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断罪劇で王子が破棄したのは婚約ではなく計画でした ――断罪されたはずの公爵令嬢は男爵令嬢の王妃教育係になります  作者: 製本業者


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第17話 兄の動揺を見て、弟は一歩踏み出す

廊下へ出た瞬間、空気が少し冷たく感じた。

礼儀作法室の前――あの扉の近くは、なぜかいつも呼吸が浅くなる。


(……落ち着け)


私は自分に言い聞かせる。

たった数分、顔を見せに来ただけだ。

それなのに胸の奥に残るざらつきが消えない。


――兄上がいる。

あの“声”が、あの“間”が、まだ耳の奥に引っかかっている。


昔、私は兄を誇りに思っていた。

「兄上みたいになりたい」

そう口にして、笑って、肩を叩かれて――それで満足していた。

なのにいつからだろう。

兄は“王子”になり、私は“比較対象”になり、あの距離ができた。


(……戻ってきた)


断罪劇のあの日から、兄は変わった。

いや、本当は“戻った”のだ。

それが、嬉しい。

そして同時に、その嬉しさが――私の中で処理しきれない。


なぜか。


嬉しいなら素直に喜べばいい。

兄が強くなったなら誇ればいい。

……なのに胸の奥に、置いていかれるような怖さが混ざる。


(情けないな)


私は顔に出さないよう、歩幅を整える。

廊下の角を曲がった、その時だった。


壁際の水差しのところに――兄がいた。


(……え?)


偶然、だろう。

少し時間がずれただけ。便所か水分補給か、その程度。

だが、こうして鉢合わせると、運命めいた嫌な予感がする。


兄は軽く手を挙げた。


「よう。こんな所で会うとはな」


その声を聞いた瞬間、胸の奥が熱くなる。

――懐かしい。

でもそれを顔に出すのは、どうにも癪で。


「兄上。礼儀作法室の近くにいらっしゃるとは珍しい」


自分でも、面白くない言い方だと思った。

けれど、これが今の私の“鎧”だ。

喜びを隠すための。


兄は、さらりと言う。


「確認だ。――それと、噂を聞いた。最近、お前が内政の勉強を頑張っていると」


(……噂、か)


誰が吹き込んだ。

いや、そんなことより、兄がそれを話題にすること自体が――妙に嬉しい。

“弟を見ている”という証拠だからだ。


嬉しさを噛み殺し、私は真面目に返した。


「大規模な戦いはありませんが、小競り合いばかり多い。出費だけは嵩む。

国庫は相変わらず放漫です。なんとかする必要があります」


言いながら思う。

兄はこういう話をするとき、昔はもっと楽しそうに笑っていた。

今は笑わない。

笑わないから、余計に“本気”に見える。


兄は口角を上げた。


「いい心掛けだ。なら私が、お前のために――小競り合いを無くしてやろう」


(……煽りか。激励か)


どちらでもいい。

今の兄の言葉は、昔の私なら飛びついていた。

だから私は、あえて素直に返す。


「遠慮なく、そうさせて貰います」


兄が少しだけ安心したように見えた。

それが、悔しいほど嬉しい。


そして――兄は次の矢を放ってきた。


「それで? 内政の勉強ってのは……王妃候補を奪うための下調べかな」


(……っ)


頬が熱くなる。

図星だ。図星だが、口にされると腹が立つ。

兄上は、昔からこういう時だけ人が悪い。


「……兄上っ」


否定したいのに、否定すると余計に当たって見える。

私は一拍迷い、悔し紛れに――けれど、今の私が振るえる最大の刃を選ぶ。


「教育係を狙っているのかも知れませんよ」


言った瞬間、兄の空気が変わった。

ほんの一瞬。

だが私は見逃さない。


(……当たった)


私が狙っているのはマリエンヌだと、兄は思っていたのだろう。

だが、王妃候補は、現時点では二人だ。

“次期王妃候補”――マリエンヌ・ハウゼン。

“現婚約者”――エレノア・ルクレール。

そして兄が反応したのは、マリエンヌではない。


兄の笑みが、わずかに固まる。

その強張り方が、やけに人間臭くて。

王子でも、第一王子でもなく、ただの兄に見えてしまうから困る。


(……兄上)


胸の奥が、またざわつく。

嬉しいのに、苦い。


兄が“兄”に戻ってくれたことは、本当に嬉しい。

昔みたいに、追いかけていた背中のまま、もう一度前を歩き始めてくれた。

けれど同時に、戻ってきた兄は――私の知らない場所で、エレノアと斬り結んでいる。


そこはもう、私が並べる場所ではない。

昔みたいに、ただ「兄上みたいになりたい」と言って笑っていられた場所でもない。


それを認めてしまうのが、少しだけ寂しい。

少しだけ寂しいのに、まだその背を見てしまう自分が、また情けない。


兄は笑ってみせた。


「はは。……おまえも、冗談が上手くなったな」

冗談だと言う割に、声が硬い。

私はわざと視線を外し、息を整える。


昔なら、ここで笑って終われたかもしれない。

兄が私を小突いて、私が悔しがって、それで済んだ。

けれど今は違う。

同じやり取りの形をしていても、そこには王位があり、女がいて、引き返せない立場がある。

もう、昔のようには戻れない。

戻れないからこそ、せめて今の場所から届く言葉を選ぶしかなかった。

兄はさらに、挑発を投げてくる。


「……いいだろう。教育係でも何でも狙え。

その上で――れるものなら、奪ってみろ」


(奪れ、だと)


その言葉が胸に落ちた瞬間、私は――なぜか、マリエンヌの顔を思い浮かべた。

礼儀作法室で、必死に背筋を伸ばしていた横顔。

怖がりながらも、逃げなかった瞳。

恥をかいても、立とうとしていた姿。


(……ああ)


私は気づく。

私は彼女に、なぜ心を引かれている。


頑張っているからだ。

頑張りを、誰かの借り物で終わらせず、自分のものにしていくからだ。

そして――あの場で、みっともなくても前に出たからだ。


(兄上が見初めた理由……分かる気がする)


だから私は、少しだけ息を吸って――真正面から言った。


「なら、奪い取って見せます」


言った瞬間、胸の奥の霧が少し晴れた。

私は今、何を欲しているのか、まだわからない。

だが、思いを強くしたからこそ、私はもう一矢を継いだ。


兄が“教育係”という言葉に反応したこと。

そこに、微かな未練が混じっていること。

それを見逃さなかったからこそ、今の私は、今の関係として兄へ返したかった。


「ところで兄上。教育係は、成功したら婚約破棄される。

……奪うことは出来ませんね」


自分でも意地が悪いと思う。

けれど、これはただの意地悪ではない。


昔みたいに肩を並べて笑えないなら。

昔みたいに無邪気に憧れるだけではいられないなら。

せめて今の私たちらしく、言葉で一つ、ぶつかっておきたかった。


兄の表情が、ほんの一瞬だけ揺れた。

私はその揺れを見て――胸の奥で小さく笑った。


(……一矢、報いた)


それでも、本当は勝ち負けなんてどうでもいい。

兄を打ち負かしたいわけではない。

兄が“兄”であることを、もう一度確かめたかっただけなのかもしれない。


嬉しい。

悔しい。

寂しい。

誇らしい。

そのどれもが混ざったまま、私は最後の言葉を選ぶ。


「兄上が王なら、私は――その王から、譲られるに足る弟になります」


王座を譲れ、と言っているのではない。

兄に認められ、兄に並び、兄の治める国を支えられるだけの弟になる。

昔のようには戻れなくても、今の私たちなりの場所を、そこに作ってみせる。


胸の奥が熱い。

それを悟られないように、私は最後まで平然とした顔を保った。


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