな館が見える。
館、というより。
「……お城、みたい」
思わず呟くと、向かいに座るエレノア様が、窓の外へ目を向けた。
「城ですわ」
「え?」
「屋敷でもありますが、あれは城です。いざという時には、街と一体で防衛するためのものですから」
さらりと言われて、私は言葉を失った。
公爵家の館。
私は、もっと優雅なものを想像していた。
白い柱。広い庭。噴水。美しい温室。
もちろん、そういうものもあるのかもしれない。
でも、最初に目に入ったのは、優雅さではなかった。
石。
川。
橋。
門。
倉。
そして、戦うための形。
ここは、ただ貴族が住む場所ではない。
私の住んでいた館と……規模が桁違いに大きいと言う違いこそあれ、領地を守ると言う意味では全く同じ、文字通り砦がそこにあった
ここは領地を治め、守るための場所なのだ。
□ ★ □ ★ □
馬車が橋へ近づくにつれて、対岸の館――いや、城は、少しずつ大きさを増していった。
灰色の石壁。
高くはないが、厚みのある塔。
川を見下ろすように張り出した見張り台。
城壁の内側には屋根の連なりが見え、奥には庭園らしき緑も覗いている。
優雅さと堅牢さが、当たり前のように同居していた。
(……ここが、エレノア様のお家)
そう思った瞬間、胸の奥が妙に緊張する。
王都の学園で見るエレノア様は、いつも完璧だ。
姿勢も、言葉も、視線の置き方も。
まるで生まれた時から公爵令嬢として完成していたように見える。
そう思うと、エレノア様の様子が少しだけ違う。
背筋はいつも通り伸びている。
指先も乱れていない。
声も、涼しい。
けれど、窓の外を見る回数が少し多い。
馬車が橋へ近づくたび、視線が街ではなく、対岸の館へ向く。
ほんのわずかに、膝の上の指が動く。
(……ご家族に会えるから、かしら)
そう思うと、少しだけ胸が温かくなった。
エレノア様にも、こういう顔があるのだ。
氷の令嬢でも、教育係でもなく、家に帰ってきた娘の顔。
そう考えると、対岸に見える灰色の城も、少しだけ柔らかく見えた
ならば、そのご家族はどんな方々なのだろう。
そう思った瞬間、胸の奥が妙に緊張する。
王都の学園で見るエレノア様は、いつも完璧だ。
姿勢も、言葉も、視線の置き方も。
まるで生まれた時から公爵令嬢として完成していたように見える。
最初に浮かんだのは、厳格な人たちだった。
食卓では誰も余計なことを言わず、笑う時も声を立てず、礼法の角度が一度違えば静かに注意される。
公爵閣下は鋭い目で人を見抜き、公爵夫人は微笑みながら失礼を許さず、嫡男様はエレノア様と同じように冷静で、すべてをそつなくこなす――。
そこまで想像して、私は少しだけ身を縮めた。
(……怖い)
でも、きっと怖いだけではないのだろう。
エレノア様があれほど優秀なのだから、ご家族もただ厳しいだけのはずがない。
厳格で、能力が高くて、判断が速くて、領地のことも王都のことも当然のように把握している。
きっと一言交わすだけで、こちらの浅さを見抜かれてしまうような方々なのだ。
そう考えると、今度は別の意味で胃が重くなる。
(ご挨拶……ちゃんとできるかしら)
礼の角度。
名乗り方。
視線の下げ方。
どの相手にどの順番で言葉を向けるべきか。
頭の中でエレノア様に叩き込まれた作法を一つずつ並べる。
並べるほど、足りないものばかりが見えてくる。
けれど、公爵家なのだから、きっと厳しさだけでもない。
高級貴族としての優雅さ。
広い応接間。
季節の花が飾られた廊下。
美しい茶器。
静かな音楽。
そして、完璧な微笑みで客を迎える公爵夫人。
想像の中のルクレール公爵家は、どんどん立派になっていく。
怖くて、すごくて、優雅で、私などが足を踏み入れていいのか分からない場所になっていく。
私は思わず膝の上で指を揃え直した。
□ ★ □ ★ □
その時、向かいのエレノア様が窓の外を見た。
ほんの少しだけ、いつもより視線が落ち着かない。
それは緊張、なのだろうか。
それとも、帰ってきたという安堵なのだろうか。
(……でも)
私は、ふと思う。
エレノア様は厳しい。
とても厳しい。
けれど、ただ冷たいだけの人ではない。
私が失敗しても、見捨てなかった。
何度も直され、叱られ、泣きそうになっても、最後まで付き合ってくれた。
時々、ほんの少しだけ可愛らしい顔をすることもある。
第一王子殿下の話になると、一拍だけ返事が遅れたりもする。
そんなエレノア様を育てた家なら――。
(案外、優しい方々なのかもしれない)
厳しくて、能力が高くて、優雅で。
でもそれだけではなく、エレノア様が努力している姿を、少し離れたところから見守ってきた家族。
婚約に向けて背伸びしていた少女を、厳しくも、どこか温かく支えてきた人たち。
そう考えると、胸の奥にあった緊張が、少しだけ別の形になった。
会うのは怖い。
けれど、少しだけ楽しみでもある。
私はもう一度、対岸の城を見た。
灰色の石壁は相変わらず堅牢で、川を挟んでこちらを見下ろしている。
けれどその奥に、エレノア様の知らない顔が隠れているのだと思うと、少しだけ近い場所に見えた。
「……そんなに見つめて、何か気になるの?」
エレノア様の声に、私ははっとした。
「い、いえ。その……ご家族は、どのような方々なのかと思いまして」
言った瞬間、エレノア様の目元が、ほんの僅かに動いた。
「……そう」
それだけだった。
けれど、その短い返事には、いつもの冷たさとは少し違うものが混じっていた。
懐かしさなのか、警戒なのか、それとも別の何かなのか。
私には、まだ分からない。
ただ、分からないからこそ、私はますます想像してしまう。
きっと、すごい方々なのだろう。
厳しくて、優雅で、能力が高くて――
そして、案外少しだけ、優しい方々なのかもしれない、と。




