30.真実
遺構の裏手に広がる、深い谷の底。渓流にかかる跳ね橋の向こうに、楔の一族の郷はあった。厳めしいサーコート姿の門番に恐る恐る名を名乗ると、いともあっさりと郷の中へ通される。
透き通った水面の上に十字を切る渡り廊下。その中央に設えられた小さなガゼボのベンチに腰かけて、ルカは周囲を見渡した。
巨大な岩棚が人工的にくり抜かれ、何層にも渡って居住区が造りつけられている。豊かな緑と迫り出した岩肌が、崖上から覗き込む者の視線を遮っていた。石柱や階段の緻密さは、煌びやかな王宮のそれとは違い、書物で読んだ聖なる神殿のようだった。
景観に圧倒されていると、静かな足音が近づいてくる。振り返ったルカは、こぼれんばかりに目を見開いた。
「母、上?」
まっすぐな亜麻色の髪に、黄橙色の透き通った瞳。亡き母に瓜二つの女性は、優しげに目を細め、エンブレムの輝くローブの胸もとに手を当てた。
「うん。あんまり姉さんには似ていないね。父親似なのかな。けれど、瞳はそっくりだ」
姉さん。その口ぶりから、彼女が母の血縁──自分の叔母であることは、すぐに察せられた。
「ようこそ、ルカ。我が楔の一族の郷へ。本当に、よく来てくれた」
母は生前、故郷のことをよく話してくれた。曰く、楔の一族は国家成立以前から存在している不可侵の一族なのだという。
ただそれ以外のことは、水浴びが気持ちいいだの、栽培しているカブが美味いだのといったことばかりで、一族が「この国の誰よりも魔王を知る存在」であることなんか、乳母に聞かされて初めて知ったのだが。
「僕がここへ来ることをご存知だったのですか。何の便りも出さなかったのに」
「ミラージュブルーから、君のことは一通り聞いていたからね。もしも君が己の足でここに辿り着いたのなら、どうか導いてやってほしいと」
「ミラージュブルーが?」
その名を聞いて、このいかにも閉鎖的な土地で、すんなりと招き入れられた理由にようやく合点がいった。さすがの根回しに心の中で感謝する。
「遺構管理局は我々と契約して遺構を管理しているだけだからね。肝心なことはなんにも知らないんだ。だから、君の知りたいことには私が答えよう」
真っ青な小鳥が、樹々のカンバスに流線を描く。せせらぎの音を聴きながら、ルカは高鳴る胸を押さえつけた。
「遺構は……『魔界』に繋がっているのですか?」
「うん。そうだ。遺構というのは、かつてこちら側と向こう側を繋ぐものとして、魔王が造ったものだからね」
叔母は芝居がかった仕草で両手を広げる。ごろりと大粒の印章指輪が、陽射しを受けて白銀に光った。
「だけど遠い昔、その繋ぎ目に『門』が造られ、堅く閉ざされたんだ。遺構の最深部で君が見たものは、それだよ」
「……やっぱり」
琥珀とピカリと、三人で見つけたあの異様な二枚壁。新世界に繋がると大仰に叫ばれていた「境界」。ルカは一人で考えるうちに、それらが無関係ではあるまいと思うようになっていた。
「でも、どうして閉ざされたのですか。お陰で魔族が帰れなくなってしまったじゃありませんか」
「そこはほら、御伽話にある通り。『魔界』はひどく汚染されて、とても魔族の住める場所ではなくなってしまったからなんだ」
「汚染、された……」
──魔王は空を汚し、水を濁し、大地を腐らせ、この国を絶望の淵へと突き落としたのです。
──大昔、オイラたちの『魔界』をめちゃくちゃにした勇者を、魔王様がやっつけてくれた。
人間と魔族の間で、御伽話はあべこべに伝わっている。しかし世界が汚染されたという一点においては、どちらでも矛盾なく成立するように思われた。
「では……魔族が『魔界』に帰ることは、できないのですか」
せっかく、彼らが帰りたいと願い続けてきたその場所に、遺構が繋がっているとわかったのに。
ルカが俯くと、叔母は黙って前髪を掻き上げた。母そっくりの秀でた額を露わにし、忌々しい数字を口にする。
「七十・四」
「っ……!?」
びくり、とルカの肩が跳ねた。体に染みついた恐怖が呼び起こされ、胸が早鐘を打つ。
「あっ、すまない。怯えさせるつもりはなかったんだ」
叔母は両手を伸ばして、ルカの体を躊躇なく抱き寄せる。ああ、やはりこの人は母の妹だ。
「楔の一族の役目は二つ。真実を伝え残すこと。もう一つは『門』を見守ることだった。『門』はね、乱れていたんだ。一族は魔力によって、それを視ることができたんだよ」
「乱れていた……汚染されていたから?」
叔母が頭の上で鷹揚に頷く。
「それは長い年月をかけて、だんだん小さくなっていったんだけれど……私たちは最後まで見守ることはできなかった。魔力を持つ者が、郷に一人もいなくなってしまったから」
腕の中からルカを解放して、叔母は真剣な眼差しを向けてくる。
「そんなときだよ。奇特な連中が、それと知らずに『門』に近づいたのは。君には覚えがあるね」
ルカは躊躇いがちに頷いた。思い出したくもない、あの境界観測研究所のことだ。
「奴らの理屈は間違っていたけれど。結果的に、私たちの代わりに観測してくれたわけだ。七十・四という揺らがぬ値を。それってつまり『門』はもう乱れていないってことだろ?」
ルカは弾かれたように顔を上げる。
「それは……今の魔界は、安全ということですか」
「うん。きっとね」
叔母がニカッと白い歯を見せる。ルカは思わず天を仰いだ。脳裏に、乳母、執事、タッタたちの顔が順番に浮かんでは消えていく。
「それにね。魔王と勇者が力を合わせて造ったのが『門』であるからには、わけがある。私はずっと、そう思っているんだ」
「えっ……? 魔王と勇者が……力を……?」
「そうとも。それこそが、私たちが守ってきた真実だよ」
叔母は困ったように笑って、白い指先でルカの目もとをなぞった。その仕草で、ルカは自分が泣いていることを知る。
「あ、れ……僕は、どうして」
何故だろう。悲しくもないのに涙が止まらない。
呆然と頬を拭っているルカの背中を、叔母が優しく抱いた。
「恐れることなど何もない。魔王と勇者は、命をかけて魔族を救った、心優しい英雄だ」
***
懐かしい匂いのする母の生家の客間で、温かい紅茶を出されて、ふかふかのブランケットで包み込まれて。それでもなお止めどなく流れる涙を、ルカは拭うことすら諦めた。
途方もなく大きな話を聞いた。
けれど魔王と勇者の真実を聞いたときから、何故だか琥珀のことで頭がいっぱいだった。
琥珀に会いたい。声が聞きたい。話したいことがたくさんある。
家の中は整然としていて、母の気配を思わせた。机の上には叔母が置いていった帳面がある。手持ち無沙汰に表紙をめくると、叔母の代筆したという母の記録が、大味な字で認められていた。
「『門』は一年前よりずっと大人しい。私が大人になる頃にはすっかりお利口になるのでしょう」
「いつか向こう側に行けるようになったら、すり潰したカボチャをパンに挟んで、皆で野がけに出かけましょ」
母の声がそのまま聞こえてきそうな記録に、笑みが浮かぶ。最後の日付は、ルカが生まれる少し前のものだった。
「明日私はここを発つ。最後の見届け人である私の門出を、祝福してくれてありがとね。先のことは未来に委ねましょう。かつて二人の英雄がそうしたように」
ルカがそっと帳面を閉じた。
戸口の方から物音がしたのは、それと同時だった。
そこに立っていたのは、かつて王宮の片隅に閉じ込められたその日から、焦がれてやまなかった兄、ラルゴだった。
「……ルカ」
「あ、兄上。どうして、ここに」
ラルゴは眉一つ動かさなかったが、その拳は腿の横に固く握り締められていた。ルカは赤らんだ目もとを拭いながら、じりじりと後ずさる。こんな辺境で、偶さか巡り会うことなどあり得ないのだから。
なす術なく立ち尽くすルカのもとに、ラルゴは歩み寄り、そのかさついた掌をルカの頭に乗せた。
その瞬間、もう慕うな、信じるなと、きつく心を縛り上げてきたしがらみが弾け飛んでいく。霧の森に迷い込んだ幼子のように、ルカは涙した。
***
「お前を追ってきたはずだったのだが。知らぬうちに、追い越してしまったらしい」
ルカの向かいに座したラルゴが、熱い紅茶を啜っている。その光景は、随分と遅れてやってきた茶会のようだった。
一目散にこの郷へすっ飛んできたのに、肝心のルカがまだ到着していないことに気づいたときの兄を想像し、ルカはこっそり頬を緩ませた。
ひとしきり互いの近況を話した後、ラルゴは空になったティーカップを音もなく置いた。
「ルカ。お前は……『門』を開けるつもりなのか」
「──はい」
ルカはしかと頷いた。
かつて遺構はルカを受け入れたが、最奥の『門』だけは開かなかった。しかし叔母の話を聞いてから、ルカには奇妙な予感があった。
今の自分になら、『門』を開けられる。そんな予感が。
「……母君は聡明な方であった。私には、あの方が何一つ気づいていなかったとは到底思えぬのだ」
ルカの眼差しを真正面から受け止めて、ラルゴはテーブルの上で両手の指を組み直した。
「しかし、あの方はお前に何も語らなんだ。それは……お前を運命に縛らぬためだったのではないのか」
さやかな青い瞳がルカを見据える。ルカは古びた帳面に記された母の名をなぞった。母が何を思っていたのか、今となっては誰にもわからない。あるいは人間と魔族、二つの御伽話のどちらもルカに語って聞かせなかったことが、その答えなのかもしれない。
だけどここまで歩いてきた道は、決して定められたものではなかったはずだ。
「皆、ずっといたんです。僕が見ようとしなかっただけで。自分のことばかりに夢中だったから」
居場所のない人たちがいた。
身を寄せ合って暮らしながら、それでも帰れない故郷に憧れていた。
悲しみは最初から、そこにあった。
「……ただでは済まないかも知れない。背負う覚悟があるのか」
ラルゴの深い声が、胸に滲む。
叔母はああ言ったが、『門』の向こうは未知だ。何が起こるか、想像もつかない。
それでもきっと、造られたのが『門』であることには、わけがある。
「今ここに僕がいるのは……友達が助けてくれたからなんです」
ヤセギス。シズカ。ピカリ。そして、琥珀。
皆のようになりたい。
帰りたいと願う人を、帰してあげたい。
「もう、逃げるのはおしまいだ」




