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第36話 門の朝

 夜明け前の静かな村。

 子どもたちの笑い声が、今はない。


 代わりに暮らしの音だけがする。

 戸の軋み。薪の割れる乾いた音。鍬を洗う水のはね。

 そして、まだ冷たい空気を裂くように、鳥の声が高く落ちてくる。


 チフチャフだ。

 春先、早い時期に“戻ってきた”と分かる鳴き方をする。


 ルシアは外套の金具を留めた。

 春は近い。けれど、朝はまだ骨に触る。

 指先に、昨夜の涙の塩が残っている気がした。


 目元が少し腫れている。

 泣き腫らしたのだと、鏡を見なくても分かった。


「行くぞ」


 ロルフの声は短い。

 飾りがない、出発の声だ。


「うん」


 ルシアも短く返した。

 長く言えば、何かが崩れる朝だった。


 司祭館の裏手で、ウェールスが待っている。

 ルシアはその首をひと撫でした。馬は何も聞かない。

 聞かないまま、鼻先を小さく鳴らすだけだ。


 ロルフが手綱を取り、歩き出す。

 ルシアはその半歩うしろにつく。


 来た時は、雪で白かった。今はもう白がない。

 踏まれる場所だけ先に溶け、残りも追いついた村だ。


 村の北の出入り口に、人影が二つあった。

 司祭と、それから、もう一人。


 灯りのない朝でも分かる。

 背を丸める癖がある。目の下に、影が残っている。


「……ハインツ。おはよう。朝早いね」


 ルシアは、いつも通りの調子で言った。

 “何事もない顔”を作るのが、今の自分の仕事みたいだった。


 ハインツは一拍遅れて頷き、視線を逸らす。


「ルシアさん。こちらを」


 司祭が、その間に一歩入った。

 手には、小さな布袋がある。口が紐で縛られている。


 ルシアは袋を受け取る前に、司祭ではなくハインツを見た。

 ハインツは、見ない。


「……気を遣う相手、間違えてるんやない?」


 軽口にした。

 軽口にしないと、声が震えるからだ。


 ハインツの喉が小さく鳴る。

 言い返す言葉が、形にならない顔だった。


 司祭が、困ったように笑った。優しい笑い方だ。


「これは、ハインツさんが、先日の件のけじめとして“村へ”と託してくれたものです。……ただ、旅に出る者の手に渡るのが一番困りませんから」


 袋の口を少し開けて見せる。

 中には、短い革紐と、蜜蝋で固めた糸、針が数本。小さな布切れも入っている。

 派手さはない。けれど、必要なものだ。


 ルシアは息を吐いた。


「ほんと、難儀やわ」


 袋を握り直し、司祭へ頭を下げる。


「ありがとうございます。大事に使います」


 ハインツはそこでようやく小さく頷いた。

 頷き方が不器用だ。


 ルシアは、その不器用さを見逃さない。


「悩みがあったら、迷わず誰かに相談せんと。……また爆発してまうからな」


 冗談の調子のまま言った。

 けれど目だけは、笑っていない。


 ハインツが首の後ろを掻いた。

 ふてくされたふりをする。


「分ぁってるよ」


 言葉は乱暴なのに、声は弱い。

 あの日の怒りの残骸だけが、まだ彼の肩に引っかかっている。


 司祭が、そこで視線を伏せた。

 一度息を整える間があった。

 あの、“読む前の硬い間”だ。


「ルシアさん。ルークスの神書に、こうあります」


 司祭はそう言って、言葉を“置いた”。


「すべてを愛せ、と」


 それは説教じゃなかった。

 祈りでもない。

 “ここまでの時間”に、静かに判を押すみたいな声だった。


「私は、それを口にする資格がないと思っていました」


 司祭は顔を上げない。

 けれど逃げてもいない。


「ですが、あなたを見ていて、思ったのです。……その言葉に、近い人を」


 一拍。


「ここで、見たのだと」


 ルシアは口を開きかけて、いったん閉じた。

 司祭の過大評価を、受け取れる気がしなかった。


 だから、言える分だけを言う。


「そんな大それたもんじゃないですよ」


 そして、司祭のほうへ、ちゃんと顔を向ける。


「司祭様は充分、村を見ておられます。村人を、子どもたちを、守ってます」


 司祭の目尻が、少しだけ濡れる。

 でも零れない。零さない人だ。


 司祭は、何かを言いかけて、やめた。

 “その先”の名を、口にしなかった。

 誰もそれを望まなかった。


 ロルフが一歩前に出る。場を切る声で。


「司祭殿。大変お世話になりました。どうか、お身体をお大事に」


「はい。……あなたも」


 司祭はロルフへ、深く頷く。


 ルシアも続ける。


「司祭様、お元気で。あと、ハインツも」


「俺はついでかよ」


 ハインツはぶつぶつ言いながら、口元が少し上がっていた。

 上げ方が不器用だ。さっきの頷きと同じだ。


 ルシアは小さく笑って、袋を胸のあたりに押さえた。

 旅に出る者の“実用”が、やけに温かい。



——この村では、冬が近づくと戸口に松を束ねて吊る家がある。

 風除けでも、魔除けでもない。

 ただ、越せるようにと手を動かすだけの、古い癖だ。


 けれど今年は、束ねられず、輪にされた。

 崩れないように。ほどけないように。

 誰の命令でもなく、村が選んだ形として。


 その輪が、来冬もそこにあるのかは分からない。

 ただ、今日この朝だけは確かに、“あった”——



 ロルフが歩き出す。


「行くぞ」


 ルシアは一度だけ、振り返った。

 村の出入り口に、司祭とハインツが並んで立っている。

 二人の背中は、もう“暮らし”へ戻る向きだった。


 だからルシアも、戻す。

 自分の足を、旅へ。


「……うん」


 小さく言って、前を向いた。

 チフチャフの声が、背中のほうでまた鳴いている。


 その声だけが、春を急かさずに、ただ告げていた。


——行け、と。

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