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第35話 今日まで

 司祭館の食堂には、昼の支度の匂いが先にあった。

 湯気と、刻んだ根菜の甘さ。

 木椀が卓に並び、窓から差す淡い光が、その縁を白く照らしている。


 司祭は食卓に座って待っていた。

 背筋はいつも通りだが、目だけが少し疲れている。


 ロルフとルシアは、いつもの位置に腰を下ろした。

 椀を取る指先が、普段より慎重になる。


 昨日から、時間の減り方が違う。


 一口、二口。

 噛む音の合間に、ロルフが低い声で言った。


「……言えたのだな」


 主語はない。答えの要らない問いだった。


「うん。言った」


 それでも、答えずにはいたくなかった。

 ルシアは短く返し、椀へ目を落とした。


 言ってしまえば、もう戻らない。

 戻らないからこそ、今日は昨日より少しだけ呼吸が楽だった。


 食べ終える頃、司祭が二人を一度見て、それから目を伏せた。

 祈りに似た沈黙。だが祈りではない。


「お二人とも。……明日、ですね」


「はい」


 ルシアが口を開くより先に、ロルフが答えた。

 いつもの事務の声。


 司祭は空になった椀を、そっと手前へ寄せた。

 片づけるはずの指が、その縁で止まる。


 椀の底が卓を擦り、かすかな音を立てた。

 その音が消えると、食堂には沈黙だけが残った。


「……ロルフ殿。覚えておられますか」


 問いを受け、ロルフの視線がわずかに落ちた。


 教会の石壁の冷え。戸口の向こうで弾んでいた子どもたちの声。

 この村に来た日の空気が、食堂の湯気の奥からふっと戻ってくる。


『この村を、どう守りますか』


 ロルフは椀を脇へ寄せ、指先を止めた。

 短く息を吐く。

 言葉の前に、腹の奥の硬さを整えるみたいに。


「剣で黙らせません。村が選べる形にします」


 言い切って、視線を上げる。

 司祭の目をまっすぐ受けたまま、逃げない。


 司祭は、ほんのわずかに目を細めた。

 それは笑みというほど形にならない。だが、確かに温度が落ち着いた。


 司祭はそれ以上を求めず、今度はルシアを見た。


「あなたが来てから、子どもたちがよく笑うようになりました」


 言葉が静かすぎて、逆に逃げ道がなかった。


「それだけで、村は助かっています」


 ルシアは笑う顔を作りかけて、作れなかった。

 喉の奥で、何かが引っかかったままになる。


「……私、ちゃんと出来てましたか」


 司祭の目が少しだけ細くなる。


「出来ていました」


 息をつく間も与えずに、司祭は続けた。


「出来ていたから、寂しいのです」


 慰めじゃない。事実として置かれた。

 だから、刺さった。


 ルシアは椀を置き、司祭の横に立った。


「大変お世話になりました」


 頭を下げると、司祭の声がすぐ上から落ちてくる。


「こちらこそですよ」


 そして、ほんの少しだけ外へ耳を澄ませるようにして言った。


「ほら。そろそろ、迎えが来ます」


 返事をする前に、外の砂利が鳴った。

 ぱたぱたと軽い足音。

 戸の向こうの気配が、先に笑っている。


 ルシアは顔を上げた。

 息を吸い直して、いつもの顔を作る。


「行ってきます」


 司祭とロルフへ向けた言葉だった。

 けれど、自分にも言っている。


「ああ」


 ロルフの返事は、いつも通り素っ気なかった。


 けれど、目元の硬さがほんの少しほどける。

 遅れて、口元もわずかに緩んだ。


 その順番に、ルシアの息が止まる。


 ずっと昔、見慣れていた照れ隠しの癖に、よく似ていた。


 胸の奥が、きゅっと縮む。


 ルシアは唇の裏を一瞬噛み、目を逸らした。

 言葉が出る前に、噛んで止めた。


 外へ出ると、子どもたちが駆けてきた。


「お姉さん!」

「さっきの遊びの続きしよー!」

「えー、私ちがうのがいい!」


 子どもたちの声が一斉にぶつかってきて、胸に沈んでいた重さを少しだけ押し上げる。

 さっきまで笑えなかったはずなのに、気づけばルシアも笑っていた。


 子どもの勢いには、どうにもかなわない。


「争わんよ。順番に、いっぱい遊ぼう」


 そう言ってしまえば、身体が勝手に動いた。

 手を取って、走って、転びそうになる子を引き上げる。


 花を探し、木の枝を拾い、今度は誰が一番遠くまで走れるかで騒いだ。

 ひとつ遊びが終わるたび、別の子が次を思いつく。


 笑い声に紛れて、ルシアはこの村にいられる期限を、何度も忘れかけた。


 気づけば、地面へ落ちる影がずいぶん長くなっていた。

 遊び疲れた子どもたちの足取りも、少しずつ遅くなる。

 空にはまだ明るさが残っているのに、吐く息には白さが戻り始めていた。


 今日は特別に、ルシアが一人ずつ家まで送った。

 家の戸が閉まる音を聞いて、また次の子の手を取る。

 そうして最後に残ったのは、クララとレナだった。


 三人の影が、夕日に引き伸ばされて並ぶ。

 並んでいるのに、もう少しで離れる形だった。


 ルシアは今日の遊びの話をした。

 楽しかったこと、面白かったこと、転びかけたこと。

 声をつないでいれば、沈む隙が減る気がした。


 最初は二人も答えた。

 けれど、家が一歩、また一歩と近づくたびに、声が落ちる。言葉が薄くなる。


 クララが輪を抱えたまま、小さく言った。


「お姉さん、明日……」


 言いかけて止まる。

 自分で言って、自分で思い出した顔だった。


 ルシアは笑って頷こうとして……頷けなかった。


「明日は、朝が早いからね」


 優しく言ったつもりだった。

 けれど、優しいだけでは足りない日だった。


 レナが顔を上げる。

 朝の赤みは少し引いている。


「遊べるのは今日までなんだよね」


 ルシアは、今度は逃げずに頷いた。


「うん。今日まで」


 その瞬間、クララの堤が切れた。

 声は出さない。

 出さないまま、涙だけが溢れる。

 肩が小さく震える。


 ルシアはすぐに手を伸ばした。

 昨日みたいに、濡れる前に拭うつもりで。


 でも、今日は追いつかなかった。


 クララの涙を拭う指が止まる前に、ルシアの頬にも落ちた。

 昨日は拭えば濡れなかった頬が、今日は濡れてしまう。


「……あ」


 声が漏れた。

 しまった、と思うより早く、レナが言った。


「泣いても、いいんだよ」


 子どもに言われる言葉じゃないのに、子どもが言う。

 ルシアは息を詰めた。


 クララが外套の端を握った。

 小さな指が震えている。


「やだよ……」


 ルシアはしゃがみ込み、二人を腕の中へ寄せた。

 力は強くしない。

 けれど、離れない距離だけは守る。


「ごめん」


 それだけ言って、言葉を足さなかった。

 足したら、もっと卑怯になる気がしたからだ。


 涙が落ちる。

 一滴で済ませるつもりが、二滴目が落ちる。

 止めないと決めたわけじゃない。


 ただ、止められなかった。


 三つ分の呼吸が絡まって、胸が痛いほど温かい。

 春の匂いはまだ薄いのに、別れだけが先に濃い。


 遠くで、司祭館の戸が閉まる音がした。

 明日の支度が始まる音だ。


 ルシアは目を閉じた。

 頬を濡らしたまま、笑おうとして——笑えなかった。

 笑える形で終わらせたかったのに、笑いは濡れたままだった。


「今日まで、いっぱい遊んだね」


「……もっと、あそぶ」


 レナも小さく言う。


「ね、遊びたいね」


 ルシアは頷いた。泣きながら頷いた。


「私と遊んでくれて、ありがとう」


 約束は言わない。

 今日の涙で軽くしたくない。

 だから、礼だけを残した。


 夕闇が落ちる。

 輪の端切れだけが、最後まで色を残して揺れていた。

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