29.叫べ、機械仕掛けのままならない昨日を
ここが本当に魔族の集落なのか。
その場所に足を踏み入れたとき、奇しくもラルゴは弟と同じことを考えたのだった。
すこぶる幅の狭い道は、馬車など到底通れそうもない。雨上がりの泥濘に革靴を埋めながら、ラルゴは辺りを見回した。
あちこちが傷んだ廃材のバラック。処理しきれずに堆く積まれた屑の山。その陰から、魔族たちが落ち窪んだ目でラルゴのようすを窺っている。
「ここに、ルカがいたのだな」
「ええ。つい今朝方まで」
ラルゴの後ろにしずしずと付き従っていた老執事が、肯定を示す。
この集落で彼の姿を目にしたときの驚きは、筆舌に尽くしがたい。
ルカの首に刻まれた紋様の存在が明るみになった後、それを長年隠匿し続けていた執事と乳母への沙汰が論じられた。しかしラルゴにとって、あの一家へは多大な義理がある。処罰を求める声を一蹴し、長年の奉公に免じて暇を出したはずだったのだ。
「ラルゴ様の寛大な取り計らいには、夫婦共々、深く感謝いたしております。ですが……王家を追放された魔族に、行き場などございません」
その言葉が、己の講じた「寛大な処置」の末路を突きつける。ラルゴは泥に塗れた足もとから視線を上げ、路傍の壊れかけた荷車を見つめた。
「ラルゴ様は、ルカ様を捕らえるためにこのような鄙びた地へおいでになったわけではないのですな」
「ああ。相違ない」
魔王の証は真実なれど、かつて垣間見た未来は決して、人ならざる力の暴走などではなかったのだ。本当ならば一も二もなく飛び出して、ルカに会わねばならなかった。しかしそれが叶わなかったのは、境界観測研究所の研究員の証言から、議会にルカの生存が知れてしまったからに他ならない。やまない紛糾を、捜索を口実に無理やり収め、ラルゴは今ここにいる。
「なあ、爺ちゃん」
余所者のラルゴには目もくれず、蓬色のおかっぱ頭の少年が、おずおずと執事の足もとに歩み寄ってくる。
「ルカ、帰ってくるよな。ちょっと出かけてるだけだよな……?」
心細そうな少年の前に身を屈め、執事は何も言わずに小さな肩に手を置いた。唇を噛み締めた少年の手には、甘酸っぱい香りのする瓶が握り締められていた。
「ルカはどこへ向かったのだ。聞かせてはくれまいか」
ラルゴは尋ねる。老人は恭しく胸に手を当てた。
「あの方の母君の生まれ故郷──楔の一族の郷でございます」
***
ペンキを一面に塗りたくったような晴天だった。空の色に溶け込む豊かな髪を風に遊ばせながら、ミラージュブルーが大きく手を振っている。焦げつく胸の内を悟られまいと、琥珀は努めて軽く手を挙げた。
「良かったんですか、ルカを行かせて」
部品の入った包みを膝に抱いて、琥珀はベンチに腰を下ろした。中央広場には手回しオルガンの軽やかな音色と、まばらな拍手の音が響いている。
「……そうねぇ」
近所に二号店がオープンしたばかりの「一山亭」の金貨チョコレートを齧りながら、ミラージュブルーは珍しく煮え切らない答えを返してくる。
かねてより彼女は「魔王の再来をずっと待っていた」と語っていた。研究所のごたごたのせいで駆けずり回っていたとはいえ、みすみすルカを取り逃したというのは、どうにも納得がいかなかった。
「見当違いなら聞き流してほしい。遺構は、あんたたち魔族が帰りたがっているという『魔界』に関係してるんじゃないんですか。だから、あんたは……」
「あらま」
『魔界』。その単語を耳にすると、ミラージュブルーは形の良い眉を跳ね上げる。無造作に髪を掻き上げた拍子に、ジャケットの袖口から琥珀の好きな金の腕時計が覗いた。
「そうよ。だから私はのし上がったの。どんなことだってやったわ。とても坊やには聞かせられないことだってね」
艶やかな赤葡萄色の唇が、悩ましげにチョコレートに口づける。琥珀はかっ、と顔を赤らめて目を逸らした。
「なら、どうして」
そうまでして望んだ「魔界」に、あと一息で手が届きそうだった。魔王の生まれ変わりであるルカを求めたのは、そのためだったのではないのか。
「あーら、そんなに私に帰ってほしいの? つれないのね」
「ちっ、ちが……!」
腰を浮かせかけた琥珀は、はたと気づく。ここで彼女のからかいを躍起になって否定することが、何を意味するかを。
帰ってほしくなんかない。
綺麗な空色の髪も、スマートなのに大雑把なところも、官僚なのに最前線へ躍り出ていく勇敢な姿も、全てが好きだ。こんなに格好いい大人を見たのは、生まれて初めてだった。
琥珀は不自由な右手で、無意識にポケットの膨らみを探る。手回しオルガンの演奏をたっぷり四小節は聴いて、ようやく口をついて出たのは、心にもないことだった。
「こっちに恋人ができて、帰りたくなくなった、とか?」
琥珀は笑ってみせたが、ミラージュブルーは笑い返さなかった。長い睫毛の下に、今まで一度も見たことのない色が宿る。
「ええ。そうよ」
その顔を見た途端、言い尽くせぬ後悔が琥珀を襲った。早鐘を打っていた胸が急に冷えて、霜焼けのようにひりついていく。
何も驚くようなことじゃない。端から、彼女ほど魅惑的な人が放っておかれるわけがないのだ。
「私が『魔界』に帰るために、何かと手を貸してくれるのよ。私のことが愛おしくてたまらないくせに、おちゃらけてばかりいて」
聞きたくない。いっそ耳を塞いでしまいたかった。だがミラージュブルーの手前、そんな情けない真似ができるはずもない。
なすがままに惚気を食らうしかなかった琥珀の中で、どういうわけか、次第に一つの像が結ばれていく。
「貴方たちを守れなかった無念を、おくびにも出さずに眩しく笑っている。あの娘が、ろくでもない世の中でただ一つの、私の光」
***
夕焼けを、遠くの貨物列車が横切っていく。店じまいをはじめる大通りの商人たち。出窓から身を乗り出して洗濯物を取り込む婦人。けたたましく汽笛を噴き上げて駅に帰っていくブリキのトラム。琥珀の右手にぶら下がった手製のセレスタイトのペンダント。街中のすべてが、鮮やかな橙色に染め抜かれている。
ミラージュブルーの髪の色に似ていると思って、都の露店で買った鉱石。いつか渡そうと思ってポケットに忍ばせたまま、結局最後まで渡すことができなかった。
「俺って……鈍感なんかな」
思い返せば、他所行きのワンピースなんかを着るようになったのも、紅を差すようになったのも、ミラージュブルーと出会ってからのことだった。ずっと近くで見てきたのに、どうして少しも気に留めなかったのだろう。はじめっから二人の相性は抜群だったのに。
光の粒が踊る用水路に向かって、大きく右手を振りかぶる。ズキンと焼けつく痛みが走った。ペンダントは手からすっぽ抜け、あえなく鉄柵に絡まりついた。
「……かっこわる」
琥珀は石畳に座り込んで、膝に顔を埋めた。カラスの群れが、騒々しく頭上を飛び去っていく。
ペンダントは貰い手がつかない。
右手は一向に言うことを聞かない。
一緒に石を選んだルカは、もういない。
──僕が首だけになっても、友達でいてくれるか?
汽笛の音が呼び覚ます。
琥珀はやおら立ち上がり、柵に絡まったペンダントを解いて、自らの首へと提げた。帰路につく勤め人たちの隙間を縫って、駆ける。恋人同士が甘く語らう噴水前を、誰もいないベンチを抜き去り、時計塔へと辿り着く。堅く閉ざされた扉の鍵を開ける権利があるのは、役人の他には親方と、一番弟子の琥珀だけだ。
螺旋階段を一段飛ばしで昇りきり、親方のからくり時計の横の窓から顔を出す。トラムの二階なんかよりずっと見晴らしがいい。
遺構の聳える東の山。都へ続く陸橋のシルエット。西に林立する煙突の向こう側へと落ちていく真っ赤な夕日に、琥珀は喉も割れよと叫びを上げた。
「こんなところで……終わってたまるかぁ!」
時計の針が十八時を指す。ブリキの人形たちが踊り出し、琥珀の雄叫びを掻き消していった。
***
工房の作業机の隅には、ルカが置いていったオルゴールがぽつねんと残されている。へし折れた巻鍵を見れば、ルカが何を思ったかくらいは察しがついた。琥珀はオイルランプに火を灯し、椅子を引く。工具を握りしめる。止まらない震えを左手で強引に押さえつけ、息を殺しながらねじを回した。
あくる日も、同じように工具を握った。ふと、切り揃えられた橙色の髪が視界に入る。ピカリだった。擦り傷だらけの手が、琥珀の代わりにオルゴールのケースを押さえる。束の間、胸の奥に痛みが刺す。痛みはすぐに、心強さへと変わる。
ヤセギスは面倒がる風を装って、切れた油を買いに走った。シズカは汗だくの琥珀にそっと手拭いを差し出した。
誰も、何も言わず、そばにいる。
悔やんでいることは、たった一つ。
あの日、答えられなかったことだけだ。




