第40話 借りた役目
夕食が終わると、広間は一斉に片付けの時間へ移った。
椀が寄せられ、木の匙が重なり、幼い子は小さな両手で器を抱えて洗い場へ運ぶ。
運ぶ途中で落とさないように、歩幅まで小さくなる。
洗い場の手前で、修道女たちが受け取っていく。受け取る手つきが慣れている。
ここでは食事も片付けも、毎日同じ順番で回されているのだと分かる。
食事の次は口をすすぐ時間。
子どもたちは桶の前に並び、順に水を含んでは吐き、布や小さな枝で歯を擦る。やり方が身体に染みついている。
「イルゼお姉ちゃん、きれいになったかな?」
幼い子が、口を大きく開けて見せる。
「うん、きれいだよ」
イルゼはその子と同じ高さまで膝を折り、目を細めて褒めた。
褒められた子は、嬉しそうにふっと笑った。
その笑いが消えきらないうちに、別の声がぶつかった。
「リーナ! 手を離して! ぼくこっちの布使いたい!」
「これは私のなの!」
歯を擦る布の取り合いだった。
布を握る小さな指先に力が入り、リーナと呼ばれる少女の目にはもう涙が溜まっている。
イルゼが、目だけを忙しく動かした。叱るべきか、譲らせるべきか。
判断の前に、責任が先に肩へ乗っている顔だった。
その少し離れた場所で、修道女長のマルガレーテが見ていた。
手は止めない。
止めないのは怠けているからじゃない。
ここでは、子ども同士の小さな揉め事も、誰かが学ぶための順番に入っている。
マルガレーテの目は、裁く目ではない。ただ、行く末を待つ目だった。
けれどイルゼは、待てる顔をしていなかった。
迷いがそのまま怯えに変わりそうで、ルシアの胸が先に詰まる。
放っておけず、ルシアは膝を折った。
「私、今日来たばっかりで知らんのやけど」
ルシアは布を取り合う二人の横にしゃがみ、先に空気を軽くするように言った。
「この布って、誰の、とか決まっとるん?」
「決まってるよ。これは、私のなの」
布を握るリーナが言い切る。
今にも涙が落ちそうだった。
「でも僕は今日これ使いたいんだもん」
少年は譲らない。理由は薄い。
でも、本人にとっては“今”が全部だ。
「そっか。今日はそれがいいんやね」
ルシアは少年の目を一度だけ見て、言葉を短く畳んだ。
「でもこれは、リーナの。嫌がられたら、引っ張らん」
少年が唇を噛む。理屈で動ける年じゃない。
分かっている顔をされるだけで、意地が残る。
ルシアは長く言わなかった。
代わりに、話を“次”へずらす。
「ねぇ、ご飯の前に約束したの覚えとる?」
子どもたちが顔を上げる。
「輪投げ。ご飯も終わったし、歯磨き終わった子から遊ぼ」
“遊ぶ”の一言で、目の色が変わる。
子どもは競い方を知っている。競い方を渡せば、刃じゃなく遊びになる。
「さ、磨こ磨こ」
取り合いの熱が、桶の水音に引き戻される。
次にやるべき手順が、音で先に始まってしまった。
桶の前に並び直す足が、さっきより軽かった。
「ねぇきれいになった?」
「私のも見て!」
口が次々に差し出される。ルシアはひとつひとつ、ちゃんと見る。
「うん、ちゃんと磨けとるよ」
合格の声が落ちるたび、背中がぴん、と伸びた。
「じゃあ、遊ぼっか。夜やから、声小さめで」
ルシアはポケットから柳の輪を出した。
それだけで、子どもたちの視線が一斉に集まる。
輪を投げる場所、的にする椀の置き方、窓や人に向けないこと。そして、声は小さく。
“遊ぶ前の約束”を短く渡してから、ルシアは一度だけ椀に向かって投げてみせた。
輪がすとん、と落ちる。
「すごいっ」
「次っ……」
声が上がりかけて、子どもたちは慌てて口を押さえる。
さっきの“声は小さく”が、ちゃんと残っていた。
広間の奥で、院長が一度だけこちらを見た。
火の近くで走らない。
声を上げすぎない。
それが守られているのを確かめると、院長は何も言わず視線を戻した。
ルシアは、その“許された感じ”に気づいて、肩の力を少しだけ抜く。
遊びの顔をした段取りは、ここでも通る。
子どもたちは柳の輪を投げ、外れ、当たり、悔しがって笑う。
遊びの輪の少し外で、イルゼは立ったまま見ていた。
混ざらない。けれど、背を向けてもいない。
近づきたいのに、見守りの役目が先に身体を止める。そんな立ち方だった。
ルシアは遊びを回しながら、その立ち方を見ていた。
見ているだけで、すぐには触れない。
今ここで声をかければ、イルゼの中の“線”が固くなる気がした。
そして、その線が固くなるほど、この子はまた“ちゃんと”を選ぶ。
イルゼの視線だけが、少しずつ窓へ寄る。北の方角へ。
祈りの言葉より先に、帰り道の方角を確かめるみたいな目だった。
ルシアは気づく。
気づいても、急いで拾わない。
拾えば、また背筋が伸びる。笑いが引っ込む。
子どもたちの輪投げがひと回りし、笑いがいったん落ち着いた。
椀に当たる軽い音が途切れ、子どもたちの息がそろう。
——今なら、邪魔にならない。
ルシアは柳の輪を片手に持ったまま、遊びの輪から少しだけ離れた。
イルゼのすぐ隣には行かない。
半歩ずれた位置で足を止める。逃げ道を残す距離だ。
同じ方向を見てから、イルゼの近くの木箱に腰を下ろした。
柳の輪は膝の上で、ほんの小さく揺れる。音は立てない。
「星でも見えるん?」
声は軽い。けれど、狙いはそこじゃない。
答えやすい入口だけを置いて、イルゼの顔のほうを待った。




