第2話 名を呼ぶ
日は高く、動けば身体は温まった。
だが、風はまだ冷たい。外套の隙間に指を差し込むと、指先がすぐ痺れる。布の内側まで、遠慮なく体温を奪っていった。
ロルフの呼吸は乱れていない。歩幅も変えていない。
それでも、背後の足音がいつの間にか半拍遅れた。
振り返りはしない。振り返れば、こちらが気にしていると悟られる。
代わりに、歩調だけを僅かに落とした。
合わせるつもりはない。落としたのは、あくまで判断の余地を作るためだ。
「少し、休憩する」
声は独り言に近かった。
「私は大丈夫やけど」
「俺の判断だ」
少女の返事は強がりにしては軽い。
だが、靴底が小石を踏むたび、足首がわずかに揺れている。
冷えのせいか、慣れないせいか。
どちらでも構わない。倒れられれば面倒が増える。
ロルフは進路を岩陰へと変えた。
そこは低い岩が連なり、冷気の刃が少し鈍る場所だった。足元の雪は薄く、踏めばざらりと乾いた音がする。
陽の当たる岩はぬるく、触れれば皮手袋越しにも温度が伝わった。
少女は外套の端を握り、岩に背を預けた。
肩をすぼめる仕草に、寒さがまだ抜けていないことが見える。
息を整えようとするのに、うまく揃わない。
呼吸が浅いまま、胸の奥だけが遅れて重くなる。
歩いて疲れだけではない。
あの場所に降り立ってから、ずっと身体がどこかずれている。
まぶたが一度、ゆっくり落ちた。
少女はすぐに開けようとする。起きているつもりで、眉を寄せる。
けれど視界がじわりと滲み、焦点が戻るのに時間がかかった。
「大丈夫……」
言葉は出たが、声に張りがない。
何度か瞬きをして、持ち直そうとする。
そのたびに、まぶたが少しずつ重くなる。
外套を引き寄せていた指先が、ふっとほどけた。
掌が膝の上へ滑り落ちる。
やがて呼吸がゆっくりと揃っていき、頭が岩へ小さく預けられた。
少女の目は、次の瞬きから戻らなかった。
ロルフは、それを起こさなかった。
少女が眠る岩と対角線上の岩に腰を下ろす。背は預けない。
脚に力を残したまま、いつでも立てる角度だ。
ウェールスは一本の足を折り、静かに体重を預けた。鼻先から白い息が落ちる。耳は固くない。
岩にもたれていた少女の体勢が、ゆっくり崩れる。
横になり、外套をまとったまま身を丸めた。
ロルフは眠る顔を一瞬だけ見て、視線を外した。
時間が進む。陽がじわりと傾き、影が少し長くなる。
休む時間は要る。だが、長く留まる理由はない。
起こさなければならない。
そう思ったとき、意識は自然と呼び方へ移った。
名は、もう要る。
問題は、どんな音で呼ぶかだ。
聞き慣れない呼び名は目立つ。目立てば噂が走る。噂は勝手に意味を生む。
そして、棘になる。
ロルフは小さく息を吐き、角が立たない音を選んだ。
唇をわずかに湿らせ、試すように声を落とす。
「カミラ」
反応はない。
風が岩の縁を撫で、落ち葉が一枚転がっただけだ。
「クリスタ」
それも違う。違うという確信だけが増える。
どれも、彼女の顔に乗らない。
ふと、今朝の白い光が脳裏を走った。
名前ではなく、あの光の質が、喉の奥に残っている。
「ル……」
ロルフは息を吸い、言いかけて止めた。
舌先が、勝手に次を選ぶ。
導かれるみたいに、口だけが先に決めていく。
分かるのに、分からない。
だから、怖い。
少女の眠る顔を、一度だけ見る。
眉の力が抜け、年相応の無防備さが戻っている。
その無防備さが、余計に異物だった。
ロルフは決める。決めてしまう。
「ルシア」
その名を口にした瞬間、少女のまぶたがわずかに揺れた。
次いで、寝起きの声が漏れる。
「うっかり寝てた……」
ぼんやりしたまま、少女は眉を寄せる。
「なんか、呼ばれた様な気が……?」
ロルフはすぐには答えなかった。
呼んだのは事実だ。だが、今言うべきはそれではない。
「……起こした」
低く、短く告げる。
少女は一瞬きょとんとし、それから肩をすくめた。
「そっか」
ロルフは一度だけ息を整えた。
胸の奥に残った感触を、言葉で押さえ込む。
「あなたの名が決まった」
「ほう?」
「ルシアだ」
「なんとまぁ可愛らしい名前。でも呼びやすそうで良いわ」
ルシアは口元をゆるめた。寝起きのまま、笑いの形だけ先に作る。
「ねえ、あんた、なんて呼べば?」
ロルフは答えに迷い、手綱を握り直した。
呼び名を渡すのは、距離を縮める。縮めていい距離か、まだ測りきれていない。
だが、呼ばれねば、こちらも合図が遅れる。
「……ロルフでいい」
「ふーん」
今度はちゃんと目が合って、ルシアはにこっとした。
「じゃあロルフって呼ぶわ」
その明るさとは裏腹に、ロルフは、なぜルシアという名が口をついて出たのかを胸の奥で手放さずにいた。
——ルシア。
それは洗礼名としても使われる名だ。
その名に彼女が応えたという事実だけが、どうしても引っかかっていた。




