27.帰る場所
粉々に砕け散った「大当たりだったもの」の残骸が、窓から射し込む陽光を透かしている。ルカがいればきっと、「あれから一ヶ月も経つのにまだ散らかしたままとは信じがたい」だの何だのと小言を並べ、すっかり片づけてしまったことだろう。
爪先に当たった欠片を苛立ちまぎれに蹴飛ばして、琥珀は作業台の上の廃棄時計を睨みつけた。ホルダーに嵌め込んだ時計のケースに左手を添え、右手でドライバーを握りしめる。極小のネジの溝に先端を押し込もうとするが、カタカタと震えて一向に狙いが定まらない。右手を左手で押さえつけても、痙攣は大きくなるばかりだ。
「痛……」
増していく痛みに耐えきれず、ドライバーを取り落とす。舌打ちをしながら拾い上げ、左手に持ち替えてネジを回していく。すると今度は右手の押さえが利かず、ピンセットで外したバネが飛んでいってしまった。
「くそっ……畜生!」
命同然に扱ってきた工具を放り投げて、琥珀は机を殴りつけた。傷が塞がったって、使いものにならなければ意味がない。ガラクタだってまだ使い道がある。こんななまくらをぶら下げて、職人面とはお笑い種だ。
何度も、何度も、机を叩きつける。一丁前に、拳に痛みばかりが蓄積していく。いっそ完膚なきまでに壊れてしまえば。
いや、いっそ、ルカのように、この右手も元通りに再生したのなら。
「……違う」
反吐が出そうだ。右手が馬鹿になっただけじゃ飽き足らず、頭の中まで腐り果てようというのか。ずっと、隣で何を見てきた。どこまで堕ちれば気が済むのだ。
「違う、違う、違う!」
振り下ろそうとした拳が、ぴたりと止まる。誰かが琥珀の手首を、背後からしかと掴んでいた。
「その辺りにしておけ」
「あ……」
いったい、いつからそこにいたのか。路地裏のならず者から琥珀を庇ってくれたあの日と変わらぬ佇まいで、シズカが立っていた。
「……悪い。気づかなかった。今、茶葉を切らしてて。水を持ってくるな」
「構うな。三日分の茶を飲んできた」
「はは……何言ってんだか」
じんじんと痺れる右手を引き抜こうとするが、シズカの手はびくともしない。困惑する琥珀の手を、シズカは両手でそっと包み込み、瞑目した。
呑気なコマドリの囀りが聴こえてくる。玄関先からは、鍛冶屋が鉄を打つ音。親方のボイラーの低い音。工房中の振り子時計が、ちくたくと時を刻む音。
シズカは祈り続ける。長く、長く。
「女神様は、治してくれそうか?」
寡黙なシズカと二人きりでいて、沈黙が尻こそばゆいと思ったのは初めてのことだった。おどけようとした声が、自分でもわかるほどに上擦る。
「女神は……お前のような男が好きだ」
「そりゃ身に余る光栄だ。美人か?」
「……美人だ」
シズカは嘘をつかない。だから、大真面目な顔をして変なことを言う。終わらない祈りに包まれながら、琥珀はいつぞやの、ごく他愛のないやり取りを思い出していた。
──あんたがめいっぱい祈りを捧げるのは、いったいどんなときなんだよ。
──己の全てを賭けるとき。
「あれ……」
急に、愛想笑いが崩れる。シズカの大きな掌が熱い。琥珀の眉間が弓みたいに引き絞られていく。信じられない思いで、空いた左手で濡れた頬を拭った。
不甲斐ない。自分で選んだことなのに。止まらない涙を誤魔化したくてシズカの手を揺すると、彼は琥珀を解放するどころか、その頭を己の胸へと抱え込んだ。
「う、ぅ……っ」
琥珀は嗚咽を噛み殺し、広い胸板にみっともない顔を隠した。
子どもの頃、万年時計に憧れた。
親方のもとに転がり込んで、寝る間も惜しんで勉強した。
初めて作ったオルゴールを「見どころがある」と褒められて、胸がはち切れそうだった。
「力になれることがあるならば、言え」
「……じゃあ、古新聞を束ねるのを手伝ってくれ。紐を握れなくってさ」
「任されよ」
シズカは二つ返事で頷くと、景気よく袖を捲り上げた。その姿を見て、琥珀はようやく少し笑った。
***
「何だ。客人が来ていたのなら呼べ」
いつの間にか、ボイラーの音は止んでいた。汗を拭いながら階段を昇ってきた親方が、床に座り込んで新聞を整理している二人に目を向ける。シズカは紐を結ぶ手を止め、「構うな」と短く手を上げた。
琥珀は赤く腫れた目を慌てて逸らしたが、親方は何も触れなかった。
「琥珀。怪我のことは故郷の親御に知らせておいた。お前も便りを出しておけ」
代わりに告げられた言葉が、インクに塗れた琥珀の指先を冷やしていく。
「やっぱり、俺……出て行かなくちゃいけませんか」
この街に名だたる時計職人の工房に、穀潰しが居座っていいはずがない。猶予ならば十分すぎるほどもらった。傷が塞がるまで面倒を見てもらったことだけでも、感謝しなければならない。
頭できちんとわかっているのに、まるで情に縋るような未練がましい口ぶりになってしまったのが情けない。
「早合点するな。儂にはお前を預かってる責任がある。それだけだ」
親方のかさついた掌が、琥珀の頭の上にぽん、と乗せられた。
「伝言だ。お前が望むなら、帰ってきてもいい。だが、望まないのなら……お前の好きにするといい、とよ」
琥珀は唇を噛んで俯いた。そうしなければ、堪え切れなかった。途方もない夢を後押しし、この街に送り出してくれた両親。厳しくも温かい声音が、そのまま聞こえてくるようだった。
「琥珀よ。お前は物分かりが良すぎる。欲しいもんは欲しいと言え。叫べ。答えを出すには、まだ早すぎるだろ」
親方は首にかけた手拭いに両手を拭いつけながら、作業台へと向かった。
胸がいっぱいになった琥珀は、ちらりと傍らのシズカを見る。彼は新聞の隅の冒険譚に読み耽っている真っ最中だった。
「おい。堂々とさぼるな」
「今いいところだ」
「盛り上がるな」
脇腹を小突くと、シズカは空とぼけた顔で作業を再開する。琥珀は取り上げた新聞を覗き込む。ルカが誘拐された日から数えて、ちょうど三日後に発行されたものだった。一面にはあの爆発事故と研究員の供述について、面白おかしく書き立てられている。
曰く。
遺構の奥深くには、空間の不連続が存在する。
それこそが「境界」。この世界と、新世界との継ぎ目である。
遺構管理局がそのことを隠匿するのは、新世界の支配者として君臨するために他ならない。
遺構への出入りを禁じられた境界観測研究所は、「境界」と同一の観測値を、遺構外部へ人為的に再現しようと試みた──
「えっと……わかるか?」
「わかるか」
シズカの返答はにべもない。琥珀は頭を掻いた。何と言うべきか、ピカリ辺りがウキウキしながら齧りつきそうな眉唾ものの記事だ。第一、その胡散臭い実験にどうしてルカが必要だったのだろう。
しかし、わけがわからないなりに「境界」という単語には引っかかるものがあった。
琥珀たちが遺構の最深部で目にしたものは、謎めいた二枚の壁だ。ぴったりと境目なく継がれた、意匠の溶けた左の壁と、岩の波打つ右の壁。その様相は、摩訶不思議な遺構の中でもとりわけ異様だった。
壁。境目。「境界」。いや、まさか。
琥珀は振り返って、作業台で懐中時計のネジを回している親方に声をかける。
「あの、親方。『境界』って聞いたことありますか」
「『境界』? 何の話だ」
「何でも、この世界と新世界との継ぎ目だとかなんとか……」
「よくある三流ペテン師の常套句だろ。……いや、待て……新世界、ねえ」
背中で話半分に聞いていた親方が、急にドライバーを置いて、新聞を取り上げる。記事に目を滑らせて、親方は何事か考え込む。世間話程度のつもりであった琥珀は、思いがけない反応に戸惑いを覚えた。
「何か……知ってるんですか」
「そういうわけじゃねえ。全くの見当違いかも知れねぇが……儂は仕事柄、色んな種族の客と関わりがある。魔族ともな」
魔族。その名を聞いて、琥珀の背筋が伸びる。
「昔、ちょっとした酒の席で、魔族の野郎が零したことがあるのさ。魔族は皆、生まれたときからずっと……帰りたがっている、とな」
「帰りたがってる……どこへ?」
親方が大きな顎髭を撫で下ろしたとき、工房の振り子時計がいっせいに喚いた。
「『魔界』だ」




