第47話 代わりの手
広間の長机に、木炭の匂いが残っている。
イルゼが描くために置いた紙と、削れた木炭片。雨で外に出られない朝に、そこでだけ“やりたいこと”が先に動いた痕が残っていた。
ルシアはまず、イルゼが普段やっていることから手をつけた。
広間の作業台の上に積まれた布の山を一枚一枚、端を揃え、折り目を作る。濡れた外套の始末に使う布、椀を拭く布、縫い物の下敷きにする布。種類は違うのに、どれも同じように擦れている。洗って繕って、また使う。そうしないと回らない場所の布だ。
布を畳んでいると、足音が寄ってきた。
ようやく歩き慣れたくらいの、よちよち歩きの子だ。
裾を引きずらないようにたくし上げられているせいで、歩幅が小さい。転びはしない。でも、転べば支えてくれる人を探している足取りだった。
周りの大人は手を動かしている。
誰も冷たいわけじゃない。
段取りが先で、目の端で見ているだけ。そんな空気の中で、その子はルシアの近くまで来た。
さっきまで指示を出していたマルガレーテは、もう別の用で広間を離れている。だから今この場は、声をかけるより先に手が動く人ばかりだった。
触れられる距離では止まらない。でも離れもしない。
近づきたいのに、踏み込む勇気がない、絶妙な位置で止まって、ルシアをじっと見た。
「名前、覚えとる? ルシアよ、よろしく」
返事はない。頷きもない。
ただ、観察している。
「立ったままは、まだしんどいやろ。これ、座り」
ルシアは低い座椅子を引き寄せて置いた。
よちよちの子は一拍だけ迷ってから、静かに座る。座った途端、肩の力が抜けた。
「よし」
ルシアは頬を緩め、手を戻す。
布を折る。重ねる。揃える。
その間も、視線だけは時々、座椅子へ流した。
「名前、なんていうん?」
「……」
「言葉、まだなんかな。そしたらな」
ルシアは声を柔らかくして、畳む手を止めない。
「今イルゼが描きよる話、話したげる」
返事はない。
でも、その子は動かない。聞いているのか、ただ居るだけなのか、その境目の顔で居続けた。
布を畳み終えるころ、よちよちの子は座椅子に座るのを飽きていた。
いつの間にか椅子から降り、床にぺたんと座り込む。そのまま、はいはいで動き出そうとした。
狙いは廊下のほうだ。
ルシアは、その進行方向に段差があるのを思い出す。
「ほらほら、そっちは危ない。おいで」
ルシアは手を伸ばした。
よちよちの子は、ルシアの手と顔を交互に見る。
「手、つなご」
頷きはしない。
でも小さな手が、そっと指に触れてきた。握る力は弱いのに、離す気はない握り方だ。
ルシアは空いた片手で畳んだ布を抱える。
そして、長机の方へ向かった。
机の上では、イルゼが絵を描いている。
肩が前に落ちて、首が紙へ寄っている。集中の姿勢だ。
「イルゼ、集中しとるとこごめん」
ルシアは声の大きさを落として、布の山を少し持ち上げる。
「これ、どこ置いたらいい?」
イルゼがぱっと顔を上げた。
「あ……それは……」
一拍。視線が宙を探す。
日常の段取りが、絵の中に吸われて、咄嗟に戻りきれていない。
「そうだ。お掃除道具を置く場所に片付けます」
イルゼは廊下の方を指した。
言い方はきちんとしているのに、どこかぎこちない。集中を引き剥がされた反応だった。
「分かった。詳しい場所は行きながら聞くわ」
ルシアはよちよちの子の手を引き、廊下へ続く扉に手をかけた。
その扉が、向こうから開いた。
冷えた空気が一筋、広間へ流れ込みむ。扉の向こうには、ロルフが立っていた。
外套の肩が少し濡れている。雨の中を歩いてきた匂いがする。
ルシアの手には布の山。もう片方の手にはよちよちの子。
ロルフはそれを順に見て、最後にルシアの目を見る。
「……何をしている」
あの目だ。
理解できないものを見る目。でも嫌悪ではない。
「手伝いよ」
「それは分かるが……」
「手が空いとるなら助けて。はい、これ持って」
言い切るより早く、ルシアは布の山を差し出した。
ロルフの手が反射で受ける。
重みで腕が少し沈む。
ルシアはすぐに廊下の奥へ視線を投げ、通りかかった修道士を見つけた。
「すみません。これ、どこ置いたらいいですか?」
修道士が短く場所を指で示す。
ルシアは頷き、よちよちの子を連れて案内された方へ向かう。
ロルフは不服そうな顔を一瞬だけ作ったが、黙って布を運んだ。
布を片付け終え、戻ろうとしたとき。
よちよちの子が、ふいに動かなくなった。
「どうしたん? 疲れた?」
「……」
「抱っこしてもいい?」
返事も頷きもしなかった子が、最後の問いだけには反応した。
ゆっくり、こくん、と頷く。
目がうつらうつらしている。
「眠いんやね」
ルシアは腰のあたりに巻いていた長い布を引き出した。
それはさっき、イルゼが「たぶん使う」と短く言って渡してきたものだ。荷を縛るのにも、背負うのにも使える、一本の布。
それを広げ、背中に回し、手早く結ぶ。
「なんだ、それは?」
ロルフが怪訝な顔で聞く。
「背負い布にできるやつ」
慣れた手つきで子を背に乗せる。
よちよちの子は、しがみつく力は弱いのに、背中へ預けた瞬間、安心したように息を吐いた。
そこへ足音が近づく。
「たまげたねぇ」
マルガレーテだった。
歩みは落ち着いている。声は柔らかい。叱るでも、詮索するでもない。ただ面白がっている目だ。
「若いのに、そんな結び方まで知ってるのかい。あんた何者なんだい」
ロルフの肩が、ほんのわずか固くなる。
責める気がないと分かっていても、聖職者の“目”には反射で身構えてしまう。
「ちょっと経験豊富な旅人ですよ」
ルシアが冗談めかして笑うと、マルガレーテも小さく笑った。
ロルフの肩が、すとんと落ちる。警戒が一段ほど緩む。
「マルガレーテさん、広間の布、片付けました。次は昼の準備にうつりますね」
「そうかい、助かるよ」
マルガレーテは促す。
「乾燥豆を食物庫から持ってきて、湯につけるんだ」
「分かりました。場所だけ伺っていいですか?」
ルシアが尋ねると、マルガレーテが方角と扉を示す。
ルシアは歩き出す。ロルフは、その横に自然と歩幅を合わせた。
「さっきは持ってくれてありがと。もう自分のことしときな」
ロルフが溜息をついた。
「少し、目立ちすぎてないか」
声は低い。叱りではない。釘だ。
「ここはただの経由地だ。何事もなく過ごすべきだ」
ルシアは一拍だけ黙ってから、足を止めた。
背中の子が、ふっと息を吐く。寝息に近い音だった。
結び紐が体の動きに合わせて、きゅ、と小さく鳴る。
ルシアはロルフと向き合う。
言い訳を探す顔じゃない。困った、と言う顔でもない。決めたことを言う顔だ。
「私もそのつもりやったんやけどね」
ルシアは小さく言って、すぐ続ける。
「でも、少しでも自信つけれること、してあげたい」
絵の前で硬くなっていた肩。頼み方を知らない目。
あの子がやっと差し出した言葉を、無かったことにしたくなかった。ルシアの中で、そこだけが譲れなかった。
自信という言葉は軽い。けれど“あの顔”を一度でも出せたなら、次の一歩の形が変わる。
ルシアはそれを知っている。生活の中で、何度も見てきた。
「あなたがいなくなれば、ここは元に戻る」
ロルフの言葉は正しい。
だからこそ、冷たい。
「……そうやね」
ルシアは否定しない。
「自分の気持ちを押し付けるな」
大きな声ではない。だが、刺さる声だ。
その瞬間、背中の子が「ん……」と小さく声を上げた。
タイミングを見計らったわけじゃない。
ただ、緊張の間に、幼い体温が割り込んだ。
ルシアは身体をゆらゆら揺らし、背中へ手を回す。
落ち着け、と言う代わりに、揺れで伝える。
「押し付ける気はない」
ルシアは声を落とした。
「言い出したのは私。けど、あの子は私に『手伝って』と頼んでくれた。ここで、投げたくない」
ロルフは言い返さない。
代わりに、背中の子へ視線を落とし、またルシアを見る。
仕事の顔のままだった。決して柔らかい目ではない。“量った目”だった。
火種か。助けか。どちらに寄るか。いま判断するには早い。
それでも、ルシアが逃げずに言い切ったことだけは、見落とさなかった。
雨音が、廊下の向こうで途切れず鳴っている。
この修道院の中で、ルシアは今日一日、働く。




