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第46話 今だけ

『お話の続きを、描きたいです』


 ルシアが自分の仕事を手伝うと言ってくれたとき、イルゼはそう返したかった。

 けれど、その言葉は喉の手前で止まっていた。口にすれば、戻れなくなる気がした。


 だからイルゼは、言葉ではなく布を掴んだ。


 布の端を揃える。折る。積む。

 指先が勝手に順番を探していく。いつも通りのはずなのに、手がわずかに震えていた。


 さっきまで、炭の匂いが近かった。

 紙に向かっていた時間、胸の奥が妙に高鳴っていた。久しぶりに時間を忘れ、雨音さえ遠くなった。


 その感覚が、また欲しい。

 そう思った瞬間、思考の端が冷える。


 イルゼは折り目を強く押さえた。

 押さえすぎて、指先が白くなる。


 自分で、自分を叱るみたいに。


 布は布だ。畳めば終わる。畳めば落ち着く。そういう順番で、これまでやってきた。


『やらないといけないこと、やらないと』


 口に出してみれば、少し硬い。

 硬いのは、正しいからじゃない。これしか自分を繋げないからだ。


 役に立つ。迷惑をかけない。段取りを崩さない。

 そうしていれば、ここに居てもいいと、自分に言える。


 その言葉のまま、布の山に来た。

 それなのに……胸の奥の高鳴りだけが、置いていけない。


 畳みかけの布の端が、ほんの少し歪む。

 直そうとして、手が動きかけて、止まる。


 そして、言ってしまった。


『手伝ってください』


 口から出た言葉のほうが、自分の気持ちより先に前へ出ている。

 言った瞬間、広間の音が変わった気がした。


 火のぱちり、という小さなはぜ。遠い雨音。

 どれも同じなのに、耳だけが敏くなる。


 息を吸う。浅い。

 胸の奥がひりついて、喉がうまく動かない。


 戻らなきゃ。

 いつもの段取りに戻れば、今の言葉は“なかったこと”にできる。


 そう思ったのに、身体が言うことを聞かなかった。

 足は床を踏んでいるのに、次の一歩だけが出ない。


 イルゼは指先を握り込む。爪が指の腹に食い込む。

 泣きそうになるのを堪えるためじゃない。逃げないためだ。


 言葉を投げたのは自分だ。

 今さら拾い直して隠すのは、もっと怖い。


 イルゼの言葉に、ルシアの口角が上がりかけて、すぐ止まる。

 返事の前に、マルガレーテを見た。


 勝手に頷くのは違う。ここは修道院だ。

 ここで段取りを回しているのは、目の前の人だ。


 マルガレーテは小さく、長く息を吐いた。

 肩が落ちるのではない。息を整える吐き方だ。


 壁際の書き台には木板で挟まれた台帳。

 ペン先の音が止まり、インクの匂いがわずかに立つ。


「どうなんだい、ルシア」


 ルシアは一歩下がり、丁寧に頭を下げた。


「私はこちらに二泊もお世話になる身です。好きなように使ってください」


 マルガレーテが口の端を上げる。


「白々しいねぇ」


 その言葉に、叱る色はない。棘もない。ただ、芯だけが残る。

 イルゼは一度だけ目を伏せ、胸の奥の硬さがほどけるのを確かめるように息を吐いた。


「じゃあ働いてもらうよ。イルゼ、あんたはあんたで、ちゃんとやんな」


 マルガレーテはそれだけ言うと、台帳に目を落とした。


 いつもの修道院の段取りは崩さない。

 だが、ひとつだけ隙間を作った。そこにイルゼの時間が落ちた。


 台帳の頁が一枚めくられ、線が引かれる。その線の中に、“今だけ”が収まった気がした。


 イルゼがルシアを見上げる。泣きそうな顔だった。嬉しいのに、申し訳なさが先に出る顔だ。


「ルシアさん……ごめんなさい」


 ルシアは首を振る。声を落とし、笑って言う。


「言葉、間違えてる。言うなら、『ありがとう』なんよ」


 イルゼの喉が小さく鳴った。

 涙がじわっと溜まって、唇の裏をきゅっと噛む。堪えようとしている。

 でも堪えきれず、視界の端が滲んだ。


 落ちそうになった雫を、服の袖で乱暴に拭う。

 拭き方が雑なのに、その手つきだけは必死だった。濡れた袖が頬に冷たく当たって、余計に涙が出そうになる。


「……ありがとうございます、ルシアさん」


「どういたしまして」


 声にした途端、イルゼの肩がほんの少しだけ下がった。

 礼を言うのが癖になっている声が、今日は少しだけ、自分のための礼に聞こえた。


 ルシアはその顔をじっと見ない。見ればイルゼが固くなると知っているから、視線は紙と木炭に戻す。必要なのは、次の一手だ。


「じゃあ何をすればいい? イルゼの仕事、教えて」


 ルシアが言った途端、背後から乾いた声が落ちた。


「言っただろ。布を畳んでほしいって」


 書き台で手を進めていたマルガレーテだった。目は笑っていない。口元も動かない。

 してやったり、ではない。ただ、当たり前の段取りをそこに戻しただけの顔だ。


 ルシアは一拍、口を開けたまま固まる。

 それから、ゆっくり息を吐いた。


「……まさか、最初からそれ狙ってたんですか」


 マルガレーテは肩をすくめた。


「さぁてね、なんのことだか」


 イルゼの頬が、ふっと明るくなる。

 北を見る余裕なんてない。今は、目の前がいっぱいだ。

 頼っていいのか、甘えていいのか。その境目で立っていた足が、ほんの少し、前に出た。


「ルシアさん、続きのお話、教えて下さい」


「よし、じゃあ長机の方いこ」


「はい!」


 返事が弾んだ。

 イルゼは自分でも驚いたように瞬きをして、それから、もう一度、はっきり頷いた。


 木炭の粉で黒くなった指先が、紙の白を汚していく。

 その汚れが、今日は嫌じゃない。

 進んでいる証拠だから。

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