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第32話 明日も

 朝。薄い日差しの下で、石壁の中はまだひやりとしていた。

 司祭館の台所には、火を落としたあとの匂いが残っている。


 ルシアは腕まくりをして、桶の水を替える。濁りが沈む前に、さっと捨てる。

 透き通った水を汲み直し、外窓の前まで運ぶ。

 布巾を浸して絞ると、指の間から冷たい雫が落ちた。骨にしみる冷たさだ。


 その背中に、ぱたぱたと軽い足音が寄ってくる。


「お姉さん、なにしてるのー?」


 声だけで分かる。いつもの子どもたちだ。

 覗き込む顔が三つ、四つ……。目がきらきらしている。


「お手伝いしよんよ。司祭館の窓拭き」


 ルシアが布巾を振ると、子どもたちは露骨に肩をすくめた。

 遊びの匂いじゃない、と鼻で分かる顔だ。


「お手伝い、する?」


 聞いてきたのはクララだった。

 外で遊びたい気持ちと、手を出したい気持ちが、半分ずつ混じった目。


「ありがたいけど、窓拭きしたことある?」


 クララは首を横に振る。


「じゃあまだやめとこ。お母さんに“していい”って言われてからね」


 ルシアは窓を拭く。

 布巾がガラスを擦る音だけが一定に続く。


 子どもたちはそれを、じっと見ている。

 目が、一緒に遊ぼう、と言っていた。


 ルシアは一つ息を吐く。


「そろそろ終わるから、その間に昨日の輪っか持ってきて。作業台に集合ね」


 子どもたちの顔がぱっと明るくなる。

 返事より先に、足が走り出した。


「前見て行くんよー!」


 叫ぶと、振り返りもせず手がひらひら揺れた。

 走り去る背中の軽さに、ルシアは少しだけ笑う。


 窓拭きを終え、布巾を洗う。

 指先が赤くなるまで絞って、桶を片づけた。


 そして、司祭に貰っておいた布切れの袋を持つ。


 昨日、「輪に結べる布、ありませんか」

 司祭にそう訊ねたとき、少し考えてから言った。


「針仕事の残りですが……結ぶだけなら十分でしょう。

よければ使ってください」


 色も長さも揃っていない。使い残しだ。

 けれど、揃っていないからこそ、春の飾りにはちょうどいい気がした。


 作業台に向かうと、先にレナが来ていた。

 輪を膝に乗せて、待ちきれない顔。


「ねえ、これで何するの?」


「それはお楽しみ。みんな来てからね」


 レナは楽しそうに頷き、そして思い出したみたいに言う。


「この輪っかね、お母さんが家の前に飾っていいって。

春に向かう目印なら、いいよって」


 争いの匂いがつく言葉を避けて、それでも“願い”だけは残した言い方だった。

 ルシアは、その言い方が好きだと思った。


 最後にクララが、息を切らして戻ってくる。


「私ね、お母さんに端切れもらって、つけてみたの」


 見せられた輪には、くすんだピンクの端切れが巻き付けられていた。

 ちゃんと“自分の輪”になっている。


「素敵やね! でも、困ったわ〜、先越された!」


 悔しがるふりをしながら、ルシアは袋を開ける。


「今日はこれ。輪っかに布を巻く。最後に、てっぺんにリボンもつける」


「巻き付けるの?」


 レナが身を乗り出す。


「そう。くるっと巻いて、ここで留める」


 ルシアは結び目を確かめ、端切れを一、二本くるっと回した。

 簡単に見えるが、子どもの指だと布が逃げる。


「ここ、こう。引っ張りすぎたら、ほどける」


「むずかしい!」


「大丈夫大丈夫。できるようになる。最初はみんな、そんなもんよ」


 子どもたちが口々に言う言葉に、ルシアは一つずつ返す。

 一人できると、それを見た別の子が、自分も、と手を動かす。

 失敗して、笑って、またやる。


 ルシアはもう一つ、手を動かした。

 輪の頂点に細い布を当て、きゅっと結ぶ。

 リボンの形ができると、ただの枝が一気に“飾り”に変わった。


「かわいい!」

「わたしも!」


 レナとクララが目を輝かせる。

 何色にするか揉めて、笑って、結び方でまた揉める。

 そのたびにルシアが手を添える。

 手を取りすぎない。投げもしない。ちょうどいい距離。


 青臭い柳の枝の匂いに、色とりどりの布が混ざる。

 春の色はまだ弱い。

 でも、弱いままでも、ちゃんと目に残る。


「司祭さまにも見せる?」


「見せてもいいけど、振り回したらいかんよ。人に当たるから」


「わかった!」


 分かった顔をする。本当に分かってるかは怪しい。

 でも、それでいい。言い続けるのが大人の役目だ。


 そのとき、後ろから足音がした。司祭だ。

 こちらの輪を見て足を止めた。


「司祭さまー!」


 子どもたちが駆け寄り、輪を差し出す。

 司祭は一つずつ受け取るように眺めて、目尻をやわらかくした。


 気づけば外の光が少し傾いていた。

 手は冷えているのに、頬だけがほんのり温かい。

 遊びの熱が残っている。


 子どもが息を弾ませて言った。


「お姉さん! 明日なにする?」


 ルシアの手が、一瞬だけ止まる。

 明日はまだ、この村にいる。


 …….そのはずだ。


「何するかは、皆で考えよう」


 返事は短くした。

 長くすると、余計なものが混ざる。

 子どもたちは安心したみたいに笑い、笑い声が村に弾んだ。


 すると、ルシアの視界の端に外套の影が入った。

 ロルフだ。立ち方だけで分かる。

 近づきはしない。呼びもしない。


 けれど顔が、いつもの顔ではない。

 “来い”とも“急げ”とも言わない。

 言わないまま、決まったことだけを運んでくる顔だ。


 ルシアは輪を持ったまま、息をひとつ飲み込む。

 温かい笑い声の中で、自分だけが冷える。


「……もう、帰るね」


 子どもたちが一斉に顔を向ける。


「えー? まだ遊ぶ!」

「明日もって言った!」


「明日は遊ぶ。今日は終わりってこと」


 言い切って、輪を子どもの手に戻す。

 抱え込まない。引き留められる前に、手を離す。


 子どもたちから離れてロルフの前まで行くと、彼は先に言った。

 短く、事務的に。


「三日後の早朝に発つ」


 その言葉が、石みたいに落ちた。

 ルシアは頷いた。頷くしかなかった。


「……分かった」


 子どもたちの笑い声が、遠のく。

 同じ村なのに、景色だけが一段、冷えた。

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