第45話 手伝ってください
雨は降り続いていた。
広間の窓は白く曇り、屋根を叩く音だけが、途切れず底に響いている。
朝食のあとの短い自由時間。
長机の端で、イルゼが一枚目の絵を描き上げた。
描かれたのは、曇った空と、雨を含んだ畑。
掌に小さな蕪の種をのせた女性がいて、子どもがその手元を覗き込む。
そのすぐ傍で、山羊が一頭、土から顔を出した枯れ草を噛んでいた。
机を囲んでいた子どもたちは、一拍遅れて息を吐き、次の瞬間、声を弾ませた。
「すごい!」
「山羊いる!」
ルシアも身を乗り出す。
「一枚の絵でちゃんと“話”になっとる。イルゼ、すごい」
ルシアが言うと、イルゼは目を伏せた。
褒め言葉が痛いのではない。胸の奥が熱くなりすぎて、受け止め方が分からない顔だ。
「もっと描いて!」
リーナが言った。続けて他の子どもたちも口々に言う。
「次、次!」
「羊さんも描いて!」
イルゼの指が紙の端を押さえ直す。描きたい、という気持ちがそこに見えた。
けれど、次の瞬間、イルゼは長机の向こう——広間の作業台に積まれた布の束と、縫いかけの布切れと、文字の板片を見た。
大人に呼ばれなくても、分かっている。今日やるべきことが、まだ残っている。
「……無理だよ」
イルゼの声は平らだった。わざと平らにしている。
「やること、いっぱいあるもの。縫い物もあるし、昼の準備もある。勉強も」
子どもたちが一斉にむっとする。
イルゼは苦笑いを浮かべた。困らせたくないのに、困らせてしまう顔だ。
ルシアは口を開きかけて、いったん飲み込む。
イルゼの言い方は“断る”より“戻る”に近い。
自分の場所へ、自分で戻る声だ。
けれど、この子の“戻り方”は、自分を置き去りにする戻り方でもある。
「……今日だけ、私おるし」
ルシアは声の角を落として言った。
「縫い物とか、昼の準備とか。代わりにやろうか?」
イルゼが顔を上げる。
嬉しさが先に出かけて、すぐに引っ込む。頼りたい気持ちと、頼ってはいけない気持ちが同じ場所でぶつかる。
「大丈夫です」
イルゼは首を振る。動きが早い。
「やらないといけないこと、やらないと」
言葉の最後が、少し硬い。
その硬さの理由を、ルシアは分かってしまう。
修道院に居られる時間は限られている。限られているなら、役に立って自分を繋ぐしかない。
ルシアの手が、膝の上でぎゅっと握られた。爪が掌に食い込む。
出過ぎるな、と自分に言い聞かせるための握り方だった。
「では、失礼します」
イルゼはそれ以上言わなかった。
言い終えるより先に、足が動く。広間の隅の作業台。山形に積まれた布のところへ向かい、端を揃え、迷いなく畳み始める。
“やるべきこと”へ戻る速さが、癖になっている。
集まっていた子どもたちも、それを見て渋々散る。
縫い針のところへ行く子。桶のそばへ寄る子。字の練習の席へ向かう子。
不満は顔に出るのに、足だけは段取りを覚えている。
ルシアも立ち上がる。
イルゼを見送るだけで終われば、さっき握った爪の跡が無駄になる気がした。けれど、これ以上、場の段取りを乱すわけにもいかない。
手伝えることを探そう、と視線を巡らせると、広間の端にマルガレーテがいた。
マルガレーテは木板で挟まれた台帳を開き、片手で頁を押さえながら、もう片方で数字を書きつけていた。
豆の壺、干し草の束、布の枚数。品の名を声にせず、線と印だけで順番を整えていく手つきだ。
「マルガレーテさん、私にできることありますか?」
マルガレーテはペン先を止めないまま、視線だけを一度だけ上げる。
返事をしながら、次の行に短い印を足した。
「あるさ。豆を水に戻して。畳む布もまだ残ってる」
言い方は簡単だ。
けれど“布”という言葉だけが、妙にきっぱりしていた。
マルガレーテの目が、さりげなく広間の隅へ滑る。そこにイルゼがいる。
作業台で布の角を揃え、折り目を手のひらで押さえ、手早く積み直していた。早い。丁寧だ。
そしてどこか、硬い。
「……分かりました」
ルシアは頷き、ひと呼吸だけ整える。
頼まれてから動く。ここではそれがいちばん角が立たない。
それから広間の隅、イルゼのいる方へ足を向けた。
そのときだった。
イルゼの布の端を揃える手が、折り目の途中で止まった。
指先が布を押さえたまま、ほんの一瞬だけ呼吸が浅くなる。
次の瞬間、イルゼはすっと立ち上がった。
折りかけの布を押さえていた手が離れ、重なりがずるりとほどける。
積み上げた山の端が、ほんの少し歪んだ。
イルゼは布の前に立ったまま、足だけが固まった。
ここでまた座れば、いつもの段取りに戻れる。
それなのに足が動かない。
——戻ったら、さっきの言葉が嘘になる。
そんな迷いが、背中だけで見えた。
イルゼは小さく息を吸い、こちらへ歩き出した。
顔は伏せ気味で、前髪が揺れる。その隙間から見える目が、逃げ道を探しているのに、ちゃんとこちらを向いていた。
「……ルシアさん」
声が喉の奥で擦れる。
言い直したいのか、言い切りたいのか、まだ決めきれない音だった。
それでもイルゼは足を止めず、ルシアの前まで来た。
胸の前で組んだ手に、ぎゅっと力が入る。指先が白くなる。
「……今だけ」
小さな声。けれど、逃げない声だった。
涙が出そうな震えを、息で押さえ込むみたいに、イルゼはもう一度だけ手を握り直す。
「手伝ってください」
頼る言葉は、軽くない。
だからこそ、真っ直ぐだった。




