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断罪劇で王子が破棄したのは婚約ではなく計画でした ――断罪されたはずの公爵令嬢は男爵令嬢の王妃教育係になります  作者: 製本業者


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第30話 令嬢は、領地にも思いをはせる

【マリエンヌside】次の舞台は、王都の外


食堂に差し込む朝の光が、やけに白く見えた。


昨夜の祝宴が、まだ身体のどこかに残っている。

髪を結い上げられた重みも、指先に触れた手の温度も、楽師の音も、床を滑る靴音も。

眠ったはずなのに、少しも寝た気がしない。


なのに学園の朝は、驚くほどいつも通りだった。


銀器の触れ合う音。

焼きたてのパンの匂い。

紅茶の湯気。

令嬢たちの、抑えたようで少しも抑えきれていない囁き声。


王宮の大広間で何があったところで、翌朝になれば食堂は食堂に戻る。

――戻る、はずなのに。


(……全然、戻った感じがしない)


席についた瞬間から、視線の刺さり方が違った。

露骨に見てくる者は少ない。

けれど、見ないふりをして見ている気配が、あちこちにある。


昨夜のことを思い出して、私は慌ててカップに手を伸ばした。

指先を揃える。

手首の角度を整える。

顔を伏せすぎない。


習った通りに身体を置けば、心も少しだけ引き戻せる。


(落ち着いて。まずは朝食。今日はただの朝――)


「ずいぶんと、眠れていない顔ですわね」


声が落ちた瞬間、背筋が勝手に伸びた。


反射だった。

考えるより先に、身体がそう動いた。


顔を上げる。

エレノア様が、いつものようにそこに立っていた。


相変わらず、涼しい顔。

氷みたいに整っていて、少しも隙がない。

けれど最近は、その冷たさの奥に、別の何かが混じって見える時がある。


怖いのに、前ほど一方的には怖くない。


「も、申し訳ありません」


「謝罪は不要ですわ。寝不足なら寝不足で、姿勢だけでも整えなさい」


「……はい」


言いながら、私は慌てて肩の位置を直す。

エレノア様は小さく息を吐いた。

呆れたようにも見えるし、確認しているだけのようにも見える。


そのまま、私の向かいへ腰を下ろす。


周囲の空気が、すっと変わった。


誰も騒がない。

誰も露骨には見ない。

けれど、“氷の令嬢が男爵令嬢の前に座った”というだけで、食堂のあちこちに波紋が広がるのが分かる。


(……やっぱり、この方は座るだけで周りを黙らせる)


給仕が紅茶を置き、エレノア様は一口だけ口をつけた。

その仕草まで、無駄がない。


私は何となく、自分のカップを持つ手に意識を戻した。

黙っていると、昨夜のことを思い出しそうだった。


ジュリアン殿下の手。

あの柔らかな声。

踊りの最中、ほんの少しだけ近かった距離。

それから――


(だ、だめ)


そこまで考えて、私は思考を切る。

食堂で赤くなるなんて、最悪だ。


だが、そんな私の内心を見透かしたみたいに、エレノア様が言った。


「昨夜の余韻に浸るのは結構ですが、それで今日の判断を鈍らせるのは感心しませんわね」


私は危うく咳き込みかけた。


「よ、余韻……っ」


「違うの?」


「そ、その……」


否定しようとして、言葉が詰まる。

違うとは言えない。

でも、認めたらそれはそれで負けた気がする。


私が言葉を探しているあいだに、エレノア様は紅茶を置いた。

口元は平然としている。

平然としているのに、ほんの僅かだけ、声の温度が柔らかい。


「安心なさい。今さら、昨夜のあなたが浮ついていたなどとは言いませんわ。

むしろ、よく持ちこたえました」


「……ありがとうございます」


短く答える。

嬉しい。

でも、その嬉しさを広げる前に、次が来ると分かっている。


案の定、エレノア様は間を置かず続けた。


「ですから、次へ進みます」


私は瞬きをした。


次。

その一言だけで、胸の奥がきゅっと縮む。


誕生パーティーが終わった。

少しは息がつけるかもしれないと、どこかで思っていたのだろう。

甘かった。


エレノア様は、そんな私の期待を切り捨てるように、淡々と言った。


「準備をなさい。数日以内に、ルクレール公爵領へ向かいます」


その言葉が落ちた瞬間、食堂の音が遠くなった気がした。


周囲ではパンをちぎる音がしている。

誰かがカップを置いた。

小さな笑い声も混じっている。


なのに、その全部が、急に薄い膜の向こうへ引いていく。


「……え」


間の抜けた声が出た。

自分でも情けないと思う。

けれど、それしか出なかった。


エレノア様は眉一つ動かさない。


「聞こえなかったの?」


「い、いえ、聞こえました……聞こえましたけれど……」


聞こえたからこそ、混乱している。


ルクレール公爵領。

王都の外。

しかも、エレノア様の実家。

噂話の中でしか聞いたことのないような大貴族の領地。


そこへ、私が?


「王都では教えきれないことがあります。

領民との距離感。

家臣との接し方。

そして、平時の華やぎでは覆えない“家”の仕事。

あなたは、そこを知らなければなりません」


一つ一つ、静かに打ち込まれる。

断る余地のない声だった。


「……はい」


返事はした。

したけれど、頭は追いついていない。


公爵領へ行く。

エレノア様と一緒に。

王都では難しい教育のために。


それだけでも十分に大事なのに、エレノア様はそこで、ほんの僅かに口元を緩めた。


「もっとも――最近は北辺が少し騒がしいそうですから。

第二王子殿下が視察にお見えになるかもしれませんわね」


私は反射的に顔を上げた。


その一瞬の反応が、あまりに分かりやすかったのだろう。

エレノア様の目が、ほんの僅かだけ愉快そうに細くなる。


「……っ」


熱が、一気に頬へ上がった。

からかわれた。

今、絶対にからかわれた。


けれど、そこで黙るのも悔しい。

悔しくて、私は半ば意地で言い返した。


「そ、それなら……第一王子殿下の方かもしれませんね」


言った瞬間、しまった、と思った。


さすがに踏み込みすぎたかもしれない。

凍る。

今度こそ凍る。


そう思ったのに、エレノア様は数秒だけ黙り込んだあと、ゆっくりとカップを持ち上げた。


「……ええ。あり得なくはありませんわね」


声は平坦だった。

平坦なのに、ほんの一拍だけ遅れたその返答が、逆にいろいろ物語っている気がした。


私は慌てて視線を落とす。

言い返せた達成感よりも、とんでもないことを言ってしまった気まずさの方が大きい。


けれど、怒られない。


その事実が、少しだけ不思議だった。


前なら、こんな返しをしたら冷たい一言で切り捨てられていた気がする。

今は違う。

もちろん甘くはない。

でも、以前よりほんの少しだけ、会話が“会話”になっている。


エレノア様はナプキンを整え、改めて私を見た。


「とにかく、準備を。衣装だけではなく、頭の中も整えておきなさい。

今回は王都の延長では済みません」


「……王都の、延長では」


「ええ。ルクレール公爵領は、舞踏会のためだけに存在している土地ではないもの」


その言葉に、私は小さく息をのんだ。


今までの教育が、間違っていたわけではない。

けれど、まだ入口だったのだ。

礼儀も、所作も、舞台に立つための型にすぎない。


その先がある。


王都の外。

公爵領。

領民。

家臣。

そして――少し騒がしいという、北辺。


胸の奥に、不安と緊張が広がる。

怖い。

けれど、それだけじゃない。


また一つ、知らない舞台が開こうとしている。


エレノア様は、そんな私の顔を見て、静かに言った。


「大丈夫。逃げなければ、どうにかなります」


優しい言葉ではない。

励ましですらない。

それでも不思議と、背中の真ん中に一本、芯が通る。


私はカップを置き、背筋を正した。


「……はい。準備します」


エレノア様は頷いた。

それだけで、この会話は終わりだと分かる。


食堂のざわめきが、また戻ってくる。

誰かがこちらを見ている。

もう噂は広がり始めているだろう。


それでも、今はそれほど嫌ではなかった。


誕生パーティーが終わっても、舞台は終わらない。

むしろ、ここから先の方が大きい。


そう思いながら、私は冷めかけた紅茶に、そっと手を伸ばした。


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