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第33話 わがまま

 朝の光は薄く、いつも通りに差した。

 寝起きの頭はぼんやりしているのに、昨日のロルフの言葉だけは妙に鮮明だ。


『三日後の早朝に発つ』


 三日。

 “まだ三日”じゃない。

 朝が来たぶんだけ削れた。


「……あと、二日」


 独り言は小さくして、息だけ深く吸った。

 沈むのは簡単だ。けれど沈んだら、今日が溶けていく。


 朝食を終えたルシアは昨日同様、腕まくりをして、水を替え、布を絞る。今日は床を拭く。

 昨日より丁寧に。礼を言うみたいに。

 ここで世話になったぶんだけ、手を動かした。


 その背中に、また、ぱたぱたと軽い足音が寄ってくる。


「あそぼ!」


 見なくても分かる。いつもの子どもたちだ。


「ちょい待ち。今、片づける」


 言いながら、胸の奥に引っかかりが残る。


 クララが首をかしげた。


「お姉さん、昨日もお掃除してたね?」


 その言葉で、喉の奥がきゅっとなる。


——言うなら今だ。今しかない。


 そう思って、口を開きかける。


 すると、先にレナがにやりと笑う。


「わかった。司祭さまに言われたんでしょ。ちゃんとやれーって!」


「いつも私たちと遊んでばっかりだもんね!」


 クララとレナが笑う。他の子も釣られて笑う。


 ルシアは笑い返せない。笑えば言えなくなる。

 言えば、ここが終わりの顔になる。


「……はよ終わらす。外で待っとき」


 それだけ言って手を動かした。


 子どもたちは元気に返事をして、外へ散っていく。


 言えなかった言葉だけが、布巾の水みたいに手に残る。


 気づけば昼になっていた。

 腹が鳴る前に、胸が重い。

 子どもたちと別れ、ルシアが司祭館へ戻ると、司祭が穏やかな顔で迎えた。


「ルシアさん、お疲れ様です」


 机の上には粗いパンと、温い汁。いつもより少しだけ具が多い。

 気づかいが痛い日もある。


 遅れてロルフも入ってきた。

 外套の金具が小さく鳴る。

 ロルフはルシアを一度だけ見て、静かに椅子へ座った。


「……まだ、言えてないのか」


 主語がない。けれど刺さる。


 ルシアは視線を上げないまま返した。


「午後、言う」


 短い返事のまま、言葉を飲み込む。

 飲み込むたびに喉が乾く。


「遅くなれば遅くなるほど、辛くなるぞ」


「……わかってる」


 空気が少し固くなる。

 司祭が、間をほどくように言った。


「一先ずいただきましょう。お腹が空いていては、なにもできません」


 静かな昼食だった。

 普段ならルシアが子どもの話をして笑わせる。

 今日はそれがない。

 匙が器に触れる音だけが残る。


 食事が終わり、外へ出る。


 子どもたちは先に待っていて、笑いながら走り出した。


 ルシアもついていく。

 身体を動かさないと、心が固まる。


 土の湿りがまだ残る道を抜けると、視界がひらけた。

 低い草の間から、紫や白や黄色の花が点々と顔を出している。


 最近子供たちと来ることが多い、クロッカスの群生地。

 なのに今日は、いつもと同じ景色に見えない。

 花の色が、少しだけ強い。


 クララが両手で花を集めて言った。


「わたし、お花屋さんする!」


 一昨日のことがよぎる。

 踏まれた泥の紫。泣く声。怒りの顔。

 それでもクララは花を抱いて笑っている。


 強い。

 強いからこそ、守らなきゃいけない。


 ルシアは呼吸を整えた。


「ねえ、みんな。聞いてくれる?」


 子どもたちの手が止まる。

 草花の匂いの中で、空気だけが静かになる。


 ルシアは一人ずつ目を見る。逸らさない。

 大事な場面では、逃げない。


「私、二日後の朝、この村を出るの」


 一拍遅れて、言葉が広がった。


「二日後……?」


「うん。あと夜二回寝たら」


「どこ行くの?」


「隣の村。……そこから先は、これから」


 子どもの顔が変わる。

 意味を掴める子ほど早い。掴めない子ほど遅い。

 クララの口が開いたまま、息だけが漏れた。


「この村から、いなくなっちゃうの?」


「うん」


 言い切ると、胸の奥が痛む。

 “また来るよ”は今は言わない。軽くなるからだ。

 戻れない約束にしたくない。


 子どもたちの目が潤む。

 堪えようとする顔が、かえって胸にくる。


 ルシアはしゃがみ込んで、近い子から順に、指先でそっと拭った。

 濡らさせない。今日は、濡らさせない。


 そのとき、頭上でチッ、チッと短い声が鳴った。

 枝を渡る影が走る。

 ルシアは、その鳴き声に“乗った”。


「……鳥、鳴いた。ほら、上」


 泣きかけていた子が反射で空を見る。


 ルシアは笑いを作った。

 歯を見せる笑いじゃない。息を軽くする笑いだ。


「今日はさ、私のわがまま、聞いてくれる?」


 レナが涙を溜めて反応する。


「なに?」


「今日は、涙なしで遊びたいんよ」


 言った瞬間、胸がきゅっと縮む。

 自分のためのわがまま。初めてのわがまま。


 クララが首を振り、唇を噛んで、声を押し込んだ。


「むりだよ……」


「無理言ってごめん」


 ルシアはそっと、溜まった涙を拭う。

 拭っても、また溜まる。


 レナが苦い顔で言った。


「……すっごい、わがまま」


「でしょ」


 ルシアは肩をすくめた。

 軽くしないと沈むからだ。


「仕方ないなぁ」


 レナが、ルシアの手を取った。


 クララは腕を伸ばして、届かないまま固まる。


「……抱っこしてくれるなら、いいよ」


「ありがとう」


 ルシアはクララを抱き上げる。

 小さな重みが胸に乗る。幸せで、痛い重み。


 離れたところで、別の子が叫んだ。


「いた! 畑の近くの木の上!」


 みんながそっちを見る。

 鳴き声の主は枝から枝へ移り、すぐに空へ抜けた。


 クララが涙のまま言った。


「あれ、チフチャフ。春に帰ってくる鳥なんだって」


「さすが物知り博士」


「お母さんが言ってただけ……」


 むっとして言い返す。

 クララがこんな顔をするのを、ルシアは初めて見た。


 怖がって固まっている顔じゃない。

 泣きそうに黙り込む顔でもない。


 言い返せる。拗ねられる。

 そういう余裕が、ちゃんと残っている。


 それが救いだった。


 ルシアは抱え直す。

 落ちないように。離れないように。


「じゃ、今日は“春探し”! 見つけたもん、ぜんぶ覚えとこ」


 子どもたちは、泣きながら頷いた。

 笑い声は揺れたまま、村の空気に混ざっていく。

 揺れてるのに、確かに残る。


 その底で、“二日”という数字だけが、静かに削れていった。

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