第38話 北の気配
日が傾きはじめた頃、街道の先に低い石壁の線が見えた。修道院だ。
門の見張りがこちらに気づき、一度内側へ引っ込んだ。
修道院に近づくにつれ、全貌がほどけていく。
建物の周りは石壁でぐるりと囲われている。だが、ところどころ崩れ、木材で丁寧に添え木がされていた。
直したいのに直しきれないというより、直し続けている跡だ。
門前に着くと、さきほどの見張りが一人の男を連れて現れた。
男は黒髪を短く撫でつけ、黒髭にこめかみの白が混じっていた。修道衣は擦れている。袖口の布は薄く、色も褪せている。
だが、背筋だけは崩れていない。ここで暮らしを整える役が来た、と立ち方で分かる。
男の視線がまずロルフを測り、次にルシアへ移った。
歓迎より先に、規律に触れる人数かどうかを見極めている目だった。
「お初目かかります。境界巡察騎士団第一部隊所属、ロルフ・フォン・ディールークルムと申します。任務中につき、一晩、宿をお借りしたく参りました」
男は短く頷いた。
「この修道院の院長、アンセルムだ。泊めるのは構わない。だが、条件がある」
言い方が硬いのではない。余計な甘さを削っているだけだった。
「火は広間に一つだけ。門は夜閉める、歩く者は出さない」
“火”は煮炊きの火を指していた。
持ち歩きの灯りは足元だけ。部屋では消す。それだけの話だ。
院長は、ルシアを見た。
「……連れか?」
「旅の者、ルシアです。一晩お世話になってもよろしいでしょうか」
ロルフが、言葉を省いて答える。
「訳あって同行しています」
院長は一拍だけ黙り、頷いた。
「構わん。だが二人の寝床は分ける。ここは規律で保っている場所だからな。馬は裏の小屋を使うといい」
「感謝いたします」
ロルフはウェールスの手綱を引き、修道院裏へ回った。
小屋の中には山羊、羊、馬が数頭。息と藁の匂いが混じり、湿り気を帯びている。
空いている場所にウェールスを繋ぎ、藁をひとつかみ、餌箱に入れた。
「今日はゆっくり休め」
「ウェールス、またね」
ルシアはウェールスの首を撫でた。ウェールスは気持ちよさそうに目を細める。
撫でる手を離すのが惜しくて、指先だけが少し遅れた。
小屋を出ると、裏庭が見えた。広くはない。
踏み固められた土の脇に小さな畑があり、枯れた蔓を巻いた支柱が倒れないように紐で留められていた。
桶が壁際に寄せられ、木箱が積まれている。
どれも乱雑ではない。必要なものが、必要な場所に寄せられている。
修道院の建物へ入ると、空気が少しだけ変わった。
外の冷えは残っているのに、石壁の内側は風が弱い。湿った土と薪の焦げた匂い。そして、干し草のぬくもりの匂いが混じっている。
廊下の奥で、小さな足音が止まった。覗いている気配がある。
柱の陰から子どもが半分だけ顔を出していた。
逃げるでもなく、寄ってくるでもない。ただ、来客というものを確かめている目だ。
その後ろで別の子が袖を引き、囁き声が落ちる。
「騎士さま?」
声は弾まない。けれど、怯えた色でもない。
ロルフが足を止め、子どもに短く頭を下げた。
「邪魔をする。今夜、宿を借りることになった」
子どもたちは返事の代わりに、奥へすっと引いた。
慣れている、というより、ここではそうする決まりなのだと分かる動きだった。
「……怖がらせたの?」
ルシアが小声で言う。
「……挨拶をしただけだ」
ロルフの声は淡い。淡いまま、余計な音を切る。黙っていろ、がそのまま乗っていた。
ほどなくして、廊下の奥から靴音がひとつ、落ち着いて近づいてきた。
現れたのは院長だった。子どもたちはその背の後ろに半分隠れて、こちらを窺っている。
院長はロルフを一度見上げ、短く頷く。
「こっちだ」
言い置いて踵を返す。
足音が迷いなく廊下の奥へ伸びた。
ロルフがそれに続き、ルシアも半歩遅れて歩き出す。
院長は振り返らないまま、歩幅を崩さずに言う。広間へ入る前に、守るべき線だけを先に渡すように。
「広間の火は小さいが湯は沸かせる。今は斎の時期だ。まともな食事は昼に一度。夜は軽食になる」
ルシアは、その言い方に少しだけ息を吐いた。豪奢な歓迎じゃない。けれど、拒まない声だった。
「助かります」
言い終えて、ルシアは自分の声が少しだけよそ行きになっているのに気づく。
ロルフは何も言わない。けれど視線だけで、今のままでいい、と返した。
広間へ続く扉の前で、院長が足を止める。
取っつく暇もない口調のまま、先に確かめることだけを置いた。
「だが、斎の時期であろうと身重の者は別だ。ルシア。身籠っているか」
「いえ、身籠っておりません。お気遣いありがとうございます」
院長は短く頷いた。
返事を待ってから、ようやく扉に手をかける。
順番を守るその動きに、ルシアは院長なりの気遣いを感じた。
広間に入ると、空気が少しだけ変わった。
火は一つ。湯気が薄く漂い、木椀の匂いと、外套の匂いが混じっている。
手を動かしていた者たちが、一斉に視線だけこちらへ寄こす。
数えるほどの瞬きのあと、誰も何も言わず、また手元へ戻った。
来客に騒がない。それが、この塀の内側のやり方らしい。
「なにか、質問はあるか」
院長の、ぶっきらぼうだが、突き放してはいない。規律として言っているだけの声。
その声に、ロルフが一つだけ尋ねた。
「我々は明日、北へ立つ予定です。北の現状をご存じなら、教えていただきたい」
広間の手が、また止まった。
こちらに耳を立てながら仕事をしていた修道士と修道女たちが、布も器も、そのままにする。
院長が咳払いをひとつした。合図のような小さな音。
止まっていた手は、何事もなかったかのように再び動き出した。だが、空気は戻りきらない。
「……つい最近だ。ここから北で、夜に魔の物が出たという報告が上がっている。南はめっぽう聞かないのに、だ」
「夜ですか」
「夜だ。だから夜は門を閉める」
火がぱち、と鳴った。
その音だけで、言葉の続きを待つ空気が引き締まる。院長の顔は動かない。
「何があっても、夜に門を開けてくれるなよ。戸口に立っても返事をしない。声はまねられる」
ロルフの眉間に皺が刻まれた。
「……承知しました」
院長は少しだけ声を落とす。
「任務か?」
「はい」
「止めたいが、その権限は私にはない」
言いながら、院長は視線を逸らさない。
引き留めないのは無関心だからではない。
この塀の中で守れるものと、外で起きることの境目を、分かった上で置く言葉だった。
「動くなら陽が出てからだ。空が橙色になる前に次の村に着くように。そして、街道を外れない」
助言ではなく、段取りの形で渡される。
生き延びるための手順だけを、余計な情を混ぜずに。
「ありがとうございます」
ロルフが一礼し、ルシアも倣って頭を下げた。
「幸い、この修道院の近くではまだ出ていない」
院長は言い切って、そこで終わらせた。付け足さない。
“まだ”。
その一語が、扉の閂みたいに重かった。




