28.魔王様になってよ
「『魔界』……?」
「左様でございます」
白いものの増えた髪を後ろで括った執事が、まっすぐに斧を振り下ろす。真っ二つに割れた薪が、乾いた音を立てて地面に転がった。
「古き時代、我らの祖先はそこで平穏に暮らしておりました。それがある日を境に、棲家を追われることになったのです。故に魔族は誰しもが、いつか『魔界』に帰りたいと望んでいるのです」
少し離れた場所で、薪に鉈を食い込ませながら、ルカが疑問を口にする。
「帰りたい、とは。一度も行ったことがない場所に、か?」
「ええ。そうですとも。この世に生を受けた瞬間から、まだ見ぬ故郷を想っているのです。我々が誰にも憚ることなく生きられる場所があるのだと信じて」
執事は拾い上げた薪を、後輪の一つ外れた荷車へと丁寧に積み上げていく。
「ただし、坊ちゃまの仰るその『境界』なるものが、『魔界』と関わりのあるものかどうかは、この爺やにもわかりませぬ」
「そう、か。そうだよな」
ルカは鉈と焚き付けを置いて、傾いた荷台を支えた。ガタガタと荷車を牽きはじめた執事が、鈍色の空の広がる遠くの尾根を見上げた。「坊ちゃま。寒くはありませんかな? 今日は深い霧が出そうでございますから」
***
集落に朝日が射し込む頃、あちこちで建てつけの悪い長屋の扉が軋みはじめた。上流から汲んできた水を広場の大甕に移しているルカに、魔族たちが思い思いの声をかけていく。
「今朝も早いな、夜更かし王子」
「やあやあ、気持ちのいい朝じゃないか! 薪ならば既に薪小屋に放り込んでおいたぞ」
「ルカ、屋根の穴、直したのあんた?」
「ふふん、任せたまえ。夜更けのうちに塞いでおいたとも」
「下手くそ、釘が曲がって外れてるじゃない!」
「ええっ?」
魔族の集落に、若い働き手の姿はほとんどない。働き盛りの多くは出稼ぎに行き、残された年寄りや子どもが痩せた土地を耕し、水を汲んでは火を熾して暮らしている。
そんな中、疲れを知らないルカの存在は、あっという間に引く手数多となっていた。
「ルカ、あの、これ。水のお礼」
年端のいかない少女が、塩のスープで満たされた木の器をおずおずと差し出してきた。
ルカは食事を摂らずとも生きていける。本当なら辞した方が、乏しい食糧を切り盛りする集落のためになるのだろう。だがルカは彼女の前に跪き、恭しくそれを受け取った。
「君の真心に感謝する。マドモアゼル」
途端に少女は丸い頬を真っ赤に染めて、友人たちと甲高い声を上げながら走っていってしまった。
「また、そうやって見境なく粉をかけるんだから。ルカったら罪な人ね」
柵の向こうから呆れ返って覗き込んできたカヤが、ませた口を叩く。
「何を言う。僕ほど清廉潔白な者は、国中探したっているものか」
「ルカがいたんじゃ、この集落の男は意中の相手と懇ろになるのも一苦労よね。ねえ、タッタ」
「え? あ、うん」
莢から取り出した豆を干し網に並べていたタッタが、ひどく気のない返事をする。
「タッタ。君、今朝からまるっきり上の空じゃないか」
「何さ。アンタ、そういうお年頃?」
「あのなあ……おい、ルカ! ちょっと、こっち!」
急に立ち上がったタッタが、ルカの手首をがっちりと掴む。「えっ、どうしたんだ」スープを大慌てで飲み干して、ルカはタッタに手を引かれるまま広場を後にした。取り残されたカヤだけが、目を瞬いて二人の背中を見送っていた。
***
「ルカ……魔王様だったのか?」
薪小屋の裏手に回るや否や、タッタは辛抱たまらないようすで声を上擦らせた。赤葡萄色の丸い瞳の奥には、隠しきれない光が踊っている。
「どうして、それを」
「ばかに早起きしちゃってさ。散歩してたら、聞いちゃったんだ。爺ちゃんと話してるのを」
ルカは思わず額を押さえた。こんな早朝に目を覚ましている者がいるとはつゆ知らず、表で執事に話を振ってしまったのは軽率だった。それもかなり核心に迫る話題を。とは言え、今さらこの集落で正体を知られたところで、困るようなこともない。ここでは素性を理由に追いかけ回されたり、大切なものを取り上げられたりすることはないのだから。
「僕は、魔王の生まれ変わりと呼ばれている。だけど、それだけさ。人より少しばかり頑丈な他には何もない。期待を裏切ってすまないが、特別なことなんか何一つ出来やしないんだ」
魔族にとって魔王というものが如何なる存在か、ルカは知らない。それでもいつかミラージュブルーが口にしたように「待ち望んでいた」のなら。さぞかし失望させるに違いない。
しかしルカの予想に反して、タッタの頬はふくふくと喜色を浮かべたままだ。
「そんなことないやい! ルカが来てから、皆の顔が明るくなった。やっぱり魔王様はオイラたちを助けてくれるんだ。御伽話みたいに!」
「御伽話?」
「魔王様と勇者の御伽話のことだよ、わかるだろ。大昔、オイラたちの『魔界』をめちゃくちゃにした勇者を、魔王様がやっつけてくれた。そうして魔族を救ってくれたんだって。ガキの頃、耳にタコができるほど聞かされたんだからな」
誇らしげに語られる内容は、ルカの知る御伽話とまるで正反対だった。「魔王が世界を未曾有の危機に陥れ、勇者に打ち滅ぼされた」。だからこそ、ルカは王家を追われたのだから。
しかし思い返せば、ルカが初めて彼の御伽話に触れたのは、幼少のみぎり、王立図書館で読んだ絵本だ。母や、魔族である乳母や執事がルカに語って聞かせたのではない。
いったい、どちらが本当なのか。
「魔王様は最後に、もう一度生まれ変わって、魔族に会いにきてくれるって言ったんだって! なあ、ルカ、オイラたちを魔界に帰してくれるんだろ?」
「君たちを、魔界に? 僕が……?」
早口に捲し立てるタッタの手が、ルカのシャツの裾を強く掴んでくる。
──この魂が巡りし刻、再び相見えん。
混乱するルカの脳裏に、御伽話の結びが蘇った。
「タッタ。僕は、僕だ」
ルカは首を振った。真実がどうあれ、ルカは無力な一人の人間でしかない。
「わかってる。だけど……ルカ、頼むよ。魔王様になってよ!」
しがみつく指が、ひどく重たい。湿り気を帯びた風が、二人の間を無理やりにすり抜けていく。
「やめておけ、タッタ」
沈黙を破ったのは、ルカでもタッタでもなかった。濡れたような長髪を無造作にまとめ上げたヨダカが、砂利を踏みしめながら歩み寄ってくる。
ルカは怯んだ。今でこそ、ヨダカが近くにいるだけで竦み上がることはなくなった。しかしヨダカが露骨にルカを避けていたのも手伝い、この一ヶ月、まともに言葉を交わしたことすらなかったのだ。
「そいつにお前の望むような力はない。只人も同然だ」
「……兄ちゃんも、知ってたのか」
タッタは引き下がらない。きっ、と眦を釣り上げてヨダカを見上げる。弟の確信めいた問いかけに、ヨダカは答えない。その代わり、否定もしなかった。
「どうして隠すんだ。何で止めるんだよ! だったら、兄ちゃんが何とかしてよ。兄ちゃんが仕事に失敗しなけりゃ、母ちゃんだって帰ってきてくれたかもしれないのに!」
「タッタ!」
タッタの口から飛び出した言葉は、到底見過ごせるものではなかった。目を伏せたまま全てを受け止めているヨダカに代わって、ルカはタッタの細い肩を強く揺さぶった。
「僕らに居場所がないのは、けっして、ヨダカのせいじゃない!」
在りし日のラルゴが、民に石を投げられる謂れなどなかったのと同じように。
たとえ、タッタがどんなに傷ついていたとしても、闇雲にヨダカを傷つけていいわけじゃない。
ヨダカが物言いたげに口を開きかけ、やめる。タッタはルカの剣幕に弾かれたように後ずさり、ぎゅっと拳を握りしめる。そして、一度も振り返ることなく走り去っていった。
***
執事の忠告していた通り、日が落ちるに従って、集落は乳白色の霧に包まれはじめた。
一方、頭が冷えたら戻ってくるだろうと思われていたタッタの姿はどこにもなく。
やがて森の入口に、タッタの襟巻きが落ちているのが見つかって、集落はにわかに騒然としたのだった。
「この森は危険なのか」
「他所では『迷いの森』などと称され忌避されるが、この地に生きる俺たちにとっては知れたものだ。……これほどの霧に覆われてさえいなければな」
苦々しく吐き捨て、ヨダカはランタンの明かりを森の奥へと差し向ける。真っ白に濡れた森は、分厚い白粉を施した道化師のように底知れない。どこからともなく響いてくる獣の遠吠えに、ルカはびくりと肩を震わせる。こんな場所にひとりぼっちで。もしもタッタの身に何かあったら。ランタンを握る手に、じわりと嫌な汗が滲む。
「気負うな。全ての因果を己に求めるのならば、それは思い上がりだ」
ぴしゃりと放たれた言葉に、ルカはハッと前を向いた。ヨダカは鉈で樹幹に印をつけながら、躊躇なく奥へと進んでいく。
森に不慣れなルカは、ヨダカの後をついて回ることしかできない。白濁した視界とぬるつく足場が、どうしようもなく鼓動を高鳴らせる。せめてもと声を張り上げ、喉を嗄らしてタッタの名を呼んだ。
「タッタ、返事をしてくれ! もう怒ってなんかいないから!」
すると。
「……ルカ?」
分厚い霧に掻き消されそうなほど小さな声を、ルカの耳が拾い上げた。ヨダカと目配せをして、声がした方角へと駆けつける。
そこには、苔むした倒木の上で、膝を抱えて蹲るタッタの姿があった。
なりふり構わず腐葉土に膝をつき、ルカはタッタの冷え切った体を搔き抱いた。耳もとでしゃくり上げながら、タッタは「ごめんなさい」と繰り返す。
「どうして森になんか入ったんだ」
「兄ちゃんに、これ……」
タッタの泥だらけの手には、赤黒い染みのついた小さな麻袋が握り締められていた。中を覗くと、入っていたのは袋いっぱいの桑の実だった。
固く引き結ばれていたヨダカの唇が、淡く解ける。
「……俺の、好物だ」
「兄ちゃん、ひどいこと言って、ごめんなさい」
涙を溢しながら俯いたタッタの頭に、ヨダカの無骨な掌が乗せられる。兄弟の不器用な姿が、ルカの胸を無性に締めつけた。
「ルカが魔王様だったから……魔王様になってほしかったんじゃない」
ヨダカの背中に揺られるタッタが、微睡みながら口走る。
「ルカが、ルカだから……魔王様になってほしかったんだ」
印を辿って来た道を戻りながら、ルカはそっと、小さな麻袋を抱きしめた。
***
乳母の思いつきで、潰れてしまった桑の実は煮詰めてジャムにすることになった。タッタやカヤは飛び上がって喜び、ヨダカですら黙って口の端を持ち上げた。いつもの味気ない黒パンも、明日の朝にはきっと最高のご馳走になるだろう。
「婆や。婆やも、ずっと魔界に帰りたかったのか?」
機嫌よく鍋を掻き回していた乳母の手が、一時止まる。甘酸っぱい香りが辺りに満ちて、長屋の外からはタッタたちの楽しげな声がする。
「坊ちゃまは、なんにも気になさらなくていいのですよ」
「教えてくれ。屋敷にいた頃から、ずっとそうだったのか」
擦り切れたテーブルを拭きながら、ルカはひたすらに答えを待った。すっかりぴかぴかになる頃、ようやく乳母が口を開く。
「奥様には感謝の言葉もございません。私どものような者に身分を与えてくださったご恩、生涯忘れることはないでしょう。……ですけれど、物心ついた時分からずっと、婆やも帰りとうございました」
ぐつぐつと、甘いジャムが煮える。ぱちぱちと、薪が爆ぜる。隙間風がひゅうひゅうと素肌を冷やし、建てつけの悪いドアを揺らす。
明るい笑い声。冷たい風。兄の背中で眠る弟。濁った水の匂い。懐かしい工房の音。さまざまなものが、ルカの胸をぐるぐると渦巻いている。
「なあ、婆や。魔王って、いったい何なのだろう。僕にも……なれるのだろうか」




