第34話 令嬢は、王都の外へ踏み出す
二頭立ての四輪馬車は、思っていたよりもずっと静かに進んでいた。
車輪が石畳を離れ、王都の外へ続く街道に入ってから、揺れは少し柔らかくなった。
窓の外では、整えられた街並みが少しずつ遠ざかり、代わりに広い畑と低い石垣、点々とした農家の屋根が見え始めている。
王都の尖塔は、もう後ろだ。
マリエンヌは、その景色をじっと見つめていた。
見つめている、というより、見つめることで何とか落ち着こうとしていた。
膝の上で重ねた指は、さっきから何度も組み直している。
背筋は伸ばしているつもりなのに、気づけば肩に力が入っていた。
向かいに座るエレノアが、静かに視線を上げる。
「緊張しているの?」
その声は、いつも通り涼しかった。
だが、王都の食堂で聞く時より、ほんの少しだけ柔らかい気がした。
マリエンヌは一瞬、誤魔化そうとした。
けれど、すぐに諦める。
エレノア相手に、下手な取り繕いは通用しない。
「……はい。緊張も、しています」
「“も”?」
「その……」
マリエンヌは、視線を少しだけ落とした。
馬車の内装は、あまりにも整っていた。
深い色の布張りの座席。
細かな刺繍の入ったクッション。
揺れを吸い込むような柔らかな座面。
窓枠には控えめな装飾が施され、扉の取っ手ひとつにも、男爵家の馬車とは明らかに違う重みがある。
豪奢だ。
だが、これ見よがしではない。
上等なものが、当たり前の顔でそこにある。
それが、かえって落ち着かなかった。
「公爵家の馬車って……その、すごく、ふかふかしているのですね」
言った瞬間、しまった、と思った。
もっと他に言い方があったはずだ。
内装が見事だとか、乗り心地が素晴らしいとか、そういう言い方をすべきだった。
それなのに、出てきた言葉が“ふかふか”である。
マリエンヌは頬を熱くしながら、慌てて言い足した。
「い、いえ、もちろん、とても素晴らしい馬車だと思います。ただ、あまりにも座り心地が良すぎて、逆にどう座ればよいのか分からないと言いますか……」
そこで、向かいのエレノアが口元を押さえた。
ほんの一瞬だった。
だが、確かに。
「……ふ」
小さな音が漏れた。
マリエンヌは目を瞬かせる。
エレノアが笑った。
冷笑ではない。
呆れた笑みでもない。
相手を試す時の、あの薄い微笑でもない。
思わず吹き出してしまった、という顔だった。
「エ、エレノア様?」
「ごめんなさい。あなたがあまりにも真剣に言うものだから」
エレノアはすぐに表情を整えようとした。
けれど、完全には戻りきっていない。
口元に、まだほんの少しだけ笑みが残っている。
マリエンヌは、ますます頬を熱くした。
「わ、笑わないでください……」
「笑ってはいませんわ」
「今、確かに笑いました」
「気のせいです」
「気のせいではありません」
思わずそう返してから、マリエンヌははっとした。
以前なら、こんなふうに言い返せなかった。
エレノアの前では、ただ背筋を伸ばし、失敗しないように息を詰めていた。
それが今は、馬車の中で、こんなことを言っている。
エレノアも、それに気づいたのかもしれない。
少しだけ目を細め、それから窓の外へ視線を向けた。
「座り心地が良すぎて落ち着かない、というのは、なかなか新鮮な感想ですわね」
「……すみません」
「謝る必要はありません。むしろ、覚えておきなさい」
「え?」
「上等なものは、人を安心させるためにあるとは限りません。時には、慣れていない者に距離を感じさせることもある。あなたが今感じている居心地の悪さは、悪いものではありませんわ」
マリエンヌは、膝の上の指を見下ろした。
ふかふかして落ち着かない。
そんな情けない感想まで、エレノアは教育の材料にしてしまう。
やはり、この人には敵わない。
けれど、不思議と嫌ではなかった。
窓の外では、田園が広がっている。
冬を越えた麦の若い緑が、風に揺れていた。
畑の間を、細い水路が銀色に光りながら伸びている。
遠くでは農夫たちが鍬を振るい、子どもたちが道端で馬車を見つけて手を振っていた。
マリエンヌは少しだけ肩の力を抜いた。
王都の外は、思っていたよりも穏やかだった。
高い城壁も、重苦しい宮廷の空気もない。
ただ、広い空と、土の匂いと、ゆっくり流れる雲がある。
マリエンヌは、いつの間にか身を乗り出すように窓の外を見ていた。
「……そんなに珍しい?」
エレノアの声に、マリエンヌははっとして姿勢を戻した。
「も、申し訳ありません」
「謝ることではありませんわ」
エレノアは窓の外へ視線を向ける。
その横顔は涼しい。
けれど、声にはほんの少しだけ、先ほどの笑みの名残があった。
「少し休みましょう。馬も休ませた方がいい頃合いですし」
そう言って、エレノアは御者に短く声をかけた。
馬車は街道脇の開けた場所へゆっくりと寄り、やがて静かに止まった。
護衛たちが周囲を確認し、御者が馬の様子を見る。
その手際は慣れたもので、マリエンヌはただ降ろしてもらうだけで精一杯だった。
外へ出た瞬間、風が頬を撫でた。
王都の中の風とは違う。
土の匂いがする。
草の匂いがする。
遠くで水が流れる音も、微かに聞こえた。
「……綺麗」
思わず、声が漏れた。
目の前には畑が広がっている。
若い麦が風に揺れ、その向こうに低い丘がなだらかに続いていた。
空は広く、雲は白い。
農夫たちは手を止めてこちらを見ているが、敵意や緊張ではなく、ただ珍しい馬車が止まったから見ている、という程度の視線だった。
のどかだ。
本当に、のどかで良い風景だと思った。
王都の外という言葉から、マリエンヌはもっと荒々しいものを想像していた。
危険で、粗野で、秩序から遠い場所。
けれど実際に目の前にあるのは、人が暮らし、畑を耕し、子どもが道端で笑っている景色だった。
「……王都の外って、もっと怖い場所だと思っていました」
そう呟くと、隣に立つエレノアがこちらを見た。
その目が、少しだけ厳しくなる。
「怖い場所もありますわ」
答えは、あっさりしていた。
マリエンヌが顔を向けると、エレノアは畑の向こう、さらに遠い丘陵へ視線を向けていた。
「けれど、すべてが怖いわけではありません。人が暮らし、畑を耕し、子どもが育つ場所です。王都の外にあるのは、危険だけではないわ」
その声は静かだった。
「ただし、危険がないわけでもありません」
マリエンヌは息を呑む。
エレノアの表情は、いつもの涼しさを取り戻していた。
先ほどまで馬車の中で少しだけ笑っていた人とは違う。
公爵令嬢として、領地を知る者として、王都の外側を知る者としての顔だった。
……の、はずだった。
けれど。
マリエンヌは、ふと気づいてしまった。
エレノア様は、厳しい顔をしている。
声も冷静で、言葉も間違いなく重い。
でも、その目の奥に、ほんの僅かだけ柔らかいものがある。
まるで、初めて外へ出た子どもが空の広さに驚いているのを、仕方ないわねと思いながら見守っているような。
そう気づいた瞬間、マリエンヌの口元が、つい緩んだ。
「……何がおかしいの?」
エレノアの視線が、すっとこちらへ向く。
マリエンヌは慌てて口元を押さえた。
「い、いえ。おかしいわけではなくて」
「では、何かしら」
「その……エレノア様は、怖いことをおっしゃっているのに、少しだけ楽しそうに見えました」
言ってから、また踏み込みすぎたかもしれないと思った。
けれどエレノアは怒らなかった。
ただ、一瞬だけ目を細める。
「……あなたも、ずいぶん余計なところを見るようになりましたわね」
「す、すみません」
「謝罪は不要です。観察力が上がったのなら、悪いことではありません」
そう言いながら、エレノアは再び田園へ視線を戻した。
「ただし、見えるようになったものを、都合よく解釈しないことです」
その声は厳しい。
けれど、今度はマリエンヌにも分かる。
完全に突き放している声ではない。
「はい」
マリエンヌは素直に頷いた。
エレノアは少し間を置き、それから続けた。
「美しい景色は、人を油断させます。穏やかな場所には、守るべきものが多い。守るべきものが多い場所ほど、危うくもある」
風が麦の上を渡っていく。
その言葉を聞いたあとでは、同じ景色が少しだけ違って見えた。
畑。
水路。
農夫。
子ども。
遠くの丘。
ただ美しいだけではない。
ここに暮らす人がいる。
ここを守る者がいる。
そして、ここを奪おうとする者がいれば、戦わなければならない。
「だから、見るのです。美しいところも、穏やかなところも、その下にあるものも」
その言葉に、マリエンヌは背筋を正した。
馬車は、やがて再び進み始める。
王都から離れ、まだ見ぬ公爵領へ向かって。
車窓の向こうでは、のどかな田園がどこまでも続いている。
その穏やかさが、今はまだ、本当に穏やかなものに見えていた。




