第30話 同行の条件
柳の輪を作った日。
夜更けの教会は、昼のざわめきが嘘みたいに静かだった。
ロルフは司祭に借りた一室で、机に向かっていた。紙の端を押さえ、乾ききらない墨の匂いを避けるように息を浅くする。
机の上には、この村での報告。
揉め事の火種、折衷案の内容、司祭の姿勢、村人の反応。
穏やかに見えて、確かに火はあった。
だが火を消すのではなく、火が燃え移らない形に整えれば、村はまた呼吸を取り戻す。
今日の空気は、その証拠だ。
ロルフはペンを置き、寝台の布を引いた。
角をそろえる手つきは几帳面だが、肩の奥だけが重い。
そろそろ、この村を発つ段取りも考えなければならない。
目的地のロルフの村領地まで、あと一つ村を越える。
そこまでをどう安全に運ぶか、その計算が頭から離れない。
そのとき、扉が控えめに叩かれた。
「起きとる?」
声は低くひそめられている。
聞き慣れた、あの調子だ。
ロルフは一拍置いた。返事をする前に、部屋の中を見回す。
灯り、机、紙。
そして、扉の向こうにいる女ひとり。
扉越しに、淡々と言う。
「夜分に、未婚の男の部屋を訪ねる意味は分かっているのか」
間が空く。
そして返ってきた声は、きょとんとしていない。
むしろ、押し殺していた息が漏れたような調子だった。
「分かっとる。だから小声やろ」
ロルフは一度だけ目を閉じる。
怒りではない。
状況の説明を省けたことへの、僅かな安堵に近い。
ロルフは鍵を外し、扉を少しだけ開ける。
廊下の冷気がすっと入り、蝋燭の火が揺れた。
そこに立っていたルシアは、落ち着いた顔をしていた。
「場所を変える。裏へ来い」
「裏?」
「ウェールスの様子見に行くつもりだった。
それに……外のほうが、耳も少ない」
廊下の灯りは弱く、戸の隙間から漏れる明かりが細く床に伸びていた。
司祭館の裏へ回ると、風の当たりが少し弱まった。
板囲いの影が冷気を切り、藁の匂いが混じる。
低い屋根の下、簡易的な馬を繋ぐ場所があり、そこにウェールスがいた。
鼻先から白い息を吐き、こちらを見る目だけが暗がりで光る。
ロルフは革紐の結び目を指で確かめ、飼葉桶の位置を直した。
習慣の所作を終えてから、隣のルシアへ顔を向ける。
「聞かれたくない話か」
声は抑える。
言葉が夜気に溶けるように。
ルシアは頷く。
視線は地面に落ちたまま、指先で外套の端を握り直す。
「できれば、あんたにだけ」
それだけ言って、ルシアは息を吸った。
昼の元気な声とは違う、夜の声。腹を決めた声だ。
「今日、ゲルダさんに言われたんよ。旅は身体が資本、って」
ロルフは黙って聞く。
ルシアは言葉を選びながら続けた。
「その“旅”って言葉が、ひっかかった。私、旅人ってことになっとるんよなぁって。……当たり前のはずやのに、急に現実になって」
月明かりが、ルシアの頬に薄い影を落とす。
笑ってごまかす顔じゃない。
「そこで思ったんよ。私は、いつまで旅を続けるんやろうって」
ロルフの喉が小さく動く。
“しばらく共に”と言ったのは自分だ。
だが、その“しばらく”を、ルシアはまだ掴めていない。
ルシアは顔を上げた。
まっすぐに、逃げずに。
「できることなら、あんたについていって、この世界のことを知りたい」
言い切った後、ルシアは唇を結んだ。
ロルフは即答しなかった。
連れてきたのは自分。責任はある。だが旅は危険だ。
そして、ひとりにするのも危険だ。
結論は簡単な形をしていない。
「軽い気持ちではない、と」
確認するように言うと、ルシアは即座に返した。
「軽いわけない」
ロルフは頷いた。
「確かに、しばらく共に行動すると言った。撤回はしない」
ルシアの肩がほんの少しだけほどける。
だがロルフは続けた。ここからが肝だ。
「ただし、単純な話でもない」
ロルフは視線を外さずに続ける。
「あなたは俺に話したことがある。あの白い場所のこと。名乗らない“存在”のこと」
ルシアの喉が、わずかに動く。
「……それも、全てではないな」
ルシアの瞳が揺れる。
夜風が一度、二人の間を抜ける。
馬屋の板が小さく鳴り、ウェールスが鼻を鳴らした。
胸の奥で、あの時の空気が蘇る。
淡い白。息を選ぶような間。
強い言葉のくせに、身体が追いついていなかった声。
——世界が、崩れかけている。
そう、言われた。
そして、“救って欲しい”という願いが、確かに含まれていた。
けれど今、それを口に出せば、ロルフの足場を揺らす。
彼は“剣を抜く前に片づける”役だ。
願いの重さを、職務の線に絡めたくない。
だから、言えるだけを言う。
「……あの存在に言われた。“このままだと、均衡が落ちる”って」
ルシアの声は小さかったが、嘘はなかった。
ロルフの顔から色が抜けるわけではない。
ただ、目だけが鋭くなる。
「それで、俺についてくると?」
「うん」
ロルフは問いを変えた。核心へ寄せる。
「あなたに何ができる?」
ルシアは一瞬だけ口を開き、すぐ閉じた。
答えを飾れないと悟った顔をして、まっすぐ言う。
「分からん。けど、分からんままにしておけないってことは分かる」
ロルフは視線を落とし、すぐ戻す。
「覚悟が要る」
「分かっとる」
「分かっていない。あなたはこの世界の——」
「だから、知りたいって言いよんよ」
声が強くなりすぎないように、ルシアは最後を少しだけ落とした。
喧嘩ではない、食い下がりだ。
ロルフは眉間の皺を深くする。
言い返したいが、言い返すほど間違っていない。
「……迷惑はかけない、は無しだ」
「なんで」
「信用ならない」
「ひど」
そのやり取りだけで、空気が少し軽くなる。
ロルフは、その軽さを許した。夜に必要な軽さだ。
「分かった。まずは俺の領地までだ」
ルシアの顔に、笑いが戻りかける。
だがロルフは釘を刺す。
「今夜みたいな真似はするな。噂は剣より早い」
ルシアは口をすぼめる。
「……分かった。ありがとう」
その素直さに、ロルフの眉間の皺が少しだけ浅くなる。
「じゃあこれからもよろしくね」
踵を返しかけたルシアを、ロルフが呼び止める。
「待て。話は終わりじゃない」
ルシアの背が固まる。
目が、警戒の形になる。
「……なに?特訓?」
ロルフは一瞬だけ黙り、それから、わざと咳払いをした。
「……稽古だ」
ルシアの眉が動く。
「神書の内容を、最低限頭に入れておけ」
ロルフは懐から、小さな綴じ冊子を取り出した。
表紙には人々の上に立つ男が一人立っていた。神書の紗本だ。
「文字は読めないだろう。俺が読むから覚えろ」
ルシアは、ロルフの手にある冊子を見た。
一瞬だけ、眉が寄る。
線の並びが、ただの模様に見えない。
「……ん?」
喉の奥で小さく引っかかった違和感が、声になって漏れた。
ロルフは構わず頁を開く。
読み上げる声を作るために、息を整える。
その直前。
ルシアが、開いた抄本の方へ身を寄せて覗き込む。
次の瞬間、身体の動きが止まった。
夜の冷えとは別の、ぞくりとする気配がルシアの顔に走る。
「……いや」
ロルフが目を細める。
「何だ」
ルシアは紗本から目を離さず、困ったみたいに笑った。
「読める……、っぽい」
その言い方があまりに頼りなくて、ロルフは思わず言葉を失った。
月明かりの下で、紙の上の文字だけが、やけにくっきりと浮いて見えた。




