26.魔族の集落
その集落の家々は色とりどりだった。だがそれは独自の文化などではなく、さまざまな廃材を継ぎ接ぎして建てられているからに過ぎない。軒を連ねるバラックの間の歪な道を、ルカは恐る恐る歩いていた。本当にここが魔族の集落なのだろうか。
ふと、視線を感じて振り返る。小さな人影が、慌てて日干しされたシーツの陰へと逃げ込んだ。隠れたつもりなのだろうが、泥まみれの裸足が丸見えだ。
「もし、君、少し構わないだろうか」
「うう……」
観念して出てきた子どもの顔に、ルカは見覚えがあった。
「おや、君は確か……病気の母親の世話をしている少年ではないのか」
もう煤で汚れてはいなかったが、生意気そうな目つきは変わらない。決まりが悪そうに蓬色のおかっぱ頭を弄っているのは、かつて詐欺師と組んでルカを騙そうとした魔族の少年だった。
「な、何だよ。あれしきのことで、今更ここまで追いかけてくる奴があるかよ」
「君を恨んだりするものか。僕はただ、行く当てがなくてここに来ただけだ」
ルカが言うと、少年は拍子抜けしたように目を瞬かせた。
「行く当てがない? お前みたいな良いとこのボンボンが?」
「ああ、そうだ」
訝しそうにしながら、少年は黙って走り去っていった。ルカが肩を落として再び歩き出すと、ほどなくして、ばしゃん、と派手に水の溢れる音がした。
「坊ちゃま……?」
ひどく懐かしい声に、ルカは耳を疑った。声の方を見ると、足もとに転がる木桶に目もくれず、一心不乱にルカを見つめる老人がいた。
「爺や……? 爺や、なのか?」
「それはこちらの台詞ですぞ、坊ちゃま……!」
赤子の時分からルカを育て上げた老執事は、皺の増えた顔をさらにくしゃくしゃにして叫んだ。
「おおい、坊ちゃまが、ルカ様が、生きておいでになったぞ!」
感極まった一声に、まろびかけながら飛んできたのは彼の愛妻である乳母だった。その後ろから、おかっぱの少年がひょっこり顔を出している。
「ぼ、坊ちゃま。本当に坊ちゃまなのですか?」
「ああ、ああ、僕だとも、婆や。二人とも、無事でいてくれて、ありがとう」
泣き崩れる乳母と、その肩を抱く執事を、ルカは二人まとめて強く抱きしめた。
***
「坊ちゃまにこんなものしかお出しできないなんて、お恥ずかしい限りです。ごめんなさいね」
乳母に差し出された茶を一口含んで、ルカは戸惑いを覚えた。お世辞にも美味いとは言いがたい。香りは薄いのに、舌には泥臭さと渋みが残る。琥珀がいつも手ずから摘んだ香草で淹れてくれていた茶の方が、よほど風味豊かに思えるほどだ。
「この辺りは土地が痩せていて、茶葉はもちろん、満足に作物も育ちませんの。市販の茶葉を買い求める余裕もなくて、野草を」
乳母は小山のような体を縮めた。木漏れ日の射す屋敷の窓辺で、ご機嫌に上等な紅茶を淹れていた彼女の姿が頭を過ぎる。
「よしてくれ。またこうして婆やのお茶を嗜めるなんて、僕はなんて幸せ者なんだ!」
そう言ってルカが野草茶を傾けると、乳母は目を潤ませて相好を崩した。
「坊ちゃま、髪の毛はご自分で整えておいでですの? どうか婆やに結わせてくださいまし」
促されるままに、ルカは壁に打ちつけられた小さな手鏡の前に腰かける。乳母はルカの髪を軽く持ち上げ、熱湯で清めた櫛を通していく。そのきめ細かい手つきが、何も知らないままでいられた過日のことを思わせる。
しかし今のルカは知っている。真に無知だったのは、己だけだったのだと。
「婆やは知っていたんだな。この首の紋様のことを」
小さな鏡に乳母の表情は映らない。しかし、ぴたりと止まった手が、何よりの答えだった。
「ええ。存じておりましたとも。我々魔族に、その紋様を知らぬ者はおりませんから」
黒パンと野菜くずのスープを運んできた執事が、横から答えを代わる。
「坊ちゃまはお生まれになったとき、それはもう元気よくお泣きになりました。私どもは奥様から坊ちゃまをお預かりし、代わる代わるあやしましたが……貴方様がお眠りになることは、ついぞありませんでした」
屋敷で暮らしていた頃、母がベッドに入った後は、乳母と執事が交代で夜更けまで相手をしてくれていた。だからルカは、病に冒されていなくとも、人が毎晩当たり前に眠りにつくことを、つい最近になるまで知らなかったのだ。
「いつかはお話しせねばならぬと存じておりました。……坊ちゃまの時の流れは、人間とは異なりますゆえ」
執事は悔やむように胸を押さえた。髪を結える労しげな手つきを感じながら、ルカは深く目を閉じた。受け入れてくれた大切な人たちの顔が、瞼の裏に去来する。
「こんなことになるくらいなら、もっと早くお話しするべきでしたわ。ごめんなさい、坊ちゃま。本当にごめんなさい」
肩に触れる乳母の手が震えている。ルカは振り返り、皺だらけの手を両手で包んだ。
全てを受け止められたと言えば嘘になる。こうしている今だって、質の悪い芝居であってくれと祈っている。体が再生することも、死体のように扱われたことも、唯一無二の友の未来を奪ったことも、独り取り残されることも。
けれど、せっかく再び巡り会えたのだから、笑っていてほしい。
「いいんだ。お陰で僕は、何にも代えがたいものを得たんだ! 僕にも語らせてくれたまえ。素晴らしい出会いと、美しい日々のことを」
***
共同洗濯場には、集落中の洗濯物が集まっていた。水道は通っておらず、石積みの水槽に湧水が引き込まれている。
「ルカ、喉が渇いたからってここの水を飲むなよ。人間なんかすぐに腹を壊しちゃうぜ」
「む。僕はそんな行儀の悪い真似はしないぞ」
濁った水の中で誰のものとも知れない羊毛のシャツを揉みながら、ルカは胸を張った。隣で洗濯物を石に叩きつけているのは、初日に出会った少年──タッタだ。
タッタはルカの世話を焼こうとする乳母たちに反対し、ルカに集落の生活を手取り足取り叩き込んでいる。
実際、ルカは汚水を口にした程度で病にかかることなどないのだが、その事実を知るのは乳母たちだけだ。
「洗濯なんかやったことなかったでしょ、王子様」
反対側から、タッタより少し年上のお下げの少女、カヤが覗き込んでくる。ぶかぶかのシャツの腰を絞って仕立てたワンピースの裾をつまんで、ルカの隣にしゃがみ込む。胸もとに、手作りらしい胡桃の殻のペンダントが揺れた。
「それがさ、こいつ前の家で洗濯させられてたんだってよ」
「えーっ、嘘だぁ。今どきの王子様ってそんな所帯染みてるの?」
「嘘なものか! 洗濯だけじゃないぞ、掃除に料理、何だってお任せあれだ」
「威張るなよ、てんで不器用なくせして」
タッタが大袈裟に頭を振る。心外だ。ルカが芋を切って焼いてみせたら、乳母と執事は咽び泣いていたというのに。
「タッタも病気の母上のためにご飯を用意しているのだろうか。立派なものだ」
「いつまで信じてんだ。オイラの母ちゃんならピンピンしてるし、たまに帰ってくるたんびに『くっちゃべってないで働け』って尻を叩かれてるよ」
「ご健在だったのか! やや、それは幸いだ。だったら、君はもうあんな危うい仕事をしなくて済むな」
安堵の笑みを向けると、タッタはぎくりと首をすくめ、そっぽを向いた。
「そう簡単にいくかよ」
「何故だ。母上も働きに出ているのだろう」
「母ちゃんは西側で仕事してんだ」
ルカは眉を顰めた。女性があの治安の悪い西側で働くのは、ひとかたならぬ苦労があるのではないか。カヤが年頃よりずっと大人びた声でルカを諭す。
「あのねえ、魔族は人間よりうんと長生きな代わりに、あんまり子どもができないの」
「……? そうなのか」
「だから、西側ではありがたがられるの。わかる? お坊ちゃん」
ふやけたルカの手が止まる。あるいは箱庭で生きていた頃の自分ならば、無邪気に問い返していただろう。しかしその片鱗を味わった今のルカには、口を真一文字に引き結ぶことしかできなかった。幼気な少女にしか見えないカヤが、あっけらかんと続ける。
「あら、そんな真っ青な顔しなくたっていいのに。学のないアタシたちが稼ぐにはそれしかないわけ。アタシだって、そのうち丸儲けしてやるんだから」
「……だが、それは」
「でもさ、もうそんなことしなくていいかも知れないんだ!」
タッタが勢いよく立ち上がる。
「オイラ、兄ちゃんがいるんだ。珍しいだろ。父ちゃんは違うんだけどさ。その兄ちゃんが、とびきり割のいい仕事にありつけたらしいんだ。ひょっとしたら母ちゃんも戻って来られるかもしれない」
「そう、か……それは良かった」
自ずとルカの頬が緩む。タッタの赤葡萄色の瞳の奥には、兄への信頼と希望が踊っている。腹の底に重たいものが残るものの、ルカは少しだけ胸を撫で下ろした。
「僕にも腹違いの兄がいるんだ。とても尊敬している」
「ルカにも? へえ、じゃあ王子様は他にもいるってことか。ルカは王様にはならないのか?」
「お、王に?」
あまりにも素朴な問いかけに、ルカは当惑して首を振る。たとえ追放されていなくとも、ルカが即位するなど、天地がひっくり返ったってあり得ない。
「とんでもないことだ、兄上を差し置いて……」
「あっ、噂をすれば。おーい、兄ちゃん、こっちこっち!」
タッタが洗濯場の外に向かって手を振る。その姿を微笑ましく見守りながら、ルカはその視線の先に目をやった。
そこに佇む人影を見た途端、さっと血の気が引いた。
山から吹き下ろす風に靡く、夜色の長髪。見開かれた赤葡萄色の鋭い瞳。魔族の青年は、ルカの隣にタッタの姿を認めると、苦虫を潰すような顔をした。
「兄ちゃん! こいつ、新入りのルカっていうんだ。行く当てがないんだってさ」
「……そうか。よろしく頼む」
「あ、ああ。もっ、もちろんだとも……っ」
歯の根が噛み合わない。全身から脂汗が噴き出して、膝が砕けそうになる。
麻袋の底のざらつき。喉に食い込む真鍮の感触。逃げ場のない苦痛。そして。
──恨むなら、ややこしい連中に目をつけられた自分の運命を恨むのだな。
「ルカ、どうかしたの? 具合が悪いの?」
「ほんとだ、顔色が悪いぞ」
タッタとカヤが心配そうに見上げてくる。ルカはハッとして、無意識に首を押さえていた手を背中に隠した。
「まさか、僕は生まれてこの方、一度たりとも医者にかかったことのない健やか者だ。さすがタッタの兄上、大した男振りじゃないか」
「え、そうかなあ? へへっ」
タッタが頬を紅潮させる。そのおかっぱ頭を撫でて、ルカは笑ってみせた。
「僕は少し水を飲んでくる。じきに戻るから、洗濯物はそのままにしておいてくれ」
「場所わかるか?」
「上流の方だろう!」
言うが早いか、ルカは洗濯場を飛び出した。
***
視界がぐらぐらと揺れる。足をもつれさせながらバラックの狭間を駆け抜け、崩れ落ちるように物陰へと蹲った。
「はぁっ……はぁっ……、た、助け……」
呼吸が苦しい。冷や汗が顎から伝い落ちる。
逃げなくては。でもどこへ。王家から逃げて。工房から逃げて。これ以上どこへ逃げるというのか。どこまで逃げたって、この体はついて回るというのに。
それに、こうして助けを求めてばかりいた挙句、琥珀はどうなったか──
「……おい」
押し殺したような声が降ってくる。ルカはひっ、と喉を詰まらせた。
「こ、来ないでくれ」
砂利だらけの地面を後ずさる。青年は眉間に皺を刻んで、拳を固めた。
「仕事先はなくなった。もう、お前に手出しはしない」
仕事先。その一言に、タッタの笑顔が重なる。
とびきり割のいい仕事。
「……許されないことをしたと、承知している」
それきり、青年は口を噤んだ。ルカは自らの肩を抱きながら、彼が言い訳するのを待った。しかしどれだけ待とうと、青ざめた唇は開かない。
「家族の、ため……だったのだろう」
震える声でルカが水を向ける。風が砂埃を巻き上げ、空缶をからからと転がしていく。
「弟はお前に懐いているようだ。……まだ、お前がただの人間だと思っているにもかかわらずな」
目を細めて洗濯場の方を眺めたかと思うと、青年はルカに背を向ける。
「俺はこの集落を出る。お前は、好きなだけここにいるといい」
「……どうしてだ」
「お前がいなくなれば、弟が悲しむ」
「それは君だって同じことだろう!」
ルカは膝に力を込めて立ち上がった。竦みそうになる足を叱咤して、青年の背中に右手を差し出す。
「僕はルカ。これからよろしく頼む。君の名前を聞かせてくれないか」
「……ヨダカ」
震える指先を一瞥し、ヨダカは振り返らずに立ち去った。




