第37話 落ち着いた蹄
遠くなる村の朝靄の中で、戸口に吊られた輪がほどけるように小さくなる。
あれだけ揉めて、あれだけ笑って、それでも朝の光だけは変わらない。
ルシアの手の中には、ハインツから渡された小袋が握られていた。
口を縛る紐が指に食い込み、布越しに硬い粒の感触がある。
ロルフとルシアとウェールスは、朝露で濡れた地面を踏んでいく。
踏むたび靴底が湿り、土の匂いが細く立つ。ウェールスの蹄が落ち葉を押し、湿った土が小さく鳴った。
草は冷たく、足首の辺りに春前の水気がまとわりついた。
「街道を歩けば夕方には修道院に着く。今夜はそこに泊まる」
「わかった。……ねぇ」
返事は短く返したのに、ルシアの口は止まらなかった。
朝の道の空気に背中を押されて、呼吸も言葉も少し先へ出た。
呼びかけてから、ルシアはひとつ思い出す。
“言葉を整える”と、自分で決めたことを。
「修道院では……いや、人の目があるときは、言葉、ちゃんとするわ」
さっきまでいた村では、今のままでも通った。
喋り方を子どもに笑われはしても、受け入れられた。だから甘えていたのだ。
けれど、次の場所も同じとは限らない。
なら今のうちだ。
直すなら、歩いている今が一番いい。
ロルフは前だけ見て、切るように言った。
「なら、敬語にしろ」
言い方は冷たいが、突き放すためじゃない。
あくまで、“次の場所で増える面倒”を減らすための指示だった。
「礼儀のためだけではない。火種を増やさないためだ」
歩幅を崩さないまま、声だけ落とす。
「お前は目立つ。目立てば、詮索される」
ルシアはすぐに返せなかった。
言葉が胸の奥で一度引っかかり、噛み砕くのに時間が要った。
「……私って目立つ?」
言った瞬間、舌先がひゅっと冷えた。
今は誰もいない。だから言葉が先に滑る。そういう癖だ。
「……失礼。目立ちますか、私」
ルシアは自分で言い直す。
崩れたのを誤魔化さない。直したいと思ったなら、その場で直す。
ロルフが一度だけ振り向いた。ため息が白い息に混じって消える。
「今さら気づくな。村の者ではない人間が、村の子どもと遊び回ってたら目立つ」
「そら……そうか」
ルシアは頷き、言い直す。
「……確かに。盲点でした」
ロルフは視線を前へ戻したまま続ける。
「完璧じゃなくていい。崩れても、戻せばいい」
「はい、分かりました」
言ってから、ルシアは自分の口を一拍遅れて見直した。
丁寧に落ちた声が、少しだけ自分のものじゃない。
「……ふふっ。今の、よそ行きやったな」
小さく笑う。笑ってしまったのは、誤魔化しでもある。
口調を整える、と決めた途端に言葉が変わる。変わったことに、すぐ気づける。
「それにしても、あんた相手に敬語はどうも慣れんな。言葉選ぶ分、間ができる」
言いながら、ルシアは自分で納得してしまう。
この男相手に必要なのは“丁寧さ”じゃない。“速さ”と“誤解のなさ”だ。迷えば、置いていかれる。
「他の人がおるときは敬語。あんたと二人のときは、いつものままにするわ」
例外を作るのは甘えじゃない。
今さら距離を変えれば、かえって挙動が不自然になる。その分、詮索の種も増える。
だからここは、変えない。ロルフには、今のまま。
それがいちばん、面倒を増やさない。
「……切り替えられるのか」
「切り替える。やらな、生き残れん」
言い切ってから、少しだけ声の角を落とす。
「あんたの前まで“よそ行き”やと、しんどいわ」
ロルフは返事をしない。
その代わり、歩幅がほんの少しだけ揃った。意識して合わせた、というより、認めた合図みたいに。
「……野宿したくなければ歩け」
「はいはい」
返事しながら、ルシアは自分の足元を見る。
「まぁこっち来た時より、だいぶ身体も馴染んできたし」
確かに、最初の頃みたいに地面の冷たさが“刺さる”感じがない。
寒さが、ただの寒さになってきている。
「あの時は寝てしまったけど、もう大丈夫」
自慢げに言ってから、ルシアはちらっとロルフを見る。
ロルフの眉間に皺が寄せられていた。それが答えだった。
言い足せば、言葉が余計な形で残る。
ルシアは口を閉じた。代わりに視線だけを動かした。
靄が薄まっていく。
太陽が少し高くなり、雪解けの道に淡い光が落ちた。土の黒が、朝露で小さく光る。水面みたいに揺れて見えるのに、触ればただの泥だ。
初めの村へ向かう時は、身体が馴染まず、景色を受け取る余裕がなかった。
今は違う。胸が苦しくない。足が遅れない。息を吸えば、冷たさの中に草の青さが混じる。
「……綺麗な世界やな」
思わず漏れた声は、独り言に近い。
ロルフは横目だけでルシアを見る。
見ているのは顔ではない。足取りと、呼吸と、周囲への注意の向きだ。
——そのはずなのに。
ルシアの目が、少し細くなっている。
景色に溶けるみたいな目。気を抜いた目だ。
その顔が出るのが早い、とロルフは思う。
「気を緩めるな」
「分かっとるって。でも、混沌って言われた割に、今ここだけは、平和やわ」
言ってから、ルシアは自分で少し首を傾げた。
“ここだけ”という言い方が、もう答えを含んでいる。
ロルフの視線が道の脇へ流れる。
草の倒れ方、獣道の切れ目、泥の上に残った薄い足跡。人のものか、獣のものか、あるいは風で崩れただけか。判断は口にしない。
「……ウェールス、落ち着いとるね」
ルシアはウェールスの様子に気づく。
蹄の運びが、やけに落ち着いている。
耳も、余計に立たない。鼻先も揺れない。
ロルフは視線を前に残したまま答えた。
「人が騒いでも、馬は空気で分かる。危ない時は落ち着かなくなる」
「じゃあ今は安全ってことね」
「……“今は”な」
わざと、言い直した声だった。
「やな言い方やな」
「仕事だから言う」
ルシアは口を尖らせる。
その顔のまま、歩き続ける。
ウェールスが鼻を鳴らし、前脚で地面を軽く蹴った。
湿った土が小さく跳ね、蹄の縁に泥が付く。生き物の温度が、靄の中で妙に頼もしい。
歩き進めるにつれ、靄はどんどん晴れていく。
今朝までいた村の煙は、もう完全に見えなくなった。
代わりに、街道だけが続いている。踏み固められた土と、車輪の溝と、朝露。
ロルフは歩幅を崩さず前を行く。
ウェールスの蹄の音が、等間隔に地面を叩いた。
修道院にはまだ、着かない。
今日という一日が、ここから始まるのだと分かる道だった。




