第4話 雪解けの村
森の中、硬く枯れた茎の縁を縫うように、細い道が続いていた。
人が歩く道筋だけ土がのぞき、脇や踏まれない場所には雪がまだ残っている。
ロルフとルシア、そしてウェールスは、歩幅を揃えて進んでいる。
ウェールスの鼻先から吐かれる息が、霧に混ざって白く散った。
少し前、ロルフはウェールスに乗るよう勧めた。
しかしルシアは首を横に振った。
「この子、腹空かしてるやろ。歩くわ」
その言葉を思い出しながら、ロルフは周囲に視線を走らせる。
歩くことを選んだ理由が、ただの気まぐれではない。
ウェールスの腹を見て、先に自分を引いた。
そういう順番だ。
なら、今度は自分が先に拾う。
霧の向こう、木々の間に動くものがない。
枝が擦れる音も、鳥の一声もない。気配が、抜け落ちている。
「……妙だ。この辺り、静かすぎる」
霧のせいで音が吸われることはある。
だが、それにしても何もない。
鳥の気配も、獣の匂いも薄い。
痕跡がない。足跡も、爪痕も、気配すら。
ひとつの考えが脳裏をよぎり、ロルフは思わずルシアを見た。
昨日の白い光。そして名を呼べば、彼女は反応した。
その連想が、胸の奥に小さく刺さる。
だが、その視線をすぐに逸らした。
断定はしない。断定した瞬間、判断が狭まる。
今はまだ、観察で足りる。
やがて、森の切れ目に光が差した。
霧の薄い場所から、湿った土の匂いが届く。
一歩踏み出すと、視界がふっと開けた。
その先には、広い農園が広がっていた。
掘り返された土は黒く湿っている。
畝の間には踏み跡があり、そこだけ雪が消えていた。
だが畑の端や日陰には、雪がまだ斑に残っている。
その脇に、鍬や熊手がきちんと並べられていた。
冬の終わりを前に、春支度が始まっている。
畑の向こうで、誰かが鍬を土に入れる。
ざく、ざく、と間の長い音がして、次の一撃までに小さな沈黙が挟まる。
荒っぽさがない。音の立て方まで、暮らしの範囲に収まっている。
農園の横にある小屋の前を通ろうとすると、扉がきしみ、農具を抱えた女性が顔を出した。
髪は布でまとめ、頬は風に当たって赤い。
前掛けの端を指でつまみ、無意識に整える仕草が、生活の人のものだった。
女性の足元に、娘が小さく身を寄せていた。
けれど隠れているというより、母の影を“踏み台”にして外を覗いている。
袖を握る指先は硬いのに、目だけは離さない。
「おや、騎士様か。珍しいね」
女性は農具を抱えたまま、腰の剣にちらりと目をやった。
剣を見る目は慣れている。
だが慣れは、安心とは違う。
それでも声は刺さらない。
よそ者を追い払う色ではなく、まず無事を確かめる色だった。
女性は胸元で、小さく十字を切る。
剣を抜かずに帰れますように、と。
指先が迷わないのは、祈りが習いになっているからだ。
その隣で、娘は母の指の動きを目で追った。
真似をしようとして、指が胸のあたりで止まる。
一瞬、迷ってから、握り込む。
ロルフは軽く会釈をし、短く名乗る。
「境界巡察騎士団のロルフです」
娘の身体が、ふっと前へ出た。半歩だけ。
母の外套の陰から、きちんと顔を出して、騎士の腰の剣ではなく、顔を見る。
ロルフと視線が合うと、慌てて母の袖を掴み直した。だが逃げはしなかった。
女性は娘の肩に手を添えた。
その手は強くはない。だが離さない。
押さえつけるためではなく、ここにいる、と伝えるための手だった。
「クララ、行くよ」
クララと呼ばれる娘は小さく頷く。
それからもう一度だけ、ちらりとロルフを見た。
確かめるように。覚えるように。
女性はすぐに踵を返した。
段取りの早さは冷たさじゃない。
この村は、やることが多い。
優しさは、手を止めない形で出る。
「司祭様に声かけてきますね」
そう言い残して、女性はクララと小屋を離れ、村の方へと歩いていった。
その背中を見送る間もなく、子どもたちが湧いた。
畝の影、木の根元、柵の裏。それらから、泥のついた顔が次々と覗く。
「騎士様だー!」
「かっこいー!」
声が先に走り、足が追いかける。あっという間に距離が消えた。
ウェールスが耳をぴくりと動かし、鼻を鳴らした。
ロルフは反射で手綱を短く持ち直し、ウェールスを落ち着かせるように肩に掌を添える。
子どもたちは、ロルフの剣と外套を見上げて騒いでいた。
ロルフは半歩だけ前に出て、ルシアを背に置こうとする。
だが子どもたちは、そんな距離など気にしない。
声の合間に、隣に立つルシアへ目が滑る。
「なんで女の人がいるの?」
「ねぇ、誰それ」
不躾な言葉が刺さる前に、ロルフが口を開いた。
「私の連れだ」
その一言で、子どもたちの視線が一斉にルシアへ揃った。
誰かが何か言いかけ、言葉が途中で途切れる。
そこへ、鍬を肩に担いだ女性が通りかかった。
一瞬ルシアを見て、言葉を探すように口をつぐむ。
どう扱えばいいのか、測りかねている様子だった。
だがすぐに、女性は視線を子どもたちへ戻した。
「こら、あんたたち。
騎士様に群がるもんじゃないよ」
子どもたちは笑いながら、ロルフたちから一歩だけ距離を取った。
「ルシアよ。よろしくね」
ルシアは膝を折り、子どもたちと同じ高さまで視線を落とした。
目を合わせる。笑う。
それが、この人のやり方らしい。
「まだ民家のあるところまで見たわけではないですが……
この村は、なんだか穏やかですね」
「ええ。なんもかんも司祭様のおかげなんですよ」
ロルフの言葉に、女性は肩をすくめた。
「揉め事が起きてもね、司祭様が間に入る。
朝まで話し込むこともある。それで皆、血を見ずにすんでる」
「それは……早く会いたいものです」
「今はお祈りしてる頃でしょうよ。
話は通してあるみたいだから、教会まで送りますよ。
ほら、あんたたち! 一旦村に……
なにしてんだい!」
突然、女性が声を張り上げた。
その声につられて視線を向けたロルフも、思わず目を見開く。
ルシアと子どもたちが、雪解け水と土をこね、夢中になって泥団子を作っていたのだ。
手の動きが早い。子どもに合わせるのが早い。
ついさっきまで初対面のはずなのに、輪の中に居る。
「泥団子作ってたから、どこで作ってるのか聞いたんよ」
「それで一緒になって遊んだのか」
「どんな風に遊んどんのかなぁと」
ロルフは言葉を失い、しばしルシアの手元を見つめた。
もう子どもではないはずの女が、子どもたちに混じって泥団子を作っている。
ロルフは、その光景をどう受け取ればいいのか分からなかった。
危険はない。怪しさも薄い。
なのに、理解の外にいる。
「なんてこった……
まぁいい、とりあえず村に向かおう」
女性は、ルシアとの距離感に戸惑っていた。
だが、子どもたちと同じ目線で笑うのを見て、肩の力が抜けた。
女性の言葉に子どもたちは元気よく返事をする。
その中の一人が、いつの間にか少し高い塀によじ登っていた。
子どもは下を覗き込み、勢いをつけて飛び降りようとする。
「あ! こら、そこから飛び降り——!」
女性の声も届かず、子どもはぬかるんだ地面に飛び降りた。
水を含んだ土が弾け、泥が散る。
そのすぐ近くに座っていたルシアは、見事に泥をかぶることになった。
「騎士様のお連れになんてことしてんだい!」
ウェールスが驚いたように前脚を踏み替え、首を振った。
ロルフは短く息を吐き、ウェールスの首筋を撫でて落ち着かせる。
ルシアは目を丸くした。
だが次の瞬間、口角をぐいと持ち上げる。
「あははは! すっごい泥まみれ!
こんなに泥まみれになったの何十年振りかね!」
笑いながら、泥を払う手つきが大雑把だ。
細かいことより、まず笑って場を保つ。
その笑顔を見て、子どもたちも思わず笑い声をあげる。
笑っていい、と許されたみたいに。
「ふ、ふふっ!」
飛び降りた子も、少し遅れながら周りの子どもたちに混じって笑った。
それを見たルシアは、そっとその子の前に歩み寄った。
「あんた、笑ってんじゃないよ。
そんな所から飛び降りたら危なかろうもん」
さっきの楽しそうな声とは違い、少し低めで、でも心配を滲ませた声だった。
叱っているのに、突き放さない。
守るための声だ。
「はい……ごめんなさい……」
子どもはしゅんと俯き、反省の色を見せた。
「なんだいなんだい!
ちゃんと謝れるのか! よしよし!
何が悪いか分かれば、それでよし!」
ルシアは泥まみれの手で、その子の頭を優しく撫でた。
子どもは笑い声をあげて言った。
「よくもやってくれたなー!」
そのまま二人はじゃれ合い、互いの泥が服の上でどんどん混ざっていく。
見ていた子どもたちも、思わず笑った。
笑いは広がり、土の匂いと混じって村の匂いになる。
ロルフは息をひとつ吐いた。
「あなたは、なんというか……」
言い切れない。
言葉を選べば、自分の判断が甘くなる気がした。
だからロルフは、まだ距離を置いた。
ルシアは泥まみれのまま、子どもたちと手を繋ぎ、村へと歩いていく。
小さな手が左右からぶら下がり、歩幅が自然に子どもに合っていく。
ロルフは、その背を見つめた。
——剣を手にしなくても、この村は回っている。
少なくとも、今は。
それが事実だと、ロルフはただ、そう思えた。
ウェールスは遅れず、一定の足取りで並んだ。
子どもの甲高い声にも、もう驚かない耳になっていた。




