32.青き楔を結びて
初夏の風に、緑が騒ぐ。窓辺に腰かけて手紙を読んでいるリリーのドレスが、夕暮れの橙色に染まっている。
ラルゴが近づくと、彼女は微笑んで呼び鈴を鳴らした。
「少しお痩せになったのではないですか、お兄様」
「ああ。故に、こうして一服しにきた」
使用人がコーヒーポットとティーセットを乗せたワゴンを静かに運び入れ、一礼して席を外す。リリーはラルゴのカップに濃いコーヒーを注ぎ、思うさまミルクピッチャーを傾ける。差し出されたカップに、ラルゴがミルクをもう一足しすると、リリーは口もとを隠して小さく笑った。
「魔界」を初めて目にしたとき、ラルゴは思わず息をするのも忘れた。崩れ落ちた石垣や橋、朽ちた柱や壁の跡。そして大地を隙間なく埋める草木、曇りなく透き通った川、名も知らぬ色とりどりの花々、遥かなる晴天。
かつて汚染されたというその世界は、誰かが生きた文明の痕跡を残したまま、しなやかに咲き誇っていた。
「門」が開いた後、遺構は「眠った」。長年探索者たちを脅かしてきたトラップの数々が、一切作動しなくなったのだ。まるで、全てをやり終えたかのように。
「これが眠るということなのだな」という、ルカの呟きが耳に残っている。
「支援は間に合っているのでしょうか」
「尽力しているとも」
多くの魔族は、すでに「魔界」へと移り住んで、復興に勤しんでいる。「門」の通行は遺構管理局によって厳重に管理され、やましい者は近づくことすら叶わない状況だ。
ルカが言うことには、「門」はしばらくすればまた閉じる。再び開くことができるようになるまで、相応の月日を要するのだという。今のルカには、それがわかるのだそうだ。
「門」が開いているうちに物資や資器材を送り込むべく、議会はまさしく大わらわだ。しかし、もとより魔族は厳しい環境を生き抜いてきた者たちだ。新たな生活も、すぐに軌道に乗るだろう。
「魔界」に移り住み、魔族を支える。
それがルカの出した結論だった。
「手紙は……ルカからか」
「ええ」
リリーに差し出された手紙を受け取り、目を通していく。活版印刷のように整った文字から、ルカの快活な声が聞こえてくるような気がした。
親愛なる兄上、姉上へ。
僕は今、金の竪琴町の工房にいます。
魔界に発つ前の最後のひとときを、琥珀と親方と共に、大切に過ごすつもりです。
爺やと婆や、それに集落の皆は、無事魔界へと移り住みました。向こうではもう家を建てたり、畑を耕したりしているそうです。
「門」を開いてからというもの、僕は皆から「魔王様」と呼ばれるようになりました。
くすぐったいですが、不思議と以前のように悪い気持ちはしないのです。
再び「門」が開くとき、良かったら会いに来てください。
それまでには、皆で力を合わせて、兄上と姉上をあっと言わせるような素晴らしい町を作り上げて見せましょうとも。
ラルゴはそっと手紙を閉じ、懐にしまった。すぐにでも返事を書こう。そこには、ラルゴも負けじと西側の改革に乗り出したことを認めねばなるまい。
近い将来、弟は対等に向き合うべき存在となる。次に会うとき、真っ当に顔向けできる己でなくばなるまい。
込み上げる万感の思いは、リリーにはお見通しであるらしい。彼女は紅茶を飲み干して、深い青色の瞳を柔らかに伏せた。
「いつか魔界へ野がけに出かけられたら、この上なく素敵ね」
***
滑車がワイヤーを擦る鈍い音が静寂を破る。張り巡らされたワイヤーに引かれ、ずっしりと重たい木箱を載せた台車がガタゴトと進んでいく。次の搬送を待つヤセギスが、積み上がった資材の上に肘を置いて煙管をふかした。
「おっ、今日は調子がいいでやんの。感心感心。きりきり働いてくれよ、俺のかわいこちゃん」
眠りについた遺構は、危険と隣り合わせの迷宮ではなくなった。それでも遺物の採取には依然として探索者資格が必要で、採取上限も据え置かれたままだ。市場の相場が暴落する心配はないだろう。
しかしヤセギスの頭の中では、すでに次の商機が弾き出されていた。
「道が繋がりゃあ、物が動く。物が動きゃあ、商売ができる。次に『門』が開くとき、蒔いた種がどれほどでけぇ花をつけているか。見ものだよなぁ、シズカよ」
背負子のベルトを外しながら、傍らのシズカは深く頷いた。どこまでも続く道の先を見据える横顔を見上げて、ヤセギスはしみじみと吸い口を噛む。
「あの日拾ったちゃらんぽらんのお坊ちゃんが、大物になりゃあがって。まさか本物の『魔王』になるとはな。ま、俺の目に狂いはなかったってこった……ん?」
ビキッ、と不吉な摩擦音が響く。滑車がきゅう、と情けなく鳴いて、台車が道のど真ん中で急停車したのだった。
「おいっ、また故障かよ。いい加減にしさらせ、このぽんこつが!」
うんともすんとも言わない台車に蹴りを入れるヤセギスをよそに、シズカが迷いなく背負子を担ぎ直した。そして何食わぬ顔で、台車からひょいと木箱を持ち上げる。
「待て待て、こいつぁ、うちの商会が大枚を叩いて導入した最新型の搬送機でだな……」
「運んだ方が早い」
「だああ、それじゃあ俺の立つ瀬がねぇだろうが!」
野良犬のごとく喚きながら、ヤセギスは自棄気味に麻袋を背負って、のしのしと進むシズカの後を追った。
***
開け放たれた「門」からは、青い光が絶え間なく溢れ続けている。その光はちっぽけなランタンの明かりを飲み込んで、水底に射す真昼の太陽のごとく、最奥へと続く石の螺旋階段を照らし出していた。
「ねえ。本当に、帰らなくていいの?」
眩いほどの青を背に、吹き抜けの手摺りに凭れかかったピカリが横を見る。手摺りに肘をかけて遠くを見つめるミラージュブルーは、「そうね」と、肯定とも否定とも取れない相槌を打った。
ひとえに「魔界」に帰るためだけに、ミラージュブルーが心血を注いできたことをピカリは知っている。吹き溜まりに生まれ落ちながら、真実に近づくために這い上がったことも。
長きに渡って魂を燃やしてきた彼女の、全てをわかっていると驕るつもりはない。けれど、それほどに焦がれ続けた「魔界」が今、目と鼻の先にあるというのに。
ミラージュブルーの瞳が映し出しているのは「門」ではなく。青い光を照り返す、ピカリの丸い頬だった。
「貴女って、遺構より底なしだから。攻略するのに、一生かかるわ」
艶やかに口の端を上げるミラージュブルーの秀でた額もまた、真っ青に染まっていて。その胸の最奥にどれほどの想いが秘められたのか、ピカリに知るべくもなく、ただひたすらに、湧き上がる喜びを甘受するのだった。
「えへへ」
ピカリはミラージュブルーの手を取ると、無邪気なステップで彼女をくるりと回した。古い絵本に出てくる舞踏会のように。ミラージュブルーは少し面食らい、少し呆れて、満足そうにその身を委ねた。
手摺りにひょいと飛び乗って、ピカリが長身のミラージュブルーの背を抱き寄せる。
「愛してるぜ、ミラ」
重なり合った二人のシルエットが、青い光を遮って。ピカリの胸もとに揺れる空色の石が、淡く煌めいた。
ピカリには遠かれど、ミラージュブルーにはそう遠くない未来に、別れは口を開けて待っている。
約束しよう。いつか来るその日に、この道を選んでよかったと心の底から笑えるような、一番の大冒険を。
***
今日、ルカが「魔界」へ発つ。
山積みになった街の職人たちからの餞別を、ルカは丁寧に箱に詰めていく。とても手持ちの鞄には収まり切らない量になってしまったため、管理局の配達を頼んだらしい。ちょっと前までは絵空事だと思っていた「魔界」が、郵便を送れるほど身近な存在になったことが少し可笑しい。
さっきまではいつもの三人も顔を出していて、それぞれにルカの出立を激励していった。親方も含め、大人が妙に気を回した結果、琥珀はルカと二人きり、ただ荷造りを眺めて過ごす羽目になっている。
「忘れものするなよ。『門』が閉まったら、当分取りに戻れないんだからな」
「わかっている。全部、大事に持っていくとも」
薬屋の魔女から貰ったスパイス瓶を箱の隙間に詰め込んで、ルカがふと顔を上げた。黄橙色の瞳が、物言いたげに揺らいでいる。
「……琥珀」
「うん?」
「ありがとう。何度も僕を助けてくれて」
「何だよ、ばかにしおらしいな。今生の別れってわけでもあるまいに」
琥珀は尻こそばゆい思いで目を逸らす。窓の外では今朝ルカが干した洗濯物が、いつも通りにはためいている。明日からはまた琥珀の役回りだ。ぶっきらぼうな琥珀には、大きな飴玉は貰えないかもしれないけれど。
キッチンのテーブルには、ルカが熱々のフライパンを直置きして焦がした跡。作業場の壁には、ルカの外套をかけるために親方が打ちつけてくれたフック。裏庭の石鹸は、冬からこっち急にちびてしまった。工房のあちこちに、ルカがここにいた痕跡が残っている。
「魔王になったからって、でかい顔してないで皆の助けになるんだぞ。あんたは不器用でおっちょこちょいなんだから」
「君こそ、僕が見張っていないからって無理を重ねるのはやめろよ。君なんか、僕と違ってあっという間に歳をとってしまうんだからな」
「何で齢十六で歳の心配をされなけりゃならないんだ」
お互いに核心を避けて、益体のない軽口ばかりを交わしてしまう。琥珀はため息をついて、作業場の机の隅に置いていた包みを引っ掴み、ルカに差し出した。
「ほら、餞別だ。その箱にでも入れておけよ」
「おお、ありがとう。何だろう、『恵みの水菓子屋』の果実かな……」
包みを開いたルカが、言葉を失う。
「琥珀、これは……!」
「言っとくが、俺だけじゃないからな。皆が手伝ってくれたんだ」
ルカの震える手が、そっと包みの中からオルゴールを取り出した。ぜんまいを巻くと、ルカの母親が好きだったという歌に合わせて、木彫りの少年が竪琴を掻き鳴らしはじめる。
修理前と違う箇所はただ一つ。少年の真横に建てられた、真鍮のガス灯だ。ガラスカバーの中では「大当たり」の欠片が、ルカに反応して青く灯っている。
これから先、ルカが独りで過ごすことになる永い永い夜を、この小さな明かりが照らし出すように。
青く染まったルカの瞳が、みるみるうちに涙で満たされていく。
「ほら、早くしまえ」
「これは鞄に詰めて、手ずから持っていく。肌身離さず、ずっと、ずっと大切にする……!」
「わかった、わかったから泣くな」
「君だって本当は今にも泣き出しそうなんだろう。自分一人だけ格好つけようとしたって駄目だ!」
「いや、別に」
「ええっ、絶対だな? 出て行ったふりをしてすぐに戻ってきて確かめてやるんだからな!」
「早く行けって……」
もたもたしているルカの鞄に、強引にオルゴールの包みを詰めてやると、ルカは名残惜しげに、けれど意を決したように外套を羽織った。
「本当に、あんまり自分自身をいじめないでくれ。君のことを大切に思っている僕のために」
「ああ。肝に銘じておく」
今生の別れではない。
だけど、この日々はここで終わりを迎える。
「何かこれ、あれみたいだな。ほら、都で一緒に見た……」
「都で? 何のことだ?」
「だから、あれだよ……ええい、いいや、もう」
琥珀は机の上に広げっぱなしになっていた設計図を裏返して、羽根ペンを走らせた。そしてインクの乾燥もほどほどに、ルカの胸に無理やり押しつける。
「ここで読むなよ。出てからにしろ」
***
工房を後にしたルカは、ぱんぱんの鞄を背負い直して、手の中の紙を見た。琥珀が綺麗に線を引いた、万年時計の設計図の写し書き。はてと裏返してみると、そこには琥珀の走り書きが残されていた。
俺も諦めないから、あんたも頑張れ。
骨だけになっても友達でいることを、ここに証する。
ルカは溢れる想いを抱えて、自らの髪を結えていた青いリボンを解いた。初夏の風が、白金色の髪を梳いていく。大切に丸めた証書にリボンを結びつけて、ルカは振り返ることなく一歩を踏み出した。




