18.あの子は本物
金の竪琴町に帰り着く頃には、とっぷりと日が暮れていた。ガス灯の明かりに照らされた夜道を、縦に並んでとぼとぼと歩く。
機関車を降りてから、ルカは一言も発していない。普段の賑やかさは鳴りをひそめ、ぜんまいの切れた時計みたいに押し黙ったままだ。後ろについてくる足音を確かめながら、琥珀は胸の底に溜まった澱を逃がそうと息を吐いた。
ふと、肉の焼ける香ばしい匂いが鼻腔をくすぐった。道脇にあるパブのオープンテラスから、橙色の光と喧騒が漏れ出している。
「ハーイ、坊やたち! どうしたのかしら、しけた顔しちゃって」
静寂を打ち破ったのは、ガーデンチェアの背もたれをひっくり返りそうなほど傾けたミラージュブルーだった。褐色の頬に、ほんのりと酒気が滲んでいる。
「ちょっと、声が大きいったら……あれ、琥珀君にルカ君。こんばんは、随分と早いお帰りだね!」
明るい声を上げたのは、写真屋の暗幕みたいな他所行きのワンピースを纏ったピカリだった。見慣れない装いのせいで、ミラージュブルーに相伴していたのが彼女であると、琥珀はすぐに気づかなかった。
ピカリは琥珀を眺めて、背後にいるルカを見る。そして不思議そうに目をぱちくりさせた。
「どうしたの、二人とも。喧嘩でもした? 服、破けてるじゃない」
こんなときばかりは、上級探索者の観察眼が恨めしい。実際、ルカの様相は見る者が見れば異様だった。シャツの破れ目は隠せても、ベストに空いた風穴と、血を落とすために無茶苦茶に擦って傷んだ跡はそうはいかない。
「違う。琥珀は、命懸けで助けてくれたんだ」
「……ルカ」
ルカの弱々しい反論を制止する。都で襲撃者に撃たれたことを打ち明ければ、傷一つないルカの体との矛盾に言及されずにはおれないだろう。そうなれば、話さなくてはならなくなる。ルカの「極めて個人的な体質」のことを。
ミラージュブルーがテラスから身を乗り出してくる。彼女は琥珀の背中に隠れていたルカを、無遠慮に眺め回した。
「あれま。随分と物騒な匂いを連れて帰ってきたのね。お坊ちゃん」
「……っ」
ルカが顔を引き攣らせて後ずさった。琥珀は思わず割って入る。
「待ってくれ。俺から、話す。……ルカ、いいか」
今の憔悴したルカの口から説明させるのは酷だ。琥珀が目配せすると、ルカは揺れる瞳をぐっと伏せた。
どう足掻いても、ミラージュブルーの目は誤魔化し通せまい。何より率直に言って、今の状況は自分たちの手に余る。頼るべき相手がいるとすれば、この街の誰よりも真実に近いところにいると思われる、ミラージュブルーしかいない。
ミラージュブルーは切れ長の目を鋭く細めたかと思うと、ピカリに艶やかな投げキッスを送った。ピカリは肩をすくめ、卓上の伝票に目を落とす。そして背伸びして、紙幣をミラージュブルーの胸ポケットに捩じ込んだ。
「はーい、じゃあルカ君は私と一緒に帰ろっか!」
帰り支度を済ませたピカリが、軽快にルカの背中を張り飛ばす。ルカは目を白黒させている。
「え、で、でも……」
「いいから、いいから。難しいことは、そういうのが得意な人に全部任せておけばいいの!」
ピカリは強引に肩を組んで、ルカを大通りの方へと連行してしまった。あんなことがあった直後だ。ルカから目を離すのは心配ではあるが、他ならぬピカリがついていてくれるなら、これほど心強いことはない。それにこれから話すことは、できればルカの耳には入れたくない。
後ろ髪を引かれるように何度も振り返るルカの背中を見送って、琥珀はミラージュブルーに向き直った。
「場所を変えたい」
***
静まり返った中央広場に、ガス灯が二つの影を落としている。ミラージュブルーが噴水の縁に腰かけると、青白い月光がそのシルエットを淡く縁取った。こんな夜更けに、憧れの彼女と二人きり。これが都に行く前ならば、きっと狼狽しきりで目も合わせられなかったに違いない。しかし今の琥珀には、この贅沢な状況を享受できるような精神的余裕はないのだった。
「話はわかったわ」
都で起こったことの全てを打ち明けても、ミラージュブルーは頭ごなしに否定したり、笑い飛ばしたりするようなことはなかった──唯一、王家からの追手に命を狙われたくだりにだけ、訝しそうに眉を顰めはしたが。
「貴方が一番聞きたいことを、正直に言ってみなさいな」
「……ルカは、何者なんですか」
遺構の未踏区画から現れた変てこな王子。その謎を解き明かそうとすればするほど、かえって得体の知れない深みへと嵌まり込んでいく。
遺構管理局の中枢人物たる彼女とて、全てを把握しているわけではないだろう。それでもいい。わずかでも知りたい。もう胸の内に膨れ上がった疑問を、押し留めておくことなどできないのだ。
「あの子は本物よ」
しかし琥珀の思惑とは裏腹に、ミラージュブルーから返ってきた答えは、残酷なほどにくっきりと輪郭を持っていた。
「本、物? 本物って、何の……」
「貴方が見た首の紋様。それは魔王の証。王家が彼を葬ったのも、そのためでしょうね」
「首の、紋様……」
導水路の暗がりで目にした光景が脳裏を過ぎる。ルカの首筋に灼熱していた、遺構の最深部に眠る青い火の玉と同じ形の紋様。あれが、魔王の証だって?
首筋にそんな物騒なものを抱いて生まれてきたのに、当のルカ自身が何も知らないのはおかしい。
そこまで考えて、はたと思い出す。ルカの母親が盲目だったことを。彼女には見えなかったのだ。我が子の首筋に浮かび上がった紋様が。
魔王の生まれ変わり。
ひどく長く感じられた帰りの列車の中で、その言葉は幾度も琥珀の頭を巡った。そして巡るたびに、ありえないと伏せてきた。
だって、いったい誰がそんな与太話を信じよう。魔王なんてものは、子供騙しの寝物語でしか聞かない存在ではないか。
「そんなのでたらめだ。あんただって、御伽話なんか信じてないって」
「あら。私がいつ『信じていない』なんて言ったのかしら。……貴方は愚かな子ではないと思っているのだけど。本当はもう、察しがついているんじゃなくって?」
ミラージュブルーが淡い微笑みを湛えて退路を断つ。琥珀はたまらず片手で顔を覆った。
「……『魔王は幾度倒れても立ち上がり、争いは果てなく続きました』」
誦んじたのは、聞き分けのない子どもを震え上がらせるための、御伽話の決まり文句。これがもし、どれほどの傷を受けても、ひとりでに治癒してしまう性質を意味しているのだとしたら。ルカの傷が跡形もなく消え去ったという動かぬ事実と、絶望的なまでに重なってしまうのだ。
ミラージュブルーが満足そうに目を伏せるのが、答え合わせだった。
「再生能力。それが私たちの魔王様の言い伝え。貴方だって、ずっとすぐそばで見てきたはず。……あの子は眠っていない。ただの一度もね」
広場のかさついた石畳を、冷たい夜風が撫でていく。ガス灯の鈍い光が揺れて、琥珀は自分の立っている世界までもが揺らいでいるような錯覚に陥った。
「ど……どうして」
「だって、生きているだけで片っ端から回復してしまうんだもの。疲れることがないなら、眠りを必要としないのは当然でしょう?」
──三日三晩走り続けて、あそこに逃げ込んだんだ。
──それが君の将来の夢なのか?
──君、一晩中ぴくりともしなかったぞ。
同居していて、少しもおかしいと思わなかったといえば嘘になる。しかしその一つ一つの違和感は、琥珀にとって意味を為さない「点」に過ぎなかった。それらが急に立ち上がり、躍りかかるような勢いで「線」になっていく。
ルカは眠らない。夢も見ない。
普通の人間が当たり前に持っている限界が、ルカにはない。
「ルカは……死なない、のか」
「いいえ。だけど私たちより、あの子は少しだけ長生き」
「少しって……どれくらい」
ミラージュブルーは首を仰け反らせて天を仰いだ。星の光が、青い髪を流れ落ちる。
「少しだけ、よ」
***
別れ際、ミラージュブルーは約束してくれた。遺構管理局はルカの身柄を保証する。王家の手の者を、簡単に近づけさせはしないと。
「捕物一つとっても、煩雑な手続きがいるものよ」と、豪快に笑うミラージュブルーに、琥珀は尋ねた。
「ルカは、危険なんですか」
彼女は答えた。
「そんな風に言うのは人間だけ。魔族は、ずっと待っていたのだから」
星降る夜道を、琥珀は一人歩く。工房に帰ればルカがいる。どんな顔をすればいい。何と声をかければいい。
ミラージュブルーに手渡された真実は、あまりに重かった。
ルカの夜は、永い。
***
屋根裏部屋の小さな窓の向こうに星明かりが揺れる。
綺麗に折り畳んだまま一度も使っていない毛布にオルゴールを乗せて、ルカは呆けたようにその音色に耳を澄ませた。
空が白み、月が隠れて、陽が昇るまで。
ずっと、ずっと。




