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断罪劇で王子が破棄したのは婚約ではなく計画でした ――断罪されたはずの公爵令嬢は男爵令嬢の王妃教育係になります  作者: 製本業者


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第16話 弟の軽口が、王子の胸を刺した

……予定より、少し遅れた。


礼儀作法室の外へ出たところで、私は喉を潤すために壁際の水差しへ向かった。

ほんの数口。呼吸を整える程度の、水分補給。


――それだけのつもりだったのに。


曲がり角の向こうから、足音がした。

規則正しい。急いではいないが、迷いもない。

その歩幅は、最近になって覚えのあるものだった。


扉が開く。

出てきたのは、第二王子――弟だ。


(……ああ。時間がずれたか)


便所に寄ったのか。水を探したのか。

どちらにしても、こうして鉢合わせるのは偶然にしては出来すぎている。

だが、偶然というものは往々にして、こちらの腹を探る機会をくれる。


私は軽く手を挙げた。


「よう。こんな所で会うとはな」


弟は一瞬だけ目を見開き、すぐに表情を整えた。

その“整え方”が、昔よりずっと上手い。

……いや、上手くなったというより、必要になったのだろう。


「兄上。……礼儀作法室の近くにいらっしゃるとは珍しい」


「確認だ。――それと、噂を聞いた」


私は、わざと気軽に続ける。


「最近、お前が内政の勉強を頑張っていると。書庫に籠もってるそうじゃないか」


弟は、ほんのわずかに視線を逸らした。

照れ隠しというより、反射的な警戒。

だが、声は落ち着いている。


「……大規模な戦いはありませんが、小競り合いばかり多い。

そのくせ出費だけは嵩む。――国庫は相変わらず放漫です。なんとかする必要があります」


真面目すぎる答えに、私は口角を上げた。

“王族らしい”ではない。

“働く男”の返答だ。


「いい心掛けだ。なら私が、お前のために――小競り合いを無くしてやろう」


挑発の形を借りた激励。

私の中で自然に言葉が出る。

弟に対しては、こういう言い方が一番効くと知っているからだ。


弟は即座に返す。


「遠慮なく、そうさせて貰います」


……可愛くない。

だが、そうでなければ困る。

その返答に、私は逆に胸の奥が軽くなるのを感じた。


(よし。まだ折れてない)


私は、あえて次の一撃を投げる。


「それで? 内政の勉強ってのは……王妃候補を奪うための下調べかな」


言ってから、少しだけ間を置く。

弟の反応を見るための、悪趣味な間。

弟は――分かりやすく顔を赤くした。


「……っ、兄上っ」


図星。

だが、それを否定しない程度には、余裕もある。


そして弟は、悔し紛れのように、しかし妙に鋭い声で言った。


「教育係を狙っているのかも知れませんよ」


一瞬、空気が固まった。


――は?


胸の奥が、かちりと音を立てた気がした。

笑い話のはずの軽口が、突然“刃”に変わる感覚。


(教育係……?)


マリエンヌ?

いや、違う。

弟が狙うと言ったのは、教育係――


(……エレノア、だ)


腹の底が熱くなる。

怒りだ。

弟が、私の手札に触れたことへの反射的な苛立ち。


いや――それだけではない。


もっと嫌な感情が、その奥に沈んでいる。

“奪われる”という言葉に、心が過剰に反応している。

しかもそれが、マリエンヌではなく――エレノアに向いている。


(……私は、何を……)


私は表面だけ、笑った。

強張った笑みだと自分でも分かる。

だが、この場で崩すわけにはいかない。


「はは。……お前、冗談が上手くなったな」


声は平静を装っているのに、背中に冷たい汗が滲む。

弟はまだ赤い顔のまま、こちらを探るように見ていた。


――今のは、ただの軽口だ。

そう思いたい。思いたいが。


私は理解してしまった。


弟の言葉が、冗談であろうとなかろうと関係ない。

私が動揺した事実そのものが、私の中の“恐れ”を証明している。


(……奪われたくない?)


何をだ。

誰をだ。


――エレノアを。


その結論が、脳の中で形になった瞬間、

私は自分の感情の正体に、愕然とした。


(不快……いや、怖いのか。私は)


私は、彼女を好敵手だと思っている。

そう整理していた。

政治の駆け引きの相手。最高のカード。

……なのに。


“奪われる”という可能性を突きつけられた途端、

私は、王位の話より先に、胸がざわついた。


強張った笑みのまま、私は弟に言う。


「……いいだろう。教育係でも何でも狙え。

ただし――奪れるものなら、奪ってみろ」


口から出たのは、いつもの挑発。

けれど本音は、まるで違うところで震えていた。


(……私は、何を失いたくないんだ)


答えが怖くて、私はそれ以上、考えないふりをした――その時。


弟が、少しだけ息を吸うのが見えた。

肩がわずかに上がって、すぐ落ちる。

覚悟を決める時の癖だ。


「なら、奪い取って見せます」


即答だった。

照れも、言い訳もない。

その声は、驚くほど真っ直ぐで――私は、逆に胸の内が冷えるのを感じた。


(……やはりな)


弟は、マリエンヌに惹かれている。

政治的な駒としてではなく、もっと生々しい“感情”で。

あの言葉の速さが、それを証明していた。


私は、強張った笑みのまま頷いて見せる。

……それが、出来る精一杯だった。


すると弟は、まるで「次は私の番だ」と言わんばかりに、言葉を続けた。


「ところで兄上。教育係は、成功したら婚約破棄される。

……奪うことは出来ませんね」


――図星。


視界が一瞬、白んだ。

喉が鳴る。

反論の言葉が出てこない。


(違う。違わない。……いや、違うと言い切れない)


私は口を開こうとして、何も出せず、閉じた。

その無様な沈黙こそが、答えだったのだろう。


弟の口元が、ほんのわずかに歪んだ。

勝ち誇った笑みではない。

「やっと刺さった」とでも言うような、意地の悪い満足。


そして弟は、最後に――何かを言った。


「兄上が王なら、私は――その王から、譲られるに足る弟に……」


……だが、私はその後半を、まともに聞き取れなかった。


胸の奥で何かが崩れ、焦りが熱になって耳の内側を塞いだ。

弟の声が遠くなる。

言葉の輪郭だけが、途切れ途切れに落ちてくる。


「兄上……、私は――……王……、……になります」


そう聞こえた。


(……は?)


私は目を見開いた。

今、弟は何と言った?

“私は王になる”?

――いや、そんなはずはない。そんな大それた言葉を、今この場で?

だが、同時に、昔《あの頃》の私に憬れていた弟なら、真正面から激励に答える位の事は普通にするとも思った。


問い返すより先に、弟は踵を返していた。

「……失礼します」


落ち着いた声。

いつもの礼儀。

だが、その背中はどこか軽い。

一矢どころか、二矢三矢と射抜いて去っていく背中だった。


私はその場に取り残される。


背後で、弟の足音が遠ざかる。

それと同時に、胸の中の高揚が完全に冷めていくのが分かった。


(……今のは、何だ)


マリエンヌの件ではない。

王位の件でもない。

もっと別の、もっと厄介なものを――弟は正確に突いてきた。


私は、強張った笑みのまま、ひとりごちる。


「……奪え、だと。馬鹿を言え」


けれど、その言葉は誰にも届かない。

届かないからこそ、私自身に刺さったままだ。


(奪われたくない? ――エレノアを?)


認めたくない答えが、喉元までせり上がってくる。

私はそれを飲み込み、呼吸を整えるふりをして、ただ廊下の冷たさに耐えた。


弟の背中が消えた先が、やけに眩しく見えた。

ああ、やっぱり第二王子ジュリアンは……俺の自慢のジュリアンだ。


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