23.泥だらけの光
「……こんな真似する必要はない。あんたたちにとっても、悪い話じゃないはずだ」
琥珀は汚れた路地裏に膝をついたまま、赤毛の女を睨みつけた。
「ただで金塊をくれてやろうって? この街にそんないかれたお人好しはいないの、さっ!」
顔面を狙って放たれた女の靴の踵を躱して、間髪を入れずに頭を低く沈める。背後から横薙ぎに振るわれた鉄パイプの先端が、壁面の卑猥な落書きを打ち据えた。「あれっ、何で!?」目算が外れた小太りの男が、勢い余ってたたらを踏んだ。
考える前に体が動く。真っ赤な爪とずんぐりした指が、琥珀の手の中で輝く欠片を求めて、代わりばんこに空を切る。
「口約束が信用ならないなら書面を交わす。家にはもっとたくさんの割れ残った遺物の欠片がある、それを全部譲ったっていい。後生だからルカの居場所を教えてくれ!」
「ちょこざいな、んな金目のもんがゴロゴロあんなら、あんたがこんなみすぼらしいガキンチョなはずないだろ!」
金切り声を上げながら、赤毛の女が両手を伸ばしてくる。半歩下がった琥珀の靴が踏み締めたのは、打ち捨てられた空き瓶だった。しまった、と思う間もなく、強か地面に背中を打ちつける。
「おっ、ラッキー!」
無防備に転がった琥珀の脇腹を、小太りの男のつま先が手加減なく蹴り飛ばした。「ぐっ……!」石造りの壁に叩きつけられ、肺の空気が根こそぎ吐き出される。
「はぁ、はぁ……手間かけさせやがって。さあて、大人しくそいつをこっちにちょうだいな」
「嫌だ……っ」
欠片を渡せば、奴らは前言を翻して逃げるに決まっている。そうなれば、ルカの足取りはいよいよ途絶えてしまう。
泥水を噛みながら欠片を抱え込んだ琥珀の背中を、小太りの男が踏み躙る。みしり、と胸が軋んで、脂汗が吹き出した。
「あたいたちだって、あんまり手荒なことはしたくないんだよ、ぼくちゃん」
しおらしい口を聞きながら、赤毛の女は琥珀の背中にドスンと跨り、力ずくで指をこじ開けようとする。死んでも放してなるものか。固く握り締める掌に血が滲む。
「全く仕方のない子だね。あんた、ブツを壊すんじゃないよ」
「ほいほい」
赤毛の女が琥珀の右腕を地面に押さえつけてくる。重たい鉄パイプを引き摺る音がにじり寄ってきて、ぞっと背筋が凍りついた。
「や……やめろ……っ」
じたばたと踠くも、女の手はびくともしない。にやけた男が鉄パイプを振り上げる。琥珀は反射的に目を瞑った。
だが、いつまで経っても衝撃はやってこない。琥珀は恐る恐る目を開けた。
そこにはシズカがいた。振り下ろされた鉄パイプを片手で受け止め、琥珀を庇うように聳り立っている。
「シ、ズカ……」
「誰だい、あんた。坊やの連れかい?」
「……そうだ」
赤銅色の瞳が、組み伏せられた琥珀の姿を映す。ごく短い瞑目の後、シズカは鉄パイプの両端を握ると、まるでパン生地か何かのように、あっさりと捩じ曲げてしまった。
「ひいっ……こ、この馬鹿力が!」
小太りの男がやけくそで突進を仕掛ける。シズカは瞬く間にその腕を絡め取り、まるで重さを感じていないように、男の体をひょいと投げ飛ばした。よたよたと立ち上がった男が、脱兎の如く逃げていく。
「あっ、こら、置いていくんじゃないよ!」
逃げ出そうとする女の足首を、琥珀はしっかと掴んだ。
「こいつはルカを知ってる!」
痛みを堪えて声を振り絞る。シズカがはっとしたように、女の腕を捻り上げて地に伏せた。
「琥珀!」
路地裏に駆け込んできたのは、見たこともないほど焦燥したようすのヤセギスだった。無理に起き上がろうとする琥珀の背中を、細長い腕が支える。
「こんちきしょう、何てザマだ。一瞬でも目を離すんじゃなかったぜ!」
「悪い……大丈夫だ」
泥を吐き出しながら、琥珀はターバンに戒められて転がされている女を睨みつける。女はぷいと顔を逸らした。
「ルカの居場所を教えろ」
「し、知らないよ!」
「……隠すと為にならない」
厳つい剃り込みを露わにしたシズカに凄まれて、女は縮み上がって首を振った。
「ほ、本当なんだよ。回収屋とインテリ野郎に連れて行かれるところを遠目に見かけただけで……あいつらのアジトがどこにあるかまでは知らないんだ」
「そ、そん、な……」
琥珀は愕然とする。
こいつらは最初から、何も知らなかったのだ。
「ご……ごめん、俺のせいで……」
一秒だって立ち止まっている暇はないのに。痛くて苦しくて、頭の中が真っ白に塗り潰されていく。
「しっかりしろ、琥珀! 一人で背負おうとするな!」
ヤセギスの手が、琥珀の肩を強く掴んだ。琥珀がのろのろと顔を上げると、ヤセギスは懐から取り出した分厚い手帳を手早くめくりはじめる。そこには娼婦から引き出した情報が、びっしりと書き込まれていた。
「姉ちゃんたちは情報通でな。真っ黒い噂が目白押しで、本命を絞りきれずにいたのさ。だがインテリ野郎のアジトと言やぁ、異端研究者の根城『くず鉄通りの廃工場』しかねぇ」
呆けている琥珀に、ヤセギスは「俺がいるからには絶対に損はさせねえよ」と不敵に笑った。
「ね、ねえ、話しただろ。約束通り、その遺物をちょうだいよ」
拘束を解かれた赤毛の女が、嫌らしく擦り寄ってくる。ヤセギスが琥珀と女の間に割って入り、卑しむような顔をした。
「はあ? じゃあ契約書を見せてみろよ」
「そ、そんなのあるわけないだろ」
「なら、どうしようもねぇな。この街じゃ口約束なんざクソの役にも立たねぇんだからよ」
「そりゃないよぉ!」
いけしゃあしゃあと喚く女の姿も、琥珀の目には入らない。
柄にもなく、何かに祈りたい気持ちだった。どこぞの見知らぬ神でいい。シズカの愛する女神様でも。
希望は繋がった。ルカの行方はまだ途絶えていない。
「……行こう」
琥珀は歯を食い縛って立ち上がった。
「馬鹿言っちゃいけねぇ。お前さんは留守番だ。ルカのことは俺たちに任せとけ」
「擦り傷だ。足手纏いにはならない」
息をするたび肋の辺りが軋む。膝は今にも折れそうだ。けれど、まだ走れる。
そして琥珀は知っている。ヤセギスは、これで案外付き合いがいい。
「……こっちだ。ついて来い」
ため息をついて、ヤセギスは踵を返す。その後ろを追いかけて一歩踏み出した瞬間、胸に刺すような激痛が走った。崩れ落ちかけた琥珀の体を、シズカの太い腕が受け止める。
「……平気だ。もう少しだけ、大目に見てくれ」
険しい顔でヤセギスを呼び止めようとしたシズカの袖を引く。心配そうな眼差しを見ないふりで、琥珀は前を向いて歩き出した。
***
「個体、意識混濁。再生速度、著しく低下しています」
「前回の界波数は?」
「五十九・八です」
「チッ、反応値が落ちてきているか……一定時間を置いて再開する」
がっくりと俯いたままのルカの顎から、玉の汗が落ちていく。噛み切った唇から流れた血が、びしょ濡れのシャツに点々と重なる。鉄柱に括りつけられたまま、ルカの意識は漣のように寄せて返す。
ここに連れてこられてから、いったいどれくらい経ったのだろう。気絶と覚醒を数え切れないほど繰り返し、時間の感覚はとうに失われていた。
どうしてこんな目に遭わなければならないんだろう。
魔王の生まれ変わりだとか、「境界」の鍵だとか、そんなものは知ったことではない。ただ生まれてきただけなのに。
帰りたい。でも、どこへ。
大好きな家族と過ごした屋敷は、もうなくなってしまった。
──帰るんだよ、工房に。それ以外の何があるんだ。
不貞腐れたような声が、ひどく懐かしく思える。琥珀と一緒に、親方特製の熱い煮込みスープを囲んで笑い合いたい。だけど。
あの寂しい機関車の中で、曖昧に目を逸らした琥珀の表情が、すべてを物語っている。
やっぱり帰る場所なんてどこにもない。
拘束具に擦れた手首も、爪の食い込んだ掌も、血だらけのくせに傷一つ残っていない。
助けてほしい。いや、来ないでほしい。
こんな不気味な姿を見られたくない。
このまま消えてしまいたい。
突如、研究室の無骨な扉が乱暴に開け放たれた。
「誰だ!?」
所長の怒声が響く。積み重なった計測用紙に目を通していた記録係も、部屋の隅に蹲っていた若手研究員も、退屈そうに酒をかっ喰らっていた刺青の男も、項垂れていたルカも、一斉に扉の方を見る。
「はーい、そこまで!」
現れたのはミラージュブルーだった。不機嫌そうに高いヒールを鳴らし、ずかずかと研究室に踏み込んでくる。
唖然としている一同に向けて、彼女は一枚の公文書を突きつけた。
「ごめんあそばせ、遺構管理局の偉い人、ミラージュブルーよ。境界観測研究所、もとい元王立研究所第四班。特別監察官の名において、研究の差し止めをここに命ずる」
「なっ……しょ、所長」
若手研究員と記録係は、助けを求めるように所長を見る。棍棒を手に歩み出ようとする刺青の男を、所長が片手で制した。
「……断ると言ったら?」
「あら、断る権利があると思って?」
「忌々しい狗めが。新世界を我が物にせんとする管理局の企みを、白日の下に晒されるのが恐ろしいのだな」
「幼気な空想癖がおありなのね。貴方たちの違反行為、片っ端から挙げて差し上げましょうか? 一つ、未認可の機構への遺物の転用。一つ……」
「黙れ、黙れ黙れ、あと一息で『境界』を再現できるのだ。何人たりとも邪魔はさせん!」
半狂乱の叫びを上げ、所長は電源装置のレバーを叩き下ろした。
「うっ……ああ……!」
ルカが激痛に身悶え、青い光がだだっ広い空間に弾ける。
「七十・四Fzを、七十・四Fzを再現するのだ! 我々は、新世界へ!」
鉄の研究室を支配する、妄執に取り憑かれた老人の高笑い。ミラージュブルーは見下げ果てたように舌打ちし、朗々と声を張り上げた。
「強制執行!」
「了解!」
扉の陰から、ゴーグルを装着したピカリが風のように飛び出してくる。彼女がフレアガンを高い天井に向けて放つと、眩い光と煙が辺りを包み込んだ。
「な、なんだこりゃあ、何も見えねぇ!」
右往左往する男たちをよそに、ピカリは迷わず二発目を放つ。信号弾は電源装置の基盤に命中し、レバーごとめきゃりとひしゃげさせた。電撃から解き放たれたルカが、鉄柱に寄りかかってずるずると崩れ落ちる。
「いっけなーい、ぶち壊しちゃった。弁償?」
「間抜けな職員さんが蹴躓いて頭から突っ込んだんじゃないかしら?」
「最高。頼れる大人と一緒で助かった〜」
軽口を叩きながら、ピカリは爆竹の束に着火する。そして阿鼻叫喚と化した研究室のど真ん中に、さらなる火種をぶち込んだ。
***
研究室の大混乱は、扉の向こう側のヤセギスとシズカのもとまで伝わってきていた。
「あの二人、無茶苦茶やりやがる……! シズカ、祈りはもう済ませたのか?」
コンテナボックスに身を隠しながら、ヤセギスはずり落ちた眼鏡を直す。シズカはたった一人きりで、次から次へと群がる用心棒たちを、軽々と捩じ伏せていく。
「女神は言う。友の身に危険が迫るとき、祈りは瞬き一つで良いと」
***
「畜生、調子に乗りやがって……!」
充満する白煙の中で、刺青の男は闇雲に棍棒を振り回す。覚束ない足もとを、ミラージュブルーの長い足が払う。尻餅をついた男を引き倒し、酒臭い口の中に銃口を突っ込んだ。
「よくもうちのかわいこちゃんを弄んでくれたわね。あの子は貴方たちのような只人がいいように出来る器じゃないの」
「こっ、の……クソアマ……!」
「クソで結構。こちとらドブ育ちなんだよ、くそったれの腐れ短小野郎が!」
刺青の男がヒッ、と息を呑む。ミラージュブルーは男の口から素早く銃口を引き抜き、トリガーを引く。空砲の衝撃波がこめかみをかすめ、男は白目を剥いて失神した。
ルカは目の前で繰り広げられる大乱闘を、呆然と見つめていた。
どうしてここが。手がかりなんかなかったはずなのに。
カン、カン、カン、カン、
小気味のいい金属音が頭上から響いてくる。何事かとルカが見上げた先、張り巡らされた鉄骨の梁から飛び降りてきたのは、
「ルカ!」
心の底でずっと待ち望んでいた、泥だらけの琥珀の姿だった。




