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第31話 抄本の夜



 全照の主は、天と地を創造した。


 天に光を置き、

 地に生あるものを創造した。


 全照の主は自らを型として、

 聖女を、そして聖女を護る騎士を創造した。


 全照の主は彼らに告げた。


 全てを愛せ、と。




 目で追いづらい行間を、指でたどりながらルシアは読む。


 ロルフは黙って見ている。

 驚きを隠そうとはしていない。

 珍しく、目が見開いたままだった。


「……あっとる?」


「ああ。合っている」


 返事は即答だった。だが声の出し方だけが遅れる。言葉より先に、息を選んでいる。


 ルシアは顔を上げ、ロルフの目を見た。


 ロルフは言いかける。


「あなたは——」


 その先を、ウェールスの鼻息が折った。

 ウェールスがロルフの肩へ鼻面を寄せた。暖かい息が金具を曇らせる。


 ロルフは瞬きをひとつして、現実へ戻った。

 この紗本を渡していれば、いずれ、あの箇所へ届く。

 神書の後ろ。


——聖女降誕の文へ。


 渡さなくても、この女は、いつか辿り着く。

 そんな確信のほうが喉に引っかかった。


「……大丈夫?」


 ルシアが覗き込む。

 ロルフは一息で表情を整えた。


「ああ、大丈夫だ」


 言い方は突き放している。

 だが、止めない。止められないのを自分で分かっている。


 ロルフはを差し出した。

 渡した瞬間、視線をルシアから切る。距離を戻す所作だ。


「この村を発つのは、そう遠くない。読んでおくなら今だ」


 短い。事務的だ。

 けれど、置いていく言葉だった。


 ルシアは抄本を受け取り、胸の前で一度だけ抱える。


「……分かった」


 それから遅れて、ルシアはウェールスへ視線をやった。

 話を聞いていないのではない。呼吸を整えるための、余白だ。


 ルシアは何も知らない顔で、ウェールスの顎を撫でた。

 ウェールスは気持ちよさそうに目を細め、鼻先でルシアの手を追う。


 馬は正直だ。人間より、ずっと。


「……じゃ、おやすみ。ゆっくり休みなね」


「ああ」


 ロルフはそれだけ言った。

 追いもしない。引き止めもしない。

 ルシアは抄本を小脇に抱え、司祭館へ戻った。


 部屋に入ると、灯りの輪が狭い。

 抄本を机に置いたとたん、紙の匂いが立った。

 白い紙の面だけが、妙に明るい。


 匂いに引かれるように、さっきの頁を呼び戻す。

 神書の文字。あの固い行。


 読めるはずがないのに、意味だけがすっと入ってきた。

 覚えているのは内容じゃない。

 “読めた”という感覚だけが、指先に残っている。


 あれは一体、何だったのか。


『必要な力もなるべく渡す』


 あの白い場所の声が、ロルフの言葉に重なって聞こえた。

 あれは命令でも親切でもなかった。

 必要だから渡す。ただそれだけの温度だった。


 それに似た温度で、ロルフは言った。


『この村を発つのは、そう遠くない』


 温かい忠告じゃない。期限だ。

 ここに“慣れる前に”、ここを離れる。


 ルシアは息を吸い直し、抄本から視線を逸らした。


 窓の向こうに教会が見え、脳裏に花の紫がよぎる。


 教会の前。湿った土。踏まれた紫。

 靴底が落ちた瞬間の、あの鈍い音。

 泣き声が村を裂き、怒りの顔が近づき、よそモンの一言が刺さった。


 揉め事は松の輪で集まった。

 誰かが止め、誰かが見届け、誰かが黙った。

 だからこそ、逃げずに“形”として残った。


 そして、その“形”が残るほど、別れも残る。


 子どもたちの呼び名。

 秘密基地の笑い声。

 クロッカスの小さな紫。

 あれらは、置いていくものになる。


「……別れ方、考えないかんね」


 独り言は軽くした。軽くしないと沈むからだ。

 机の上の抄本は黙っている。答えはくれない。


 ルシアは寝台に腰を落とし、指先を握って開いた。

 やれることを数える癖が、身体に残っている。


「……この村は、穏やかな方なんよな」


 言ってみて、苦くなる。

 穏やかな方であれだ。

 穏やかでない村なら、何が出てくる。何が落ちる。


「私は、役に立っとる……?」


 答えは返ってこない。

 返ってこないのが、この世界の普通だ。


 だから、問いの形を変える。

 返事を待つ問いじゃなく、自分で動ける問いへ。


 明日、何をする。

 誰の前に立つ。

 どこまで踏み込む。どこからは待つ。


 泣き声が上がったら、先に立つのか。村の言葉を待つのか。

 火が上がるなら、火を自分に移すのか。火を村に返すのか。


 ルシアは抄本の端を押さえた。

 逃げないための押さえ方だ。


「……よし」


 声は小さい。けれど、嘘はない。


「やれることをやる。できる形にする。それでいい」


 灯りを落とす。

 闇の中で、抄本の白い紙だけがしばらく目に残る。

 やがて、村の夜に溶けていった。

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