第32話 令嬢は、封じた想いを持て余す
【マリエンヌside】手紙と封蝋、その先の名前
部屋のベッドの上に広げた衣装が、思った以上に場所を取っていた。
「……こんなに、必要なの……?」
思わず漏れた呟きに、返事をする者はいない。
当たり前だ。
エレノア様は「準備をなさい」とだけ言って去っていったし、侍女も今は呼んでいない。
つまり、これは自分で考えろということなのだろう。
旅支度。
しかも、ただの外出ではない。
ルクレール公爵領行き。
そう考えただけで、胸の奥がまた少し落ち着かなくなる。
王都の外。
しかも、あのエレノア様が育った土地。
華やかなだけでは済まない場所。
領民、家臣、公爵家、北辺――。
食堂で言われた一言一言が、今さらのように重くなって肩へ乗ってきた。
「ええと……普段着と、授業用の……でも、公爵家で“普段着”って、どこまで普段なの……?」
手を止め、私は衣装を前に考え込む。
王都の学園での生活なら、何を着ればよいかはだいぶ分かってきた。
けれど公爵領となると話が違う。
あまり質素でも失礼だろうし、かといって着飾りすぎるのも違う気がする。
(こういう時、エレノア様なら迷わないのよね……)
そう思ってしまって、私は小さく息を吐いた。
きっとあの方なら、必要なものだけを最初から正しい順番で並べるのだろう。
衣装も、靴も、手袋も、書類も、全部。
私なんて、広げたはいいけれど、どこからまとめればいいか分からなくなっているのに。
けれど、立ち止まっている時間も惜しい。
私は気を取り直し、一着ずつ布地を確かめながら畳み直した。
旅の途中で着崩れにくいもの。
公爵家の家族に会う時に失礼のないもの。
庭や外に出ても動きやすいもの。
エレノア様に言われたわけではない。
でも、ただ美しく見えればいいのではないのだと、今の私は知っている。
「……あ」
そこでふと、指が止まった。
衣装箱の隅から、昨夜パーティーで使った手袋が見えたからだ。
白い布。
少しだけ香が残っている気がする。
そして、それを見た瞬間――思い出してしまった。
ジュリアン殿下の手。
柔らかかったわけではない。
けれど、不思議と力みがなくて、こちらを急かす感じもなくて。
あの場の誰よりも“整って”いたのに、冷たくはなかった。
(……だめ、今はだめ)
私は慌てて手袋を畳み、箱の端へ押し込む。
顔が熱い。
こんなところを誰かに見られたら、本当に終わりだ。
荷造りだ。
今は荷造りに集中しなくてはならない。
そう自分に言い聞かせながら、私は次の箱へ手を伸ばした。
【エレノアside】
机の上には、必要なものがすでに整えられていた。
便箋。
封筒。
インク壺。
羽根ペン。
封蝋。
ルクレールの紋章印。
一つでも欠けていてはならない。
欠けているかもしれないと思わせることすら、好ましくない。
私は父への返書を前に、もう一度文面を頭の中で組み立て直した。
公爵領への帰還予定。
同行者。
護衛人数。
必要となる客室の準備。
マリエンヌに見せたい領内業務。
そして、北辺の状況について、王都側で耳にしたこと。
感情を差し込む余地はない。
少なくとも、表向きには。
父上は無駄を嫌う。
母上は行間を読む。
兄上は、書いていないことを拾う。
だからこそ、余計な飾りは要らない。
必要なことを、必要な順序で、必要な密度で置く。
私は便箋へ視線を落としたまま、静かに息を吸った。
まずは季節の挨拶。
長すぎず、冷たすぎず。
その次に本題へ移る。
王都における教育の進捗は良好。
マリエンヌ・ハウゼン嬢は、当初よりはるかに安定している。
基礎礼法、舞踏、会話、視線、沈黙、すべて一定水準へ達した。
ゆえに次段階へ移行したい。
そこまで整理し終え、私はようやく羽根ペンを手に取った。
指先の角度を整える。
手首を浮かせる。
インク壺の縁へ軽く触れさせるように、ペン先を浸す。
インクを含ませすぎてもいけない。
少なすぎれば、最初の一行が掠れる。
必要な分だけを、迷いなく。
そのままペンを上げ、便箋の上に静かに運んだ。
書き出しに迷いはない。
迷っているようでは、まだ遅い。
【マリエンヌside】
二つ目の箱へ下着類を詰めかけたところで、私はぴたりと止まった。
「……実家」
そうだ。
実家に、何も連絡していない。
王都を離れる。
しかも公爵領へ行く。
何日になるかはまだ聞いていないが、少なくとも日帰りではないだろう。
それなのに、父にも母にも、兄にも、まだ何も書いていない。
「ど、どうしよう……!」
思わず立ち上がりかけて、私は自分で自分を押しとどめた。
どうしよう、ではない。
書けばいいのだ。
今すぐ。
私は慌てて机へ向かい、引き出しから便箋を取り出した。
それだけで、少しだけ手元がばたつく。
紙を揃える。
封筒を出す。
ペンを取る。
インク壺の蓋を開ける。
そこで、ふとエレノア様の手つきを思い出した。
無駄がなく、静かで、綺麗だった。
たったそれだけのことなのに、見ているだけで“整っている”と分かる所作。
私は自分の手元を見下ろす。
便箋の端が少し曲がっている。
封筒の向きも揃っていない。
ペン先を持つ指にも、微かに力が入りすぎている気がする。
(……まだまだね)
分かっていたことではあるが、分かってしまうと少し悔しい。
それでも私は、一度深呼吸をしてから、ペン先をインクへ浸した。
……浸した、つもりだった。
「わ、ちょっと多い……!」
慌てて壺の縁で軽く落とす。
危ない。
危うく雫が落ちるところだった。
エレノア様なら、こんなことで慌てたりしないのだろう。
けれど、私はまだ修行中だ。
だったらせめて、慌てても立て直せばいい。
私は便箋へ向き直り、慎重に書き始めた。
拝啓、お父様、お母様――
……いや、違う。
これでは硬すぎるだろうか。
けれど公爵領行きの報告なのだから、ある程度きちんとした方が――
「うう……」
書き出しだけで止まる。
本当に、先が思いやられる。
だが、実家へ連絡するのは当然だ。
私はペンを持ち直し、もう一度、今度は少しだけ肩の力を抜いて書き始めた。
【エレノアside】
便箋の一枚目が、静かに埋まっていく。
ペン先は滑らかだ。
インクの濃さも均一。
文字の大きさも、行間も、崩れない。
旅程については三日後の出立を想定。
護衛は過不足なく。
マリエンヌの随行については、表向きは教育のため。
ただし、北辺の空気が不穏である以上、早めに王都を離す判断も間違いではない。
そこまで書いたところで、私は一度だけペンを止めた。
“北辺の空気が不穏”。
その表現で十分か。
あるいはまだ強いか。
父上は分かるだろう。
兄上も読むだろう。
ならば、これで足りる。
書き足しすぎれば、かえって騒ぎ立てることになる。
今はまだ、その段階ではない。
私は再び筆を走らせた。
追記として、学園内の空気の変化。
第二王子殿下の立場。
第一王子殿下の復調。
そして、マリエンヌの成長。
そこを書きながら、ふと脳裏に、昔の光景がよぎる。
まだ今より背も低く、髪も結い上げていなかった頃。
公爵領へ、王家の方々が視察に来たことがあった。
空は高く、風が乾いていた。
城壁の上から見た騎馬列は、まっすぐこちらへ伸びていて。
その先頭近くに、第一王子殿下がいた。
まだ少年だった。
けれど、遠目にも分かるほど、真っ直ぐで、眩しかった。
私はその時、何を話したのだったか。
ろくに言葉も出なかった気がする。
ただ、あの方がこちらを見て、少し笑ったことだけは覚えている。
……本当に、腹立たしい。
こんな時に、そんな昔を思い出すなんて。
私はほんの僅かに眉を寄せ、最後の一文を書き終えた。
【マリエンヌside】
手紙は、思ったより時間がかかった。
父へ一通。
母へも同じ内容が伝わるように書きつつ、あまり心配をかけないように言葉を選ぶ。
兄には、ついでのようでいて、ちゃんと伝わるように一言添える。
公爵領へ行くこと。
エレノア様とご一緒すること。
王都の外で学ぶ機会を頂いたこと。
体調には気をつけること。
書きながら、何度か言葉を直した。
硬すぎる。
柔らかすぎる。
砕けすぎる。
気取っている。
そのたびに立ち止まり、結局、いつもの自分に戻る。
たぶんそれでいいのだろう。
少なくとも、今の私はそれしか書けない。
ようやく書き終えて、私はほっと息を吐いた。
封筒へ便箋を入れ、軽く口を折る。
封蝋を使うほどの手紙ではない。
簡易な封だけで十分だ。
そう思って、指先で端を押さえたところで。
「……あ」
ふいに、妙な考えが浮かんだ。
第二王子殿下にも、お手紙を出したらどうかしら。
その瞬間、自分で自分に何を考えているのかと思った。
「な、ななな……っ」
熱が、一気に首まで駆け上がる。
何を書くつもりなの。
そもそも、どうしてそんな発想になるの。
感謝?
祝宴のお礼?
それとも――
(む、無理無理無理!)
私はぶんぶんと首を振った。
便箋はある。
封筒もある。
インクも、まだ乾いていない。
けれど、だからといって書けるわけがない。
書こうとして何を書く。
昨夜はありがとうございました?
踊ってくださって嬉しかったです?
そんなもの、書いた瞬間に死んでしまう。
私は両手で頬を押さえ、そのまま机へ突っ伏しそうになるのを、ぎりぎりでこらえた。
だめだ。
落ち着きなさい、私。
でも、もし。
もし本当に、公爵領へ第二王子殿下がいらっしゃるようなことがあったら。
その時、私はどんな顔をすればいいのだろう。
そう考えただけで、また頬が熱くなる。
封をしたばかりの家への手紙を見つめながら、私は誰にも見られていないことを確認して、小さく、小さく息を吐いた。
そして、机の隅へそっと、新しい便箋を一枚だけ置いた。




