第44話 一枚だけ
雨の日の朝は、広間の音が違う。
屋根を叩く雨粒が、石壁に吸われたまま低く続いている。
斎の時期。大人の食事は昼と夕の軽食のみだが、成長期の子どもたちには薄い粥と黒パンが出た。
木匙が椀の縁に当たり、乾いた音がした。
朝食が終わると、広間のざわめきが一段しずんだ。
マルガレーテが何か言うでもないのに、皆が同じ呼吸で待っていた。
片付けはこのあと。まず一息。そういう順番が、この場所にはある。
近況を一言二言。子どもの靴紐を見る目配せ。今日の天気の確認。
だらけないまま、ほんの短い余白だけが挟まった。
広間の窓から少し離れた長机に、ルシアが座っていた。
手元には端紙の束。木炭の粉が指先に付いて、白い紙が灰色に曇っている。
書き終えたばかりの文を見下ろし、ルシアは小さく息を吐いた。
作ろうとしているのは、絵を見せながら語る、絵語り。
端紙は数枚。順にめくれば、物語が進む形にしたい。言葉は、もう揃っている。
残っているのは、絵だ。
「……どうするかなぁ」
呟きは独り言に近い。けれど、広間は静かすぎる。拾われるには十分だった。
「なにしてるの?」
最初に近づいてきたのは、少女だった。
昨夜、ハンカチを取られて泣いていたリーナだ。今日は泣いていない。けれど、好奇心が顔に出て、目だけが先に机へ寄ってくる。
「物語、書いとるんよ」
リーナの顔がぱっと明るくなる。
「えっ物語? なになに?」
その一言で、周りの子どもたちが寄ってきた。
覗き込みたくて仕方ない顔が、机のまわりに小さな輪を作る。
「文字だけ?」
「読んで読んで!」
口々に声が跳ねた。ルシアは笑いながら、紙を押さえ直す。
「読むのは後。絵が欲しいんよ」
広間の窓際に、イルゼはいた。
イルゼはようやく歩き慣れた子のそばに腰を落としていた。
窓の外は雨。板を叩く音が続き、灰色の向こうがぼやけて見える。
小さな指が硝子の方へ伸びるのを、イルゼは手のひらでそっと押さえた。近づきすぎないように、ただ同じ景色を一緒に見る。
けれど、視線だけが、ときどき机の方へ滑る。
ルシアの周りにできた小さな輪。紙の上へ落ちる影。上がりかけては引っ込む声。
イルゼは距離を詰めない。詰めないまま、目だけが離れなかった。
「絵が上手な人、知ってるよ。イルゼお姉ちゃん!」
リーナが、思い出したように言った。
一斉に視線が跳ねる。
机の周りの空気が、くるりと向きを変えた。
イルゼは動かなかった。
けれど、肩がわずかに固くなる。口が開きかけて閉じる。言葉が追いつかない。
「……なんで、絵のこと」
イルゼの声は小さい。リーナに向けた問いというより、自分の胸に落とした声だった。
リーナは一瞬、言いすぎたと気づいたように口を噤む。
そして、少しだけ声を落とす。
「見たことあるの。すっごく上手でね。でも……秘密だったよね。こっそり描いてたし……」
言いにくそうに、最後の部分を飲み込む。
つい言ってしまった、という顔だった。
イルゼの耳が赤くなる。
見られていた。しかも、ちゃんと覚えられていた。
恥ずかしさが先に来る。けれど、その奥に別のものが混ざる。
誰かが自分のことを見ていた。興味を持っていた。その事実が、胸のどこかをくすぐった。
「イルゼお姉ちゃんの絵、好きだから……お願いできないかな?」
リーナはそう言って、恐る恐る笑った。頼む声だった。
イルゼは困惑したまま、視線を彷徨わせた。窓の方へ逃げかけて、途中で戻る。
逃げ道にしていい話ではない、と自分で分かっている動きだ。
そして視線が止まる。
ルシアの手元の紙。何かを描こうとして、丸がいくつか置かれている。顔の輪郭のつもりだったのだろう。
けれどそこから先がない。木炭の先が一度迷って、止まったままになっている。
ルシアはイルゼの目を見た。急かさない。求めもしない。
ただ、逃げ道だけを置くように言う。
「無理やったら、それでもいいんよ。絵は、楽しく描くのが一番やから」
言い方が妙に馴染んでいた。
誰かが楽しんで描くのを、ただ横で見てきた人の言い方だった。
イルゼの口が動く。拒否の言葉が出そうになる。
それでも足が、ひとつだけ前に出る。
それが答えだった。
イルゼは唇をきゅっと結び、しばらく黙った。誰も急かさない。
やがて小さく頷き、息の下に声を落とす。
「……一枚だけ」
リーナが飛び跳ねる。
「ありがとう!」
その声につられて、周りの子どもたちも笑った。
輪の空気が明るく揺れて、雨の音が少しだけ遠のく。
イルゼはルシアの隣に腰を下ろした。
近すぎない距離。肩が触れない位置。けれど、輪の中だ。
ルシアは紙束を整え、机の上に一枚だけ置く。
「考えたのは、生活の知恵の話でな。一枚目に描いてほしいのは——」
そこから先は、子どもたちが身を乗り出す。
イルゼの指先が、紙の端をそっと押さえた。
木炭の粉が付くのも構わずに。
さっきまでイルゼのそばにいた、ようやく歩き慣れた子は、どこへ行こうかとよちよち迷っていた。
その手を、マルガレーテが取る。握って、落ち着かせる。
それからマルガレーテは、イルゼの方を見る。
少し離れた場所で、院長もイルゼを見ていた。
止めに来ない。けれど、見落としもしない目だ。
院長たちの表情に、不安はない。
理由は一つだった。
今、絵に向かうイルゼの顔が、これまで見たどれよりも柔らかい。
雨はまだ降っている。
けれど広間の中では、イルゼの表情にだけ、先に明るさが差した。




