第33話 侍女は、令嬢たちの想いを見守る
手紙を封じ終えたあとも、エレノアの胸の内は、妙に落ち着かなかった。
封蝋は綺麗に収まっている。
文面にも問題はない。
父への返書として、必要なことは過不足なく記したはずだ。
それなのに、指先だけがまだ少し熱を持っている気がした。
侍女を呼べば済む。
済むのだが、今すぐ鈴を鳴らす気にはなれなかった。
ほんの少し、頭を冷やしたかった。
水でも飲めば落ち着くだろう。
そう判断して、エレノアは封をした手紙を手に部屋を出た。
廊下の空気は、室内より幾分ひんやりとしている。
それが心地よくて、彼女は小さく息を吐いた。
そして角を曲がったところで、足を止める。
向こうから、マリエンヌが出てきたからだ。
あちらも、封をした手紙を手にしていた。
ぴたり、とお互いの足が止まる。
一瞬だけ沈黙が落ちる。
マリエンヌは明らかに少し慌てた顔をしていた。
けれど、それは何か後ろ暗いことをしていた者の顔ではなく、ただ自分の内側が少し騒がしくて、どうしたらよいか分からなくなっている少女の顔だった。
その様子を見て、エレノアは少しだけ口元を和らげた。
「……あなたも、手紙を?」
「は、はい。実家に、連絡を……」
答える声がわずかに上擦る。
手にした封筒の端を、無意識に指で押さえ直している。
その仕草がいかにも落ち着かない。
だが、エレノアから見れば、それは不出来というより、まだ慣れていない者のぎこちなさだった。
先ほど机に向かっていた時の、自分と比べればずっと危なっかしい。
けれど、その危なっかしさは、妙に人間らしかった。
「そう」
短く返したところへ、ちょうど廊下の向こうから侍女がやってきた。
「お呼びでしょうか、お嬢様」
「ええ。ちょうどよかったわ」
エレノアは自分の手紙を差し出した。
一拍遅れて、マリエンヌも慌てて手元の封書を見下ろす。
その様子を見た侍女が、自然な所作で視線を向ける。
促されたような形になって、マリエンヌもまた、手紙をそっと差し出した。
「こちらも、学園から発送をお願いできますか」
「かしこまりました」
侍女は二通の手紙を丁寧に受け取り、一礼して離れていく。
その背を、二人はなんとなく見送った。
手紙を手放したあとの指先は、少しだけ軽い。
だが、その軽さの分だけ、今度は妙な手持ち無沙汰が残った。
廊下には、夕方前の静けさが漂っている。
窓から入る光はやわらかく、石床に淡く伸びていた。
どちらからともなく、少しだけ息をつく。
マリエンヌは視線を落としたまま、けれど完全に黙りこむでもなく、何か言葉を探しているようだった。
エレノアも、すぐに部屋へ戻る気にはなれなかった。
先に口を開いたのがどちらだったのか、あとでははっきりしなかった。
「……少し」
「……お茶でも」
言葉が重なって、二人とも一瞬だけ目を瞬かせる。
それから、先に小さく息を漏らしたのはエレノアだった。
笑った、というほどではない。
だが、少なくとも氷の令嬢と呼ばれる時の無機質な表情ではなかった。
「ええ。そうですわね」
マリエンヌも、つられるように少しだけ頬を緩める。
「わ、私も、ちょうどそう思っていました」
本当かどうかは怪しい。
けれど、そういうことにしておく方が、今は心地よかった。
二人は並んで歩き出す。
公爵令嬢と男爵令嬢。
教育係と教え子。
立場も、育ちも、身についた所作も違う。
それでも今だけは、手紙を出したあとの少し浮ついた心を持て余している、ただの年頃の娘同士に見えた。
侍女のミレイユは、茶器を選ぶ手を一瞬だけ止めた。
主人のエレノアが、客を伴って私室隣の小さな応接間へ向かうところだった。
連れているのは、最近何かと傍に置かれている男爵令嬢――マリエンヌ・ハウゼンである。
珍しい、と思った。
茶を用意せよと言われること自体は珍しくない。
だが、その声の調子が少しだけ違った。
いつもより半歩、硬さが薄い。
命令口調であることに変わりはない。
けれど、どこか“整えた上で人を座らせる”時のそれではなく、
自分も少し腰を落ち着けたい時の声に近かった。
ミレイユは無言のまま一礼し、急須の湯温を見直した。
茶葉は重すぎないものがいい。
香りは立つが、甘すぎない。
気分を落ち着かせるには、その方が向いている。
菓子も考える。
エレノアは甘味を好まないが、全く置かぬのもよくない。
マリエンヌの方は、こういう場では遠慮して手をつけない可能性が高い。
ならば、小ぶりで、口をつける言い訳がしやすいものが良い。
侍女は淡々と支度を進めながら、先ほど廊下で見た二人の様子を思い返していた。
エレノアはいつも通り涼しい顔をしていた。
少なくとも、表向きは。
だが、封をしたばかりの手紙をそのまま手に持って部屋を出てくるなど、普段の彼女ならしない。
呼べば済むことを、わざわざ自分で持って歩いたのだ。
気分転換。
あるいは、胸の内を少し冷ましたかったのだろう。
そしてマリエンヌの方は、もっと分かりやすかった。
手紙を持つ手に落ち着きがなく、視線も泳ぎがちで、けれど隠そうとする努力だけは健気なくらいに見えていた。
あれはきっと、家への手紙だけではない顔だ。
ミレイユは、茶托の位置を揃えながら、心の中だけで小さく息を吐いた。
若い娘とは、面倒で可愛らしい。
もっとも、それはエレノアも同じなのだろう。
主人のことを“若い娘”と思うなど不敬もいいところだが、
少なくとも今日ばかりは、北辺だの公爵領だのという話の前に、
そういう年頃の顔が薄く差していた。
支度を終え、応接間へ茶器を運ぶ。
二人は、向かい合って座っていた。
エレノアの背筋はいつも通りまっすぐで、膝の上に置いた指先も無駄なく重なっている。
対するマリエンヌは、その真似をしようとして、かなり近いところまで来ている。
だが、まだ少しだけ肩に力が入っていて、指先もきっちり揃えようとするあまり、逆に緊張が見えてしまっていた。
ミレイユは一礼し、茶を注ぎ始めた。
湯の音だけが、一瞬、部屋の空気を埋める。
その沈黙の中で、先に口を開いたのはマリエンヌだった。
「……あの、先ほどは、ありがとうございました」
声は慎重だった。
茶に誘われたことへの礼だろう。
あるいは、廊下で気まずくならずに済んだことへの礼かもしれない。
エレノアは、注がれていく茶を見たまま答える。
「別に。わたくしも少し、座りたかっただけですわ」
平坦な声だった。
だが、その“少し”が付く時点で、ミレイユからすればだいぶ珍しい。
マリエンヌも、それに気づいたのだろう。
目を瞬かせ、少しだけ頬の力を抜いた。
ミレイユはカップを二人の前へ置き、菓子皿を整える。
その間にも、会話は続いた。
「お手紙、すぐに届くとよいのですけれど……」
「学園から出すなら問題ないでしょう。公爵家宛ても、男爵家宛ても、遅らせる理由はありませんもの」
そこまでは普通のやりとりだった。
問題は、そのあとだ。
エレノアがカップを持ち上げるよりわずかに早く、マリエンヌが視線を落として、ほんの少しだけ唇を迷わせた。
そして、いかにも何気ないふうを装って言った。
「第二王子殿下も……お忙しいのでしょうか」
あまりにも分かりやすくて、ミレイユは危うく表情を動かしかけた。
幸い、侍女としての訓練がそれを止める。
止めたが、心の中ではほとんど苦笑していた。
家への手紙だけではなかった、という予想は、どうやら正しかったらしい。
エレノアはカップを置かなかった。
口元へ運びかけたそのままの姿勢で、半拍だけ止まる。
本当にわずかな間だ。
しかし、長年仕えてきたミレイユには分かる。
あ、今ちょっと面白がった。
主人は紅茶をひと口含み、それから静かに言った。
「忙しいでしょうね。少なくとも、暇ではないでしょう」
「そ、そう……ですよね」
「ただ」
エレノアはそこで言葉を区切った。
マリエンヌが顔を上げる。
その目が、少しだけ期待している。
隠しているつもりでも、隠しきれていない。
「本気で会いたい相手がいるなら、忙しさくらい理屈をつけてどうにかする方かもしれませんわね」
マリエンヌの頬が、見る間に赤くなった。
「エ、エレノア様……!」
「何かしら」
「その、そういう言い方は……」
「嫌だった?」
「嫌では、ありませんけれど……その……」
完全に泳いだ。
ミレイユは視線を落とし、菓子皿の角度を直すふりをした。
見てはいけないものを見ている気分になるが、場を外すにはまだ早い。
エレノアの方は、相変わらず落ち着いている。
少なくともそう見える。
だが、マリエンヌの反応を面白がるだけなら、もう少し冷たくできるはずだ。
今日の主人は、どこか機嫌が悪くない。
むしろ少しだけ、浮ついている。
――何があったのだろう。
いや、何があったかは、だいたい見当がつく。
ここ数日の学園の空気を思えば、答えは一つではないが、候補は絞れる。
そう思ったところで、今度はマリエンヌが、少しだけ勇気を振り絞るようにして言った。
「エレノア様こそ……その、第一王子殿下のことになると、少しだけ……」
ミレイユは、今度こそ本当に危うかった。
危うく茶器を置く音を乱すところだった。
攻めた。
この男爵令嬢、今、かなり攻めた。
エレノアはぴたりと動きを止めた。
カップの取っ手に添えた指先は美しいまま。
背筋も乱れない。
顔も崩れていない。
だが、長く仕える侍女からすれば分かる。
耳朶のあたりが、ほんの少しだけ熱を持っている。
マリエンヌも言ってしまってから後悔したのだろう。
視線を泳がせ、今にも謝りそうな顔になっている。
そのまま数秒。
部屋に沈黙が落ちる。
やがてエレノアは、信じられないほど平静な声で言った。
「……何のことかしら」
その言葉に、マリエンヌは「やっぱり怒らせた」と顔に書いてあった。
けれど次の瞬間、エレノアは小さく息をつく。
「もっとも」
その“もっとも”で、空気が少しだけ和らいだ。
「あなたに言われるようでは、わたくしもまだまだですわね」
マリエンヌがぱちぱちと目を瞬かせる。
ミレイユも、心の中で同じことを思った。
まさか主人の口から、そういう半ば認めるような言葉が出るとは。
だがそれは、完全な白状ではない。
せいぜい、“まったくの無関係ではありません”程度の認め方。
エレノアらしいと言えば、実にらしい。
そして、それで十分だったらしい。
マリエンヌは少しだけ安心した顔になり、けれどその安心の中に、妙な仲間意識のようなものが混じり始めていた。
なるほど、とミレイユは思う。
この二人は、育ちも立場も違う。
所作の完成度も、物を見る視点もまるで違う。
だが今この場では、まったく別の理由で同じところに立っているのだ。
片や、第二王子の名を出されるだけで顔に出る令嬢。
片や、第一王子のことになると一拍遅れる公爵令嬢。
秘めた想い、などというには、少々分かりやすすぎる。
それでも本人たちは、それを“まだ秘めているつもり”なのだろう。
その不器用さが、妙に微笑ましかった。
ミレイユは最後にもう一度だけ茶の差し湯を整え、静かに一礼した。
退出する直前、ふと視線を上げる。
そこには、公爵令嬢と男爵令嬢がいた。
教育係と教え子がいた。
未来の王妃候補たちがいた。
そして同時に、好きな相手の名ひとつで、こんなにも分かりやすく空気を揺らす、ただの若い娘たちがいた。
廊下へ出て扉を閉めたあと、ミレイユはようやく、誰にも見えないところでほんの少しだけ笑った。
――北辺がどう動こうと、王都がどう騒ごうと。
あの二人はきっと、思った以上にちゃんと前へ進んでいる。
少なくとも、恋の方は。




