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第27話 旅人

「松? 硬いから、一晩は水に浸さないと枝は曲げられないわよ?」


 今朝、松で輪を作ると言い始めた女性の家へ行くと、返ってきたのは現実の声だった。

 笑っているのに、眉だけが困っている。


 ルシアと子どもたちは、そろって言葉を失う。

 勢いだけで来たのが、急に恥ずかしくなる。

 足元の土まで自分たちを笑っているみたいだ。


 松の葉を一本ずつ縄で括っていく形も頭をよぎった。

 だが、細かい手先が要る。

 縄も、今すぐ十分な量は都合できない。

 あったとしても、結び目の数だけ時間が溶ける。


「作ってくれるのはありがたいけど、今すぐは無理よ」


 女性は責めるでもなく、肩をすくめた。

 その仕草が「無理でも、終わりじゃないよ」と言っている気がして、ルシアは余計に咳払いの場所に困る。


 その場に、間の抜けた沈黙が落ちる。

 子どもたちが互いの顔を見合い、誰からともなく小さく笑いそうになって、慌てて口をつぐんだ。

 ルシアはようやく咳払いをして、ごまかす。


 そこへ、背後から声がした。


「おや。こんなところにそろって固まって」


 振り向くと、以前服を貸してくれたゲルダが立っていた。

 片手には小さな包み。布の端が少しのぞいている。


 ゲルダは子どもたちの顔をざっと見て、戸口の女性の表情を見比べる。

 それから、わざと軽い調子で言った。


「どうしたんだい。そんな“世界の終わり”みたいな顔して」


 ルシアは息を吐いて、肩をすくめる。


「色々あって……。それより、どうかされたんですか?」


 ゲルダは答えるより先に、包みを差し出した。


「これ、持っていきな」


 受け取る前に、ルシアの視線が一瞬だけ迷う。

 包みの角から覗く布は、見覚えのある色だった。

 指先が勝手にそこへ伸びかけて、思い直して止まる。


 ゲルダはルシアの顔と、上等な服とを見比べるようにして、口を開きかけて、閉じた。


『上等な服を持っているのに替えはないのか』


 そう言いかけた言葉を、喉の奥へ押し戻す。

 その後に出たのは詮索ではなく、生活の声だった。

 ゲルダは自分の腹をぽん、と叩く。


「見ての通り、今の私には入らないんだ。使いな」


 ルシアが言葉に詰まっていると、ゲルダは包みに視線を落としたまま続ける。


「それに、旅人は身体が資本だろ。濡れたまま歩くのは、よくない」


 その言葉の中で、ひとつだけ、ルシアは引っかかった。


 “旅人”


 喉の奥で、音にならないまま転がす。

 そして、すっと冷える。


——自分は、どこへ向かうのだろう。


 けれど次の瞬間、その冷えを別のものが上から覆った。


 “身体が資本”


 その言い方が、詮索ではない。

 行き先を聞くでも、正体を探るでもない。

 ただ、濡れたまま歩くな、と言う。


 当たり前のことを、当たり前に差し出される。

 それが今のルシアには、思った以上に効いた。


 胸の奥がじんわりと温くなる。

 怖さが消えるわけじゃない。

 ただ、足元に一枚、布が敷かれたみたいに、立てる感じがした。


「ありがとうございます。返します。ちゃんと、返します」


 ゲルダは手をひらひらと振った。


「十分だよ。子どもらと笑ってくれただろ? それだけで、この村じゃ“返した”になるのよ」


 ルシアは服を抱え、深く頭を下げる。


「……ゲルダさん、オカンやね」


「今さら気づいたのかい? 遅いわ」


 ゲルダがふっと笑う。

 その笑いに、ルシアの肩の力がほどけた。


 その瞬間、ルシアの脳裏に村へ入った初日の光景がよぎった。


 袖をまくって川で泥を流した日。着替えを借りて、冷たい水に肩をすくめて、それでも笑ってごまかした日。

 水ぎわには、細くて、よくしなる枝が何本も揺れていた。

 今朝の“輪っか”の話と、一本の線でつながる。


「そうだ……。川辺の木、分かります?少し切ってもいいですか?」


 最初に輪の話をした女性とゲルダが、一度だけ目を合わせた。

 それから二人とも記憶をたどる顔になる。子どもたちもつられて静かになる。


 短い間の後、女性が顎を上げた。


「柳のこと? いいわよ。折れた枝は毎年出るし、根を傷つけなきゃ大丈夫」


 そう言って、女性は棚の奥から鎌を出した。

 差し出す手が、ほんの少しためらう。


「ただし、子どもに触らせないで。刃は遊びじゃないからね」


 ルシアは頷く。


「分かりました。私が持ちます」


 鎌を受け取り、柄の重みを手のひらで確かめる。

 子どもたちは刃を見るなり、自然と一歩引いた。危ないものだと、ちゃんと知っている目だった。


「ゲルダさんたち! ありがとう!」


 ルシアは子どもたちを引き連れて、川へ向かった。

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