19.境界観測研究所
あの夜の驚愕が、今も彼の脳裏に焼きついている。
臨時で指定された勤務先の旧棟は、過日の爆発事故の影響により、まともな手段では近づくことすら叶わなかった。入所してから日が浅かった若手研究員は、出入りの手段が放棄された地下道からの侵入であることにまず面食らった。
封鎖されたはずの旧棟を、人目を忍んで稼働させていることが明るみになれば、いかなる処分が下されることか。次こそ、学会追放の憂き目に遭う程度では済まされないかもしれない。
しかしそんな逆境においても、所長の眼差しは揺るぎなかった。
「遺構管理局は真実を隠している!
当研究所は管理局が黙殺し続けている『境界』の観測に至ろうとしている。
若者よ。未知の扉を拓き、新世界の夜明けを望め」
若手研究員が、うらぶれた街外れのチラシに踊る熱烈なメッセージに惹かれて、「境界観測研究所」の扉を叩いたときから、ずっと。
***
とてつもない轟音と共に、壊れかけた施設中がびりびりと震え上がったのは、夜更けのことだった。
穴ぼこ屋根の崩落か。傾いだ支柱が限界を迎えたか。不運にも、その日旧棟に泊まり込んでいたのは、若手研究員と所長の二人きりだった。被害状況によっては、直ちに避難しなければならない。
「私は表を見てくる。君は観測室へ向かえ。機材と記録の保護を最優先したまえ」
所長の指示は冷徹だった。唯々諾々とヘルメットを被って、若手研究員はおっかなびっくり観測室の扉を開けた。
異常は、二つあった。
一つ目。爆発事故でぽっかりと空いた屋根の穴の直下に、ひび割れた瓦がいくつか落ちていた。あの地響きの正体が、こんなお粗末なものであるはずがない。
二つ目。観測装置の針が大きく跳ね上がっていたのだ。何事かと小型の計器を手に取る。反応源は屋根の上だった。埃を被った梯子をかけて、星明かりの覗く空にオイルランプを差し向けた。
腕だ。
屋根の穴から、人の腕がだらりとぶら下がっていた。
「ひいっ」
真っ逆さまに落っこちそうになって、辛くも梯子にしがみつく。床に落ちた瓦は赤く濡れていた。屋根の上から、夥しい量の血が滴り落ちていたのだ。
心臓が口から飛び出しそうになるのを押さえつけ、声の限りに所長を呼んだ。二人で力を合わせ、どうにかこうにか腕の主を引きずり下ろし、作業台に横たわらせる。
一目見て、死体だと思った。恐らく上から落下してきたのだろう。旧棟の上にあるものといえば、切り立った崖の上に聳える王宮しかない。あんなところから落ちれば、たとえ歴戦の探索者だろうとひとたまりもあるまい。
上等な身なりと高貴な顔貌から、止ん事ない身分の少年であることは容易に察しがついた。陰謀に落ちたか、あるいは世を儚んだか。一介の研究者には想像もつかないが、この若さでこれほど惨い死に方をするなら、持てる者として生まれつくことが幸福であるとは限らないのだろう。
頭が柘榴のように裂け、白金色の髪が血に染まっている。体のあちこちがありえない角度に曲がっていて、直視するのも憚られるような有様だった。さながら、癇癪を起こした子どもがめちゃくちゃに壊したブリキの人形だ。
流れた血の大半が屋根の穴に吸い込まれていったからか、衣服はほとんど汚れていない。それがかえって、作りものめいた異様さを際立たせていた。
「王宮の衛兵に知らせるべきでしょうか? ここを使っていたこともばれてしまいますが……」
作業台を汚していく少年の頭部をタオルで押さえながら、所長の判断を仰ぐ。だが返ってきたのは、予想に反する言葉だった。
「この反応……『境界』に極めて近い」
観測装置のランプの放つ青い光が、所長の落ち窪んだ瞳をぎらつかせる。
「特異な遺物を持っているのか? 君、死体から上着と装飾を剥ぎ取りたまえ」
「えっ? で、でも、何だか墓荒らしのようで気が引けるというか……」
「君は何故医学が進歩したと思っているのかね」
「……承知しました」
冒涜的な所業に腰が引けながらも、えいやあと少年の上着に手をかける。折れ曲がったものが生地に引っかかるたびに、胃の底から込み上げそうになるものをぐっと堪えた。まごまごと装飾品を外し、ポケットをひっくり返していく。しかし計器の針はまっすぐに少年を指したままだ。
「所持品の中に、それらしきものはありません。遺物どころか、まるっきり丸腰です」
「ならば反応源は……」
所長が少年の全身を隈なく探っていく。力なく横たわった上体を引き起こすと、重力に従ってガクンと頭が垂れた。すると急に、所長の手の中の計器の針が大きく振り切れたのだ。
「首の後ろだ。血液の除去を急げ」
「は、はい」
新しいタオルを濡らして、少年の頭と首筋の血を拭うと、うなじに刻まれた面妖な紋様が顕になる。異常な反応はそこからだった。
「遺物と同じ……いや違う。この波形は、遺物のそれではない。これはまさしく、遺構深部で観測したものと同質の……」
「所長?」
「ちょうどいい。君にはこれから話すはずだったな。『境界』の何たるかを」
所長は爛々とした目で、白髪頭を掻きむしる。
「忌々しい遺構管理局の連中が我々に対し、規約違反を理由に遺構への立ち入りを禁じたことは知っているな」
「ええ、まあ」
その話ならばよく覚えている。同行者制度を利用して遺構に入った研究者が、乱暴な調査と実験で遺構内部を損壊し、出入り禁止になったと。新聞沙汰にまでなった逸話だ。
「しかしあんなものは建前だ。我々は……真実に近づきすぎたのさ」
「真実、ですって……?」
街外れのチラシに目を奪われた瞬間から知りたいと欲してやまなかった世界の裏側が、ついに語られようとしている。背中を武者震いが走り抜け、ごくりと唾を飲んだ。
「遺構深部で、空間の不連続を観測した。それを我々は『境界』と呼んでいる」
「『境界』……それは、それはいったい何なんですか。管理局は何を隠しているっていうんですか!」
世界の秘密を暴く享楽が、ちっぽけな自分を丸呑みにしていく。信念の滲んだ所長の言葉を、一言一句逃さぬよう、脳裏に深く刻みつける。
「管理局がひた隠しにするもの。それは新世界だ。彼奴等は人々を欺き、新世界を支配しようと企んでいるのだ!」
***
保存処理の準備のために、所長は足早に地下の保管庫へと向かった。少年と共に取り残された若手研究員は、言いつけ通りに観測装置の針の動きを監視していた。
所長は言った。
この個体こそが『境界』の鍵となりうる、と。
ふと、観測装置の針の動きが狂ったように乱れる。個体に何か変化があったのだろうか。そう思って作業台に視線を移すと、
「う……いた、い……」
生きているはずのない少年の、小さな苦鳴が耳に飛び込んできた。
「なっ……そんな、馬鹿な」
少年は顔を顰めながら、むっくりと起き上がった。砕けた骨が小気味のいい音を立てて組み直され、破けんばかりに腫れ上がっていた皮膚は、アイロンを当てられたように均されていく。めくれた前髪から覗いていた裂け目も、花が閉じるようにぴったりと合わさり、跡形もなく消えてしまった。
「あ、ああ……」
首筋の紋様が不気味な光を放ち、薄暗い観測室を真っ青に染める。膝が抜けて、冷たい床に尻餅をついた。
「しょ……所長、所長!」
這いずるようにして、若手研究員は観測室を飛び出した。意識を取り戻した少年がその後いかなる行動に出るか、予測できなかったといえば嘘になる。それでも、いてもたってもいられなかった。目の前で起こった、命の理を逸脱した光景から、逃げ出したかったのかもしれない。
***
残された少年──ルカは虚ろな目で、自らの乱れた姿を見やった。
「兄上が……来る……ちゃんと、しないと……」
夢遊病のような手つきで、シャツのボタンを閉めていく。青い光源が途切れ、吊り下げランプの頼りない明かりだけになる。
「あれ、違う、僕は……そうだ、逃げないと……」
身なりを整え終わると、ルカは暗闇の中を当て所なく走り出した。
***
所長を連れて戻った頃には、観測室はもぬけの殻だった。作業台に残る血の跡と、真っ赤に染まったタオルが、あの不気味な光景が幻ではなかったことを裏付けていた。
「申し訳ありません。……僕の責任です」
稀少な個体をみすみす取り逃がし、またとない機会をふいにしたのだ。どれほど失望させたか知れたものではない。戦々恐々と所長の顔色を窺うと、彼はとっくに一歩先を行っていた。
「死者が……蘇ったというのか。いや、違う。自らの体を、修復した? 超常的な再生能力、か……?」
所長は観測装置から、備えつけの羽根ペンによって波形が書き殴られたロール紙をちぎった。
「ここから、波形が劇的に乱れ、界波数が急上昇している。意識が戻ったのはこのときだな?」
「え、ええ。痛みに呻く声がして……急激な回復が始まったのです」
「損傷からの再生に応じて反応は変化した。ならば個体に負荷を加えることで、『境界』の観測値を個体自身に再現できる……!」
彼の瞳に宿るオイルランプの炎は、希望の光そのものに思われた。
「彼奴を必ず探し出し、確保する。あの個体さえいれば、人為的に『境界』を再現することも不可能ではない。前人未到の新世界に至るのは管理局などではない。我々、境界観測研究所だ!」
屋根の穴から見える空が白んでいく。
長く奇想天外な夜が、静かに明けようとしていた。




