24.本物だから何だ
「ど、して……ここ、がっ……」
「話は後だ」
野良猫のような身軽さで降り立った琥珀は、言うが早いか、ルカの胸に固定されたベルトと金属板を外していく。消え残る火傷の痕が露わになったとき、琥珀の左目の上の痣が赤らんだように見えた。
「鍵、は……彼らが……」
「たいした拘束じゃないな。一分もいらない」
琥珀はルカの後ろに回り込み、堅牢な手枷に工具をねじ込む。その淡々とした声色は、いつもの工房で修理を請けるときの琥珀そのもので、ルカの目頭が熱くなった。
「こは、く……」
「……悪かった」
目の前で火花や煙が上がり、叫び声と破壊音が飛び交っているというのに、ルカの耳にはカチャカチャとドライバーがねじを回す音しか聞こえない。
一分どころか、その半分もかからずに、手首の拘束は外れた。支えを失ったルカの体を咄嗟に受け止めた琥珀が、小さく呻いて膝をつく。だがそれも一瞬のこと。琥珀はルカの腕を肩に回させ、出口に向かって歩き出す。
長時間苛まれていた体は、まるで言うことを聞かない。膝がガクガクと震え、力の入らない腕が琥珀の肩からずり落ちそうになる。ルカは死に物狂いで、感覚のない足を前に動かした。
苦しげに弾む呼吸が自身のものではないことに気づいたのは、やっとの思いで鉄扉の前まで辿り着いたときだった。
その瞬間、力一杯突き飛ばされたルカは、冷たい床へと倒れ込んだ。
「待ちやがれ!」
「撃つなっ、民間人に……」
耳鳴りの向こうに言い争う声を拾うや否や、乾いた発砲音が響いた。しかし、どこにも痛みを感じない。ルカは恐る恐る顔を上げ、息を呑んだ。
目の前に琥珀が倒れていた。
その右手からどくどくと溢れ出す鮮血が、縞鋼板の溝を真っ赤に染めていた。
***
撃たれると解った。
ルカを伏せさせようと手を伸ばす。肋が軋む。間に合わない。
破れかぶれに突き飛ばしたその右手に、ドン、と凄まじい衝撃が走った。一拍遅れて、焼きごてを押しつけられたような熱い痛みが脳天を突き抜ける。
「あッ……ぐっ……!」
ばくばくと拍動する傷口を押さえ込み、背中を丸めて蹲る。息も吸えない。胃の中がひっくり返りそうだ。
「琥珀、琥珀!」
真っ青になったルカがしがみついてくる。その目からぼろぼろと涙が落ちていく。ああ、無事だったのか。無事ならこんなことしてないで一目散に逃げろ。叱り飛ばそうとした声が、喉の奥で潰れる。
「ば、か……、にげろ……」
「琥珀、琥珀っ、どうして、ああ、あああ……!」
「ルカ君、落ち着いて! 琥珀君、ちょっと見せてね」
滑り込んできたピカリが、慎重に琥珀の腕を取った。その背後で、ミラージュブルーが狙撃者から銃をぶん取る姿が目に入る。束の間胸に落ちた安堵を、容赦のない止血の痛みが吹き飛ばす。
「あ、ぁ……っ!」
「何故、僕なら平気なのに、どうして君が、嫌だ、いやだっ……!」
喉も割れんばかりのルカの絶叫が鼓膜を揺さぶる。その悲鳴に呼応するように、研究室を満たす青い光が、目も眩むほどに増幅していく。
「見たまえ諸君、界波数が跳ね上がっていくぞ! はは、届く、届くぞ、六十二・五、六十七・三……」
狂った老人の声が弾む。観測装置の針が無茶苦茶に振れ、不気味な異音を発しはじめる。バルブから夥しい蒸気が漏れ出し、青白い火花が舞い狂う。
「七十・四Fzだ! 『境界』が現れるぞ! っ……? 数値が、閾値を超過して……」
白髪を振り乱す男の影が逆光になる。観測装置の外板が弾け飛び、轟音が研究施設全体を揺さぶった。
「伏せなさい!」
すっ飛んできたミラージュブルーがピカリに覆い被さる。同時に、爆煙が辺りを飲み込んだ。
崩れ落ちる鉄骨。横倒しになる機材。誰かの悲鳴。逃げ惑う足音。
遠くでヤセギスとシズカの声がする。
ルカの止まらない慟哭を聞きながら、琥珀は気を失った。
***
ミラージュブルーが太鼓判を押す診療所は、意外なほど医療設備が充実していた。曰く、西側において荒事は日常茶飯事。病ならいざ知らず、外科手術ならば都の医者よりもずっと場数を踏んでいる、ということらしい。
「ルカ。お前さんは休んどけ。琥珀のこたぁ、俺とシズカが見ておくからよ」
革の剥がれたベンチに深く腰かけて、ルカは処置室の磨りガラスをじっと見つめていた。
「大丈夫だ。僕はもう、何ともないんだ」
強がりでも無茶でもなかった。琥珀と共にこの診療所に運び込まれたときには、ルカの体はすでに全快していた。琥珀を差し置いて、自分一人だけ休む道理がない。
「……休息を要するのは、肉体ばかりではない」
板張りの壁に凭れたシズカが異を唱えるが、今のルカには響かない。それどころか、シズカの装束に残った琥珀の血痕が目に入るたび、重たい塊が喉を塞いだ。
「僕が……撃たれたら、良かったのに」
「おいおい。そりゃ、あんまり琥珀が哀れってもんだ。お前さんを助けにきた俺たちだって、悲しむと思わねぇのかい」
ヤセギスの声色は重く硬い。ルカは思わず腰を浮かせた。
仲間の善意を踏みにじるつもりはなかった。本当に、言葉通りの意味なのだ。
「す、すまない。皆には心から感謝している! ……でも、そうではないんだ。ヤセギス、シズカ。僕は……皆とは違うんだ」
「ルカ。そりゃ、どういう──」
そのとき、処置室の扉が開いた。斑のある金髪の壮年医師が顔を出す。一斉に視線を寄越した三人を順番に見、彼は東の国風の煙管に火をつけた。
「血は止まった。命に別状はないよ」
その言葉に、少しだけルカの肩の力が抜けた。ヤセギスはほっと息をつき、シズカが胸の前で祈りを捧げる。
「肋骨が二本折れてる。打撲も酷い。この体で走り回るなんざ正気の沙汰じゃあないね。肺に刺さっていたら、今頃こうやって呑気にお喋りしている場合じゃなかったよ」
「あの、阿呆んだら」
ヤセギスが額を抱えて悪態をついた。
「ま、いかんせん若いからね。そっちは寝てりゃあ治るでしょ」
紫煙をくゆらせる医師の口ぶりが、ルカの胸の鼓動を早める。
「じゃあ、右手は……?」
「うん。問題はこっち」
カルテをワゴンに置くと、医師は自らの掌に煙管の吸い口を当てがった。
「人差し指と中指の神経と腱を傷めてる。出血も酷かったし、しばらくは絶対安静だね」
「治る……のか?」
「傷が塞がるって意味でならね。だが日常的な動作には支障が出る可能性が高い。これからは、ボタンのない衣服に変えた方が賢明だね」
「待ってくれ旦那、そいつぁ……」
ヤセギスが絶句する。たまらなくなって、ルカは両手で顔を覆った。ふらふらと頽れた体を、いつのまにか隣に来ていたシズカの腕が受け止める。
「琥珀は……時計職人なんだ」
「ああ、なるほどね」
医師は痛ましげに、しかしどこか慣れたようすで、淡々と所感を口にした。
「そりゃあ、お気の毒に」
***
酷い寒さに、琥珀は目を覚ました。窓の向こうに篠突く雨が打ちつけている。その景色が、ここが地下の自室でないことを悟らせた。
毛布を手繰り寄せようとして、右手に走った激痛に呻く。大仰に巻かれた包帯を目にすると、気絶する前の出来事が蘇ってくる。
身を起こそうとした途端、視界が真っ暗になった。誰かの手が肩に触れる。軽く押さえつけられただけで、弱り切った体はベッドに沈んだ。
「やめとけ」
見覚えのある細長いシルエットが像を結んでいく。中折れ帽と眼鏡を外したヤセギスが、厳しい面構えで琥珀を見下ろしていた。
「……ルカ、は」
「シズカが工房に送っていった。ぴんぴんしてらぁ。……んなこたぁ、お前さんが一番よくわかってんだろ?」
思わせぶりな言い草に、琥珀は察する。きっとルカの秘密を聞いたのだろう。
「ルカも俺たちも、ついでに悪党連中も、全員五体満足だ。研究所はミラージュブルーが押さえた。人のことより自分の心配をしとけ、この狸野郎。お前さんの脇腹、西側のドブ川みてぇな色してやがったぞ」
口汚く咎めながら、ヤセギスは琥珀の震える肩に毛布を引き上げる。
「……悪い、ヘマ、した」
「全くだぜ」
「せめて、左、だったらな……」
横になっているのに目眩が止まず、ひとりでに言葉が漏れていく。ヤセギスは難しい顔のまま、鳶色の髪を掻き上げた。
「俺は商人だからよ。どうしたって損得で考えちまう。ルカが再生すると知っていりゃ、俺だったら、みすみす商売道具を潰すような真似は……」
ヤセギスが言葉に詰まる。それは確かに商人としての本音なのだろう。だが彼は元来、口で言うほど利己主義でも無情でもない。
「こんな途方もねぇ借りを押しつけられて、ルカの奴はどうすりゃいいんだ。どんな悪どい金貸しだってやらねぇや」
ごもっともだと思う。
けれど仕方ないだろう。
体が勝手に動いたのだから。
「本物、だから……何、だ……」
ルカは魔王の生まれ変わりかもしれない。
だけど指を切るのを怖がって、芋の皮を厚く剥く。
ボイラー風呂の熱湯に大騒ぎするし、
高い所を歩かされればへっぴり腰になるし、
一番苦しいときに、家族の名前を呼ぶ。
自分たちと何も変わらない。傷ついても平気だなんて、嘘だ。
ヤセギスはランプの灯りの揺れる紫色の瞳を、瞼の裏に隠した。そして琥珀に向かって頭を下げる。
「悪かった。ルカを拾ったのは俺たち全員だ。それを、いい大人が雁首揃えて、お前さん一人に背負わせちまった」
そして続ける。
「ルカが来てからこっち、顰めっ面ばっかりしていたお前さんが楽しそうな顔をするようになったからよ。つい見過ごしちまった。阿呆んだらは、お前さん一人じゃねぇや」
謝られる筋合いなんかどこにもない。隠していたのはこっちの方だし、ルカが攫われたのは琥珀の責任で、庇ったのも自分で選んだことだ。反論したくとも、酷い汗に目も開けていられず、口を開くことすら億劫だった。
「ともかくお前さんはしばらくこのまま入院だ。だが安心しろ。退屈でおっ死んじまう前に、とっときの猥本でも差し入れてやるから」
冷たいタオルで汗を拭われたかと思うと、瞼の向こうのランプの明かりがふっ、と消える。
「まだ夜明け前だ。もう一眠りしとけ。今だけは……何も考えずにな」
建てつけの悪い扉が軋んで、琥珀は一人、激しい雨音が響く病室に取り残された。
右手が重い。
まるで自分のものではないみたいに。
久しぶりに、万年時計の夢を見た。
第三章おわり




