17.僕が首だけになっても
長閑なコマドリの歌が聴こえてくる。
そよ風に騒ぐ葉ずれの音。
涼やかな水のせせらぎ。
麗らかな春景色を切り裂く、場違いな怒声と足音。
「琥、珀……」
「喋るな」
「置いて、いってくれ……君まで……」
「喋るなって言ってるだろ」
力の入っていないルカの体は、水を吸った砂袋みたいに重い。肩にずっしりと食い込む腕をしかと掴んで、琥珀は強引に足を進めていた。
がくん、と、腕を下に引っ張られて体勢を崩す。とうとうルカが膝をついたのだ。脇腹を押さえるルカの手の隙間から、赤い血が溢れて石畳に散る。一刻も早く止血しなければ。琥珀はぎろりと辺りを見回した。ルカはこれ以上遠くへ行けない。しかし同時に、追跡者の手からも逃れなければならない。
狙撃は林の方からだった。来た道は遮蔽物が少なすぎる。身を隠すなら、水路しかない。
「降りるぞ。あと一息、踏ん張れ」
「う、ん……」
息も絶え絶えのルカを支え直す。奥歯を強く噛み締めながら、水際へと続く苔むした石段を降りていく。ここで滑ったら一巻の終わりだ。
不幸中の幸いか、護岸沿いの細い通路は足首まで浸水していた。ズボンを伝い落ちた血が、水中に赤いリボンをはためかせては消えていく。ここに隠れてやり過ごすことができれば、あるいは。そう思って橋桁の下に滑り込んだ矢先、
「こっちだ、ここに血痕があるぞ!」
そんな一縷の望みを打ち砕かんとする、非情な声が降ってきた。石畳に血の跡を残してしまったのが悔やまれる。小さく舌打ちをして後ずさると、護岸に当たるはずだった肘が虚空に沈む。見れば、張り巡らされた蔦の向こうに、古びた取水口の穴が隠れているのだった。
ここしかない。
分厚い蔦の垂れ幕を掻き分けて、琥珀はルカの体を取水口の中に押し込んだ。
「いたか?」
「いや。そっちはどうだ?」
「さっぱりだ」
かび臭い導水路の底には、まだ少し古い水が溜まっていた。小さく身を屈めて奥へと進んでいくと、頭上から石段を降りる複数の足音が響いてくる。琥珀はルカを曲がり角の奥へと押しやって、じっと息を殺した。
やがて、取水口の前から人の気配が遠ざかっていく。しかし安堵している暇はない。琥珀はぐったりとしたルカの体を、導水路の壁に凭せかけた。
「熱っ……!」
ルカの首の後ろに回した掌が、とてつもない熱に焼かれる。傷のせいで発熱したのだろうか。否、これはそんな生易しいものじゃない。まるで火を入れた炉みたいな熱さだ。とても人の体から発せられたとは思えない。
だが今は余計なことを考えている場合じゃない。真っ赤に染まったルカのベストの前を開ける。こんな不衛生な場所で手当てなどしたくないが、背に腹は代えられない。「くそっ」血で滑るシャツのボタンが煮豆みたいに逃げ回り、思わず悪態をつく。
「帰ったらヤセギスに新調してもらえ」
鞄から引き抜いた食料用ナイフで、シャツの内側から穴を穿つ。裂け目に指を突っ込んで、力任せに引きちぎった。
そこでようやく、ルカの脇腹に空いた赤黒い穴と目が合った。背筋が粟立ち、息が詰まる。だが怯んでなんかいられない。ルカの首からシズカの砂避けを引っ剥がして、幾重にも折り畳み、傷口に力いっぱい押し当てた。
「ぐっ……琥珀、痛、い……!」
激痛に身を捩ったルカが、導水路の底を掻きむしる。指の隙間から、苔とヘドロが押し出されていく。
「文句なら後で聞く」
琥珀は頭の中で教本をめくった。意識の有無を確認。衣服を除去し、傷口を視認。患部を清潔な布で強く圧迫して止血。その後は。
「助けを、呼ぶ……」
出来ない。呼べるわけがない。外にはまだ追っ手が目を光らせているかもしれないのだ。それにここで出ていけば、ルカを一人にすることになる。その間に見つかったら。もし、間に合わなかったら。
無理やりに凍りつかせていた感情が決壊して、琥珀の呼吸が早くなる。遺構探索人数に下限が設けられているのは何故か。資格試験にも出る、基本中の基本だ。答えは「負傷者が出た際に、一人が手当てをし、もう一人が助けを呼ぶため」。
どうしてここには琥珀とルカの二人しかいないのか。それはシズカの付き添いの申し出を、他ならぬ琥珀自身が断ったからだ。シズカから託された砂避けが、ルカの血を吸って重くなる。
「だ……誰かっ……」
自分のものとは思えないほど弱々しい声が漏れた。これからどうすればいい。どうすれば助けられる。あんなに寝る間を惜しんで読み込んだのに、教本のどこにも、その答えが載っていないじゃないか。
「爺や……婆や……」
大粒の汗を滴らせるルカが、掠れた声で家族の名を呼ぶ。
「兄、上……姉上……」
「よせよ、そんなの……まるで」
傷口を押さえる琥珀の両手が、みっともなく震える。
「しっかりしろよ。会いに行くんだろ。石の話をするんだろ。誤解を解くんだろ!」
どうしてルカがこんな目に遭わなければいけないのか。
尊敬する兄から死んだことにされて、家族も奪われて、その上もう一度殺されなければならないというのか。
あんなに家に帰りたがっていた奴が、こんな暗くて寒い、誰からも忘れられた場所で。一人きりで。
いいや、一人になんかさせない。
置いていくものか。
最後まで、一緒にいてやる。
ふと、ルカが長い睫毛を震わせた。血で染まった琥珀の手に、泥で汚れたルカの手が重なる。
「琥珀、これ……」
「何だ。何でも言え」
「外してくれ。どうにも、変なんだ」
「それは出来ない、出血が酷いんだ!」
「頼む、もう痛くないんだ!」
「そんなわけ……」
琥珀の手を退かそうとするルカの手には、瀕死の人間とは思えないほどの力が宿っていた。戸惑いを覚えながら、琥珀はゆっくりとシズカの砂避けを傷口から剥がした。
そして、息を呑んだ。
「は……?」
傷が、どこにもないのだ。
確かにこの目で見たはずだ。ルカの脇腹を抉った、鉛玉の爪痕を。だがそこには砂避けで血を押さえつけた布目の跡が、朱印みたいに残っているだけだった。
ぽろり、と。砂避けの中から金属の塊が落ちる。先端がひしゃげた、血塗れの弾丸だった。それはルカの腿の上を転がって、濁った水溜まりにぽちゃんと沈んだ。
ルカが信じられないものを見るように、自らの体に目を落としている。
「何だ、これ。どうして……僕、は……」
丘の上から、寄宿舎へと帰っていく学生たちの楽しげな声がする。暗い穴の底で起こった常軌を逸する出来事なんか、何も知らないままに。
***
水路で洗ったルカの服と砂避けを抱えて、琥珀は導水路の奥に戻る。琥珀の上着を肩に羽織ったルカが、心細そうに膝を抱えて待っていた。
「琥珀、ありがとう」
「体は大丈夫か?」
「病み上がりの君より、よっぽど元気なくらいだ」
「……そうか」
俯いたルカの表情はよく見えない。そりゃ良かった、なんて。冗談でも口にできなかった。
追跡者の気配が去ったとはいえ、悠長に洗濯物を乾かしている余裕はない。ルカは濡れたままのシャツに袖を通そうとして、傷一つない体を恥じ入るように背を向けた。
そのとき、琥珀は初めてルカの剥き出しの首筋を目にした。そこには青い火の玉の紋様があった。工房でミラージュブルーが描いたものと同じ。遺構の最深部で見た紋様から、剣だけを抜き去ったもの。それはさっき、火を入れた炉みたいに熱くなっていた箇所に違いないのだった。
***
そうして、逃げるように二人は都を後にする。行きの機関車はもう少し賑わっていたものだが、帰りの機関車の客足はまばらで寒々しい。シズカの砂避けからは結局血の染みを落としきれず、ルカはやむなく素顔のままだ。服はまだ湿っていて、この世で一人だけ、雨に打たれたようだった。
「思い出したことが、あるんだ」
ボックス席の正面に腰かけたルカが、窓の外を見つめたままポツリと呟いた。流れる景色が、黄橙色の瞳の表面をつるりと素通りしていく。
「王宮から逃げ出した夜、とても高いところから落ちたんだ。それで、僕は気を失って……次に目が覚めたとき、何ともなかったから、そのまま走って逃げたんだ。おかしな話だよな。でも、今ならわかる。あのときも、僕は……」
初めて工房に転がり込んできたとき、そういえばルカがそんなことを言っていたなと思う。確かに違和感はあったが、どうやら肝心なところが抜けていたらしい。
近づくだけで遺構の扉が開くのも、遺物が光るのも、充分に奇妙だ。けれど琥珀の目の前で起きた現象は、そんなこととはわけが違う。
体内から銃弾が押し出される。崖から落ちても無傷だった。それは、もはや、人の領分では──
「……琥珀」
「何だ」
ルカの薄い唇が、開いては閉じる。勢いのつかない手押しポンプみたいに。
「僕が首だけになっても、友達でいてくれるか?」
十六年間という歳月を、普通の少年として生きてきた琥珀にとって、それはあまりに苛烈な問いかけだった。荒唐無稽な譬え話が、恐ろしく鮮明な輪郭を持って琥珀の胸に迫る。
早く答えなければ。何でもないことのように笑い飛ばせばいい。こんなこと、他愛のない冗談に決まっているんだから。
だけど、答えが、逆さに振っても出てこない。
きっとこの逡巡が、致命的な傷になるとわかっているのに。
「何、馬鹿なこと言ってるんだ」
笑って誤魔化そうとして、結局それすらも失敗する。自分はいったいどんな顔をしていたのだろう。鏡なんか見なくたって、山高帽を目深に被り直していくルカを見たら、何となくわかる気がした。
たまらなくなって、食べ残していた金貨クッキーを口いっぱいに頬張った。舌の上に広がった味は、不思議に、昨日より香辛料がきつかった。
がたん、ごとん、揺れる機関車。
静けさの底が抜けて、
大きなくじらに呑み込まれたみたいだ。
第二章おわり




