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第39話 西の兆し

 院長の言葉が落ちたあと、広間の空気はすぐには戻らなかった。

 “夜に門を開けるな”。その一節だけが、火の上の湯気みたいに薄く漂っている。


 けれど修道院では、沈黙さえも長くは居座れない。

 誰かが息を整え、誰かが椀を寄せ、手順が次の段取りへ場を押し流す。


「もうじき軽食ができる。部屋へ案内する。荷を置いてくるといい」


 院長の言葉に、一人の若い修道士と、年長の修道女が進み出た。

 修道士のほうが一歩早い。場の段取りを先に動かす足だった。


「ロルフ様のお部屋は本館二階です。こちらへ」


「よろしく頼む」


 ロルフは修道士に連れられ、静かに姿を消した。


「別館の修道女棟へ。私が案内します」


「お願いします」


 修道女に続いてルシアが歩き出すと、数人の子どもが距離を詰めすぎないまま後ろへついてきた。

 上は六歳ほど。下はようやく歩き慣れてきたくらい。足音の重さがばらばらで、だからこそ数の気配が分かる。


 その中に、年長の子はいない。その子は広間の隅で、祈りの文句が書かれた紙片を膝に押さえていた。

 文字は薄い。けれど、その目は慣れていた。


 本館を出ると、冷たい風が頬を撫でた。昼間は温かく見えても、日が沈み始めればまだ寒い。


 修道女棟へ渡る渡り廊下は、両脇だけ石壁で囲われ、真ん中の一節だけ壁が途切れて外に開いている。屋根は木で、板の影が細く落ちていた。


 その切れ目を抜ける風が、遠慮なく襟元へ潜り込む。

 ルシアは外套の前を指で寄せた。


「もうご飯の時間よ。広間へ戻りなさい」


 ついてきていた子どもたちに案内の修道女が手を払う。言葉のわりに声が優しい。叱るためではなく、戻すための声だ。


「どこ行くか気になって」

「お姉さんだれ?」


 子どもたちは修道女の背に隠れるように集まり、そこから顔だけ出して質問を投げてくる。

 逃げない。けれど踏み込まない。近づき方を、ここで覚えた目だ。


 ルシアは膝を折り、子どもと同じ高さに視線を落とした。

 大人に向ける声より、少しだけ丸くする。子どもにだけ許す崩れ方だ。


「ルシアよ。よろしくね」


 それだけで、手は伸ばさない。

 子どもが一歩出られる分だけ、間を残す。


「私、いい物持っとるんよ」


 言いながら、ポケットを叩く。

 子どもたちの目が一斉に光った。背中が、じり、と前に出る。


「何だと思う?」


 ルシアがにやりと笑う。子どもたちが我先に声を上げた。


「おもちゃ!」

「お菓子!」


 答えが飛ぶたび、子どもたちの肩が少しずつ上がっていく。

 期待の熱が、冷えた渡り廊下にぽんっと灯る。


 ルシアはわざと黙って、指先でポケットの中を探るふりをした。

 焦らす間が、いちばん子どもを寄せる。


「正解は、輪っかでした」


 ルシアは柳で編んだ輪を二つ、三つ取り出した。


 子どもたちは一瞬きょとんとする。


 だが、ルシアの視線が先に廊下の柱の足元を向いたのを見て、首の角度が揃う。


「ほら、あそこに置いてある桶」


 一つの柳の輪を軽く投げる。

 柳の輪は弧を描いて、ひっくり返して乾かしていた桶の取っ手に、ふわりとかかった。

 いったん揺れて、それから静かに止まる。


「すごーい!」

「私もやってみたい!」


 声が跳ねる。

 手が伸びかけて、でも一歩は出ない。ここは広間じゃない、と分かっている足だ。


「じゃあまず夜ご飯ね。私も後で行くから、先に広間行っといで」


「はーい!」


 子どもたちは引いていった。足音が本館の石壁の内側で軽く反響し始める。


 子どもたちとルシアの輪を、修道女は少し離れて眺めていた。


「若い割に、子どもの扱いを知ってるじゃないか」


 本館へ戻る小さな背中たちが扉の向こうへ消え、戸が静かに閉まる。


 そこでようやく、息をひとつ吐いた。

 その拍子に、口調がふっと戻る。改まった声ではなく、日々の調子で。


「たまたまですよ。どの遊びが刺さるかは、分からないので」


 ルシアが困ったように笑うと、修道女も、そりゃそうだ、と笑った。


「自己紹介がまだだったね。修道女長のマルガレーテだよ。院長に用があるなら、まず私に言いな」


「私はルシアです。よろしくお願いします、マルガレーテさん」


 マルガレーテはルシアに部屋を案内し、別館の決まりごとを短く伝え、歩く速度だけで“ここではこのくらい”を教えた。

 ルシアはそれに合わせる。言葉も足音も、少しだけ整えて。


 別館を出ると、渡り廊下は石と木が、日暮れの冷えを溜め込んでいた。


 ルシアの少し前を、マルガレーテが歩く。足取りは落ち着いている。

 その背を追いながら、ルシアはふと、渡り廊下の端に立つ影に気づいた。


 少女がひとり、立ち止まって空を見上げていた。

 広間の隅で紙片を押さえていた、あの年長の子だ。

 寒さに身を縮める余裕さえ惜しいほど、目だけが空に吸われている。


 視線の先は、北だった。


「……何見よん?」


 ルシアが声をかけると、少女は肩を小さく揺らして振り向いた。

 年の頃は十を過ぎたくらい。目だけが妙に落ち着いていて、目の下にはそばかすがある。


「お父さんたちが、こっちに——」


 言いかけた言葉が、途中で止まる。

 少女の視線が、ふっと滑った。


 マルガレーテが、歩みを止めて振り返っていた。

 叱る顔ではない。けれど、“線”だけははっきり引く目だった。


 少女は一瞬で飲み込み、顔の向きを変える。

 北じゃない。西だ。


 ルシアが同じ方角を見ると、沈む光の奥に、雲が溜まっていた。

 薄い灰色が、層になって重なっている。


「……西の空が重いと、明日は雨なんです。マルガレーテさまが教えてくれました」


 言い直した声は平らだ。上手すぎるくらいに。

 ルシアは笑いかけかけて、やめた。


「よう知っとるね」


「……当たりますよ。たいてい」


 少女は短く答えて、また空を見上げた。今度はちゃんと、西だけを見ている。

 けれど首の角度だけが、まだ北の方へ戻りたがっていた。


 渡り廊下の石床で、マルガレーテの靴底が、ぎゅ、と鳴った。

 その足が、その場でほんの少しだけ緩んだ。


「空は嘘をつかないよ。雨の前は、風が先に匂いを運ぶ。だから今夜は、洗い物は中で干すのさ」


 まるで話題を手早く畳むように、マルガレーテは言った。

 少女は小さく頷く。頷き方まで、“聞き分ける子”のそれだった。


「……もう、皆座り始めているので。戻ります」


 それだけ言って、少女は本館の内側へ身を滑らせた。

 中の灯りに呑まれる直前、空を見上げる癖だけがまだ残っていた。


 少女の背が扉の向こうへ消える。蝶番が小さく鳴り、戸がきちんと閉まった。


「あの子は、イルゼというの」


 余韻が石壁に馴染んだころ、マルガレーテが言う。声は穏やかだ。けれど、余計なところまで踏み込まない。


「ここにいる子たちの事情は様々。迎えが来る子もいる。来ない子もいる。だからここでは、同じように接しているのさ」


 イルゼがどちらに当てはまるかは、言わなかった。

 言わないことそのものが、この塀の中のやり方だ。


 ルシアは返事を飲み込み、ただ頷いた。

 喉の奥に、さっきの「お父さんたち」が残っている。消えないまま、冷えていく。


 広間へ戻ると、長テーブルにはもう人が集まりはじめていた。

 調理の火は一つ。湯気は薄い。けれど、場の温もりは消えていない。


 椀が並び、匙が置かれ、声が小さく行き交う。

 夜が来る前に、できることを済ませるための音だった。


 ルシアは椀の匂いの中で、ふともう一度だけ西の空を思い出した。


 重い雲は、きっと雨を連れてくる。

 そして雨は、足を止める。


 止まった先で何が起きるのかは、誰にも分からない。

 分からないからこそ、今は言葉にしないままにした。

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