第34話 別れの段取り
朝食を終えた頃になっても、冷たい空気はまだ残っていた。
司祭館の裏手で、ルシアはウェールスの首をそっと撫でる。
明日、早朝に発つ。
だから今日は、この村で笑える最後の日だ。
遠くから、駆けてくる足音が聞こえた。
この時間になると、決まって迎えに来る。
「お姉さん!」
子どもたちが駆けてくる。
輪を抱えた子もいる。二日前に作った柳の輪だ。
端切れの色が、朝の薄い光を拾っている。
——そして、目。
クララのまぶたが、昨日より少し重い。
腫れた赤みが、淡い光にばれる。
昨夜、泣き腫らしたのだろう。
レナも同じだ。
泣いた痕を、笑いで隠そうとする顔をしている。
ルシアは何も言わない。
言えば、その瞬間にまた泣く。泣かせる。
今日の朝を、そこで止めてしまう。
だから笑う。いつもの角度で。
「じゃ、行こか」
子どもたちは頷く。頷けるうちは、頷く。
子どもはそれができる。
日が高くなるほど、光は強くなる。
土はまだ湿っているのに、草の匂いが少し勝ち始めていた。
子どもたちは日当たりのいい空き地へ散っていた。
濡れた土を避けるように、足で乾いたところを探して円を作り、そこを“場”に決めた。
「輪投げでもする?」
ルシアが言うと、みんなは不思議そうな顔をした。
その言葉を、まだ聞いたことがない。
ルシアは飾りの付いた輪とは別に、遊び用の輪を取り出す。
残りの柳の木で作った輪だ。軽くて、よく飛ぶ。
石の山を目印に置き、少し離れたところに線を引く。
そこから輪を投げるだけ。
簡単なのに、簡単だからこそ熱くなる。
そして今も、その遊びは続いている。
「入らなかったー!」
悔しそうな声が、空き地に弾んだ。
子どもたちはすっかり輪投げを気に入り、もっぱらその輪に熱中していた。
「もう一回!」
「順番!」
笑い声が、村の日中を押し広げていく。
「レナが一番うまいね!」
クララが言うと、レナは照れたみたいに口元だけを曲げた。
その横顔は、まだ昨日の腫れを隠しきれていない。
ルシアが周りを見渡すと、家々の煙突から煙がひとつ、またひとつと立ってきた。
そろそろ昼の支度だ。
子どもたちはまだ遊べる顔をしている。
でも腹の減りだけは嘘をつかない。
視線を感じた。レナだ。
ルシアが子どもたちの方へ目を戻した瞬間、ちょうど目が合う。
レナが、急に言った。
「明日……早いんだよね」
声は平らにしようとして、平らにならない。
遊んでいる子らから少し離れた位置だから、ほかには届かない。
ここだけ空気が薄いように感じる。
ルシアは頷く。
否定もしない。慰めもしない。
昨日の続きを、今日に置く。
「うん。早い」
レナは黙って、地面の線に視線を落とした。
全力で走り回る遊びじゃない。今日は、それが助かる。
静かな遊びの方が、今日には合っている。
「クララ、ご飯よ!」
煙の上がる家から、クララの母親が顔を出した。
クララが返事をして駆けていく。
ルシアも、少し遅れてついていく。
「ルシアさん、いつも遊んでくれてありがとね」
母親は笑う。
けれど目の奥は忙しい。春前の台所の顔だ。
「あなたが子どもを見てくれるお陰で、今年はどこも畑の準備が順調に進んでる。助かってるわ」
「いえいえ。遊んでもらってるのは、私の方です」
母親は一瞬きょとんとして、それから大きく笑った。
「そうかいそうかい! そう行ってもらえると、気持ちが楽になるわ!」
笑い声が明るく弾んだまま、母親は手を動かしながら頷く。
けれど次の瞬間、ふっと思い出したように笑みの形だけを残し、目元がわずかに静まった。
「聞いたわ。明日、発つんでしょ?」
声のトーンが少しだけ下がる。
クララが口を尖らせた。
「はい。お世話になりました」
ルシアは深く頭を下げる。
深く下げすぎると泣きそうになるから、戻すのも早い。
「寂しくなるわね」
「私も、寂しいです」
言い切って、そこで止めた。
余計な言葉を足せば、余計な涙が増える。
母親が、クララの肩へ手を置く。
小さな背がわずかに揺れて、それでも踏ん張った。
「昼が終わったら、また遊ぼ」
ルシアが言うと、クララは俯いたまま、小さく頷いた。
母親がふっと息を吐き、ルシアの方を見て言った。
「ほんとに、ありがとうね」
何に対して、とは言わない。
ルシアはそれだけで、胸の奥を当てられた気がした。
「……はい」
短く返すしかなかった。
「お姉さん! 私たちも帰るね!」
空き地のほうからレナが声を張った。
ルシアは片手を高く振り、笑って返す。
「気ぃつけて帰りなね」
子どもたちの足音が遠のくのを背で聞きながら、ルシアは司祭館のほうへ歩き出した。
「いいオカンばっかりやなぁ、この村は」
さっきのクララの母親の笑顔が、まだ目の裏に残っている。
だからつい、口からこぼれた。
その言葉が風にさらわれる前に、土を踏む重い足音が近づいた。
鍬の柄が肩に当たって、かすかに鳴る。
「呼んだかい?」
振り向くと、ゲルダが鍬を担いで立っていた。
頬が赤い。寒さじゃない。風に当たった赤だ。
「聞いたよ。明日、行っちまうんだってね」
「はい。お世話になりました」
ルシアは笑って答えた。笑って答えるしかない。
ゲルダは口の端を上げる。
「村に別れの涙の一つでも見せりゃ、あの騎士も放ってはおけないだろ」
冗談を言う口調だ。けれど目は笑っていない。
慰め方を知ってる目だ。
「いやいや、無理ですよ」
ルシアも同じ調子で手を振った。
笑い方を作る。作らないと、喉の奥が詰まる。
泣く準備みたいなものが、勝手に身体のほうへ寄ってくる。
「だって、ほら。だいぶ堅物じゃないですか」
冗談のつもりで小声にした。
その瞬間、ゲルダの視線がふっと逸れて、ルシアの背後へ滑った。
口の端が、わずかに止まる。
ルシアは気づかない。
泣きそうなものを押し戻すのに必死で、背後の気配にまで息が回っていなかった。
ふいに、光が変わる。
背中に落ちた影が、じわりと濃くなる。
覆い被さるみたいに、輪郭だけが近い。
ゲルダはわざと大きく笑った。
笑い声で場を包んで、余計な棘が刺さらないようにするみたいに。
「まあ、仲良くやんな」
一拍だけ置いて、口の端を上げる。
「押してだめなら——引け。そんだけだよ」
言い捨てるように背を向け、鍬を担いだまま去っていく。
軽口で場をほどくのが、あの人の優しさだ。
その笑い声が遠のいた途端、背中の影がはっきりした。
声が落ちる。低く、乾いている。
「司祭殿に挨拶をする」
余計な温度はない。
「……わかった」
ルシアが返すより先に、ロルフは歩き出す。
足音が一定で、迷いがない。追わせる歩幅だ。
二、三歩。沈黙が挟まる。
ロルフは前を向いたまま言った。
「堅物で悪かったな」
ルシアの喉が詰まる。
笑う逃げ道を潰された気がした。
「……聞こえとったん」
「聞こえる距離で言うな」
叱る言い方なのに、声は荒れていない。
言葉だけが線を引く。
ロルフはそれ以上、何も言わない。
歩幅も変えない。
それで終わりだと示すみたいに。
司祭館へ向かう道すがら、村人に会えば短く頭を下げる。
「行くのか」
「達者でな」
それだけで十分だ、と皆が分かっている顔をする。
順調だ。
順調すぎて、息が詰まる。
だから段取りだけが、先に片づいていく。




