第41話 一歩だけ
広間の火は小さい。
だからこそ、人の動きが自然に区切られていた。
火のそばは湯と椀の場所。戸口のあたりは、汚れを外へ返す場所だ。
大人はそれぞれの持ち場へ散り、湯を足し、椀を拭き、戸口で外套を軽く叩く。
乾いた泥が布の上にぱらぱら落ちた。床には落とさない。
子どもたちの遊びは、火から離れた場所で続いていた。
柳の輪が当たるたび、声になりかけた歓声が喉の奥で止まる。
子どもたちは自分の口を押さえて、肩だけで笑った。
投げ終えた輪は、拾う手がすぐ伸びる。走らない。奪わない。
次の子へ渡すときは、囁くみたいな声で「はい」と言う。
その遊びの輪の外れ。
木箱に腰を下ろしたルシアが、窓の方を見たまま言う。
「星でも見えるん?」
イルゼの肩が、ほんの少しだけ固くなった
「いえ……」
否定は短い。けれど、それで終わらない。
イルゼは視線を落として、言葉を続けた。
「……さっきの、ありがとうございます」
礼を言うのが癖になっている声だった。
助けてもらったから礼を言う、というより、“礼を言うべき立場”が染みついている。
ルシアはすぐに返さなかった。
笑い飛ばすでも、否定で押し返すでもない。
一度息を落として、イルゼの顔を正面から受け止める。
目元だけをやわらげる。
「大丈夫」と言う代わりに、そう見える顔を作ってから、声を出した。
「イルゼにお礼言われること、なんもしとらんよ」
イルゼが目を見開く。
その顔を見て、ルシアは分かった。
この子は、何かを回していないと自分の居場所が消えると思っている。
回せなかったら、責められる気がする。
これまで、誰かに責められていなくとも。
「……そう、ですか」
「うん」
ルシアはまた、窓の外へ目を向けた。夜は暗い。北も西も、色はもう同じだ。
「イルゼは、何歳?」
「十二です」
答えは早い。
年齢を言うのに迷いがないのが、逆に怖かった。
「もう十二、なんです」
その“もう”が、胸の奥に落ちる。
「この修道院では十四歳までしか居られないって、マルガレーテさまが言ってたので」
イルゼは言いながら、視線を落とした。
未来を見ようとして、足元しか見えなくなる目だった。
「……そろそろ、中庭に蕪を植えるんです」
ぽつり、と言う。
「私、それまで、ここに居るんですかね」
“蕪”は口実で、本当は別のことを訊いている。
迎えが来るか。来ないか。
言葉にすると壊れそうで、野菜の話にしている。
ルシアは言葉を探した。
嘘を言えば、あとで余計に苦しくなる。
「それは、私には分からん」
イルゼの顔が一瞬だけ曇る。
でも、ルシアはそこから逃げずに続けた。
「分からんけど」
言葉を柔らかく置き直す。
「今夜、イルゼが一人で全部抱える必要はないとは思ってる」
イルゼの喉が、小さく鳴った。返事の前の飲み込みだ。
反射的に「でも」と言いかけて、やめる。
その癖を、ルシアは見逃さない。
「……混ざりたい?」
ルシアが子どもたちの輪へ視線を送る。
片手に持っていた柳の輪を、膝の上で小さく揺らした。
「一回だけ投げてみる? 外れても、誰も笑わんよ」
イルゼはすぐに首を振りそうになった。
けれど視線だけが、ルシアの膝の上で揺れる柳の輪へ落ちた。
迷う時間が長い。
長いのに、最後に小さく頷いた。
ルシアは立ち上がって、子どもたちの輪の端へ戻る。
子どもたちが「イルゼお姉ちゃん!」と声を上げかけて、すぐ口を押さえる。今夜の約束を覚えている。
ルシアは輪をイルゼに渡した。
「こっからでやってみて。的は、あの椀ね」
イルゼは輪を持つ手がぎこちない。
投げ方を知らないというより、“失敗してはいけない手”になっている。
ルシアは肩を叩いたりしない。
ただ、隣に立って、同じ呼吸で待つ。
イルゼが投げる。
輪が空気を切って、椀の縁に当たり、すとん、と中へ落ちた。
子どもたちの目が丸くなる。
歓声が出かけて、また口が押さえられる。声にならない喜びが、肩と目だけで跳ねた。
イルゼの口元が、ほんの少しだけ上がった。
笑う、までは行かない。でも、誇らしさが一瞬だけ頬に灯る。
それを見られたくないみたいに、イルゼはすぐ視線を落とした。
輪を返す。指先が名残惜しそうに離れる。
それからイルゼは、遊びの輪の外へ戻った。
輪の中に居続ける勇気は、まだない。
けれど、背中の力はさっきより抜けている。
一歩離れた途端、視線が北へ吸い寄せられる。
止められない癖だった。
それでも今夜は、遊びの輪の外に戻る足取りが、少しだけ柔らかかった。
遊びはそのまま続いた。
順番が回り、輪が飛び、外れて笑いが揺れる。
火は増えない。声も増えない。
けれど、広間の空気だけが少しほどけた。




