第43話 見逃さない目
ロルフとの会話を終え、ルシアは別館へ足を向ける。
本館の内扉を開けた瞬間、外の冷えが頬を叩いた。
渡り廊下を歩き、修道女たちの別館に入る。
木の床が小さく鳴る。屋根はあるのに、隙間の風が遠慮なく入る。
廊下は石と木で組まれていて、どちらも冷えを溜め込む。
修道院は比較的整っている。だが、冬の名残までは追い出せない。
手すりに指を滑らせると、木が冷たい。
乾いた冷えではない。湿り気が混じっている。雨の前の匂いだ。
夕食前にマルガレーテに案内してもらった部屋へ向かう途中で、足音が重なった。
「ルシア」
呼ばれた声は低く、落ち着いている。
足音の主は、歩幅を崩さないまま近づいてきた。
マルガレーテだった。
声は穏やかだが、夜に溶けない強さがある。
叱る強さではない。崩れそうなものを支える強さだ。
「こんばんは、マルガレーテさん」
ルシアは立ち止まって頭を下げた。
この修道院の空気に合わせて、足を止めるところまでが礼儀の一部に思える。
「……さっきのことなんですけど」
ルシアは続けかけて、少し迷う。
布の取り合いの一件。
修道院の子どもは、叱られて覚えるより、段取りで覚える。
それを乱したのは自分だという自覚がある。
あそこで割って入らなければ、イルゼがどう動いたのか見えたかもしれない。
けれど、イルゼの困っている顔を見たら、放っておけなかった。
「歯磨きのとき、子どもの諍いに割って入りました。様子を見るべきだとも思ったんですけど、そうできませんでした」
言い終えて、ルシアは自分の声が少しだけ硬いことに気づいた。
正しいことを言おうとしている時の声だ。
マルガレーテは首を振った。
否定ではない、という振り方だった。
「イルゼのことが気になるんだろう」
言い当てられて、ルシアは苦笑いを漏らす。
当てられた悔しさより、見抜かれた安心が先に来る。
「分かっちゃいましたか」
「そういう顔をしてた」
責めない。からかわない。
ただ事実として置く言い方だ。
マルガレーテは歩き出し、ルシアも並ぶ。
並ぶ距離は近すぎない。肩が触れない程度に、でも会話が途切れない距離。
マルガレーテの歩幅は小さくない。
だが急がない。こちらが合わせられる速度で、淡々と進む。
「イルゼは、自分に自信がない」
マルガレーテは言う。
告げ口の調子ではない。状況の確認だ。
今日もそうだった。
幼い子が椀を落としかけると、イルゼの手が先に伸びた。自分の分より先に、誰かの分を運ぶ。
布の取り合いが起きたときも、止めようとして固まっていた。
止めたい。止めなきゃ。
その気持ちだけが先に立って、足が遅れる。そういう固まり方だった。
「自信がないから、役に立とうとする。役に立てばここに居ていいと思ってしまうんだ」
マルガレーテの言葉は淡々としているのに、重い。
同じ場面を何度も見てきたから、飾らないのだろう。
ルシアは言葉を探す。
慰めを言うのは簡単だ。でも、簡単な言葉は残る。
残る言葉は、時に刃になる。
イルゼのような子にとっては、特に。
「……あの子の親は」
マルガレーテが言いかけて、止めた。
言葉の端だけが残る。続きを出せば、戻れなくなると分かっている止め方だった。
ルシアは一瞬、息を飲む。
問い返せば聞ける気がした。けれど、それはこの人の線を踏むことでもある。
マルガレーテの口元が少しだけ緩む。苦笑いだ。
「だめだね。あんたと話してると、つい余計なことまで言いそうだ」
余計なこと、という言い方が優しい。
言ってはいけない、ではなく、言わない方がいい。
「ふふっ」
ルシアも一緒に笑った。
笑うことで、踏み込みすぎた空気を戻す。
笑ったあとで、ちゃんと頼みを出す。
自分のやりたいことを、ここでは勝手に進めない。
「マルガレーテさん、お願いがあるんです」
ルシアは少しだけ声を落とした。
「院長さまに、使ってもいい端紙があるか、聞いてもらうことはできますか」
マルガレーテが立ち止まる。
歩みが止まるだけで、会話の重さが変わる。
「何に使うんだい」
問いは短い。だが、軽い問いじゃない。
ルシアはすぐに答えなかった。
上手いことを言えば通る、という話ではない。
ここでは、資材の扱い一つで段取りが変わる。
口元はきつく結ばない。けれど緩めもしない。
声の角だけを落として、順番を選ぶ。
「イルゼが自信を取り戻せたら、とは言いません」
言い切ってから、続けた。
願いを大きくすると、約束みたいに聞こえるから。
「でも、少しでも前を向けるように」
ルシアは一拍置く。
“救う”なんて言葉は大きすぎる。約束にしてしまえば、イルゼの肩にまた何かを載せる。
「北を見る回数が減るようなことを、できたらと思っています」
マルガレーテは目を細めた。
叱る目ではない。測る目でもない。確かめる目だ。
そして短く頷いた。
「取り計らおう」
ルシアが目を丸くする。
すんなり通るとは思っていなかった。
「いいんですか?」
「今日のイルゼの顔を見た」
マルガレーテは言う。
言葉が少しだけ柔らかくなる。
「あの誇らしげな顔……」
声がほんの少し温度を持つ。
それは、見守る側のほころびだ。
「恥ずかしいのに、隠しきれない顔だった。私は初めて見た」
ルシアは息を止める。
見た。確かに見た。あれがイルゼだけでなく、この場所の“救い”にもなる顔だと。自分だけが思っているわけではなかった。
“救い”という言葉は強い。
でも、あの顔はそれに近かった。心の固さが、一瞬だけゆるんだ証拠だ。
「イルゼはもっと、子どもらしくあっていい」
マルガレーテは続ける。
言い切る声ではない。願いを含んだ声だ。
「けれど過去が、今が、なかなかそうさせない」
廊下の板が鳴る。
夜の静けさが、言葉の間に入る。
「あんたは、あの子にあの顔を出させた」
マルガレーテがちらりと笑う。
笑いは大きくない。けれど、確かだ。
「次は、もっといい顔を見せてくれるんだろう」
ルシアは笑って頷いた。
「子どもに何が刺さるか分かりませんが、全力を尽くします」
それでも、目は逸らさない。
逸らしたら、言葉の責任が逃げる気がした。
マルガレーテは満足そうに頷き、先に歩き出した。
「もう寝な。明日は雨だ」
ルシアはその背に、小さく頭を下げた。
外の風が、廊下の隙間を撫でる。
雨の前の匂いが、また濃くなった。




