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第25話 湯気の夜

 ルシアは炊事場で水差しを置き、指先の冷たさを擦った。

 笑う気力は残っている。けれど、夕刻の泥の紫がまだ目に残っていた。


 背後で戸板が小さく鳴った。

 ロルフが立っている。灯りが鎧の金具を一つだけ拾う。


「あなたも、話し合いに入るものかと思っていた」


 ロルフの言葉に、ルシアは鍋の縁を布で一度ぬぐい、指先の水気を払ってから顔を上げる。


「クララのことが心配やったし、そもそも私はよそモンやからね」


 ロルフは眉間に皺を寄せた。

 その皺は怒りではない。測りかねているときのものだ。


「村のことは、村の者と、中立のあんたが話し合うべきやと思ったんよ」


 ルシアは言い切ってから、目を逸らさなかった。

 火の粉が落ちるのを待つみたいに、ただ静かに見ている。


 ロルフの瞳が、ほんの一瞬だけ揺れた。

 だが、すぐ戻る。戻した、というより、戻したことにした目だ。


「俺のことを説明した記憶はないが。なぜ中立だと?」


 声は平たい。問いの形で距離を取り直す。


「誰の肩も持たんようにしてさ」


 ルシアはそこで、言葉を一つ区切る。

 軽くならないように、噛んで渡す。


「でも、見捨てんやろ?」


 ロルフは一拍だけ置いた。

 返す言葉を探すというより、余計な温度を落とす間だった。


「俺は境界の揉め事を、剣を抜く前に片づける役目だ。

中立に見えるように動いているだけだ」


「……それ、ずっと誰にも好かれんやつやん」


「慣れている」


 短く言い切ったが、声音だけが少し乾いていた。

 乾きは、誇りじゃない。擦り切れのほうに近い。


 ロルフは一度、炊事場の鍋と桶、そして濡れた布の置き場へ視線を流した。

 この家の夜が、いま何で出来ているかを確かめるみたいに。


 それから視線を戻す。

 眉間の皺が、深くなるのではなく、位置を変える。

 感情を片づけて、順番を入れ替える顔だった。


「……夕刻のことだが」


 ルシアは湯を混ぜる木杓の手を止めた。

 鍋の湯気だけが、遅れて追いついて、黙って立ち上がる。


「前に出たな」


 叱りではない。

 確認だ。そして、逃げ道を潰すための一言だった。


「出たね」


 ルシアは杓を置き、ロルフを見る。

 言い訳を作らない目で。


「それが正しいかどうかの話ではない」


 ロルフは淡々と続ける。

 淡々としているほど、言葉が刺さる。


「あなたが一歩出た瞬間、村の視線が“花”から“あなた”へ移った。あれで火種が立つ。熱が、あなたに集まる」


 叱って終わらせたい声じゃない。次に起きることを、先に潰したい声だ。


 ルシアは手元の端布を整えて畳み直した。角をそろえるのは、気持ちをそろえるのと同じだ。


「子どもを、守りたかったんよ」


 声は強くしない。目をそらさない。

 言い訳ではなく、事実として置く言い方だった。


「分かっている」


 否定しない。

 だから次が来る。


「守り方が悪い」


 湯気が立つ。なのに炊事場が冷える。

 ルシアは一度、息を整えた。

 怒りを飲むためじゃない。崩れないために。


「……じゃあ、どうしたらよかった?」


 ロルフは即答しない。

 誰の言葉が、どこへ燃え移るか。そこをなぞるみたいに、ほんの数秒。


「まず場を止めるのは村人の言葉だ。俺の役目は、村が戻る道を残すことだ」


「でも、あの男の言葉は子どもには強すぎる」


「だから、線だけ引いた」


 ロルフの指が自らの腕に触れる。夕刻にハインツの腕を掴んだ場所を確かめるみたいに。

 あそこで手を止めた感触が、まだ残っているのだろう。


「決めごとを作る」


 言い方が、命令に寄りすぎない。けれど逃げ道もない。

 守れ、と言っている。


「俺の合図があるまで前に出るな。言葉を投げるな。

村の者が止めに入るのを待て」


 ルシアは眉を寄せた。


「子どもが泣いとっても?」


「泣いているからこそ待て。泣き声は火を呼ぶ。あなたが先に立てば、火はあなたに付く」


 冷たい。

 けれど村を割らないための冷たさだ。


 ルシアは一拍飲み込み、頷いた。


「……例外は?」


 ロルフの声が少しだけ低くなる。


「手が出る“直前”だけは止めろ。掴まれる前に、腕を落とさせろ。言葉じゃない。身体で、手を止めろ。今日俺がしたみたいにな」


 殴られろ、ではない。殴らせないための線だ。

 ルシアはそれを、ちゃんと理解して目を伏せた。


「わかった」


 ロルフは頷かない。

 代わりに、視線だけで話を終わらせる。それ以上を足すと、余計な温度が乗る夜だ。


 ロルフの視線が司祭のいる部屋へ戻りかけた。

 仕事の順番に戻ろうとした、その背へ。ルシアが、別の問いを投げた。


「そういえば、あの若い男。なんで今までご飯のことや薪のこと、言わんやったん?」


 ロルフは少しだけ口を閉じ、言葉を選ぶ時間を作った。


「村の皆が分かっていると思っていたらしい」


 淡々としているのに、言い訳には聞こえない。


「だが年寄りほど、それを当たり前として疑わない。口にすれば、恥をかかせると感じる者もいる」


 “鍋が薄い”の一言が、ただの事情で済まない村。

 言った瞬間に、誰かの面子が落ちる。誰かの正しさが削れる。そういう順番を、ロルフは知っていた。


 ルシアは深く息を吐く。

 湯気に混ぜるみたいに、言葉にならないものを飲み下して、腹の底へ据え直した。


「難儀やなぁ、ほんと」


「……難儀なことばかりだ」


 ぼそりと漏れたその一言は、愚痴というより、胸に溜まる疲れを形にした音だった。

 強がりのままでは、息が続かない夜がある。


 ルシアは目を丸くした。

 ロルフがそんなことを口にするのを、初めて聞いたからだ。

 責める顔はしない。代わりに、いつもの調子で肩をすくめる。


 このままだと空気が沈む。だからルシアは手を動かした。

 乾かしていた桶を、沸かしている湯の隣へ寄せる。


 湯がぐらりと揺れ、鍋の底から泡が立ち始めた。

 ルシアは木の杓で湯を桶に移し、熱すぎないところまで水を足した。


「はい、あんたの分の湯。これでいい?」


 ロルフが桶を受け取る。指先が一瞬だけ力む。

 重さじゃない。

 今夜みたいな夜に、こういうものを差し出される時の固さだ。


「……苦労をかけたな」


「何に対して言っとんよ。こういう時は、『ありがとう』でいいんよ」


 ルシアは自分の分の桶にも湯を張る。

 湯気が上がり、やっと“いつもの夜の生活”の匂いになっていく。


 ロルフは喉の奥で一度だけ息を整えた。


「……今夜の特訓は休みだ」


 命令みたいに言って、背を向ける。

 その背中だけが、少しだけ重い。


「はいよ。しっかり休みなね」


 ロルフの背が戸口の向こうへ消えるのを見届けて、ルシアは桶を抱え直した。

 司祭の湯も用意し、炊事場の火が落ちきる前に、使ったものをさっと寄せる。置き場所を間違えない。それだけで明日の朝が楽になる。


 やることを終えると、自分の部屋へ戻った。


 戸を閉めると、外の音が薄くなる。

 今日一日のざらつきが、やっと布の外に置ける気がした。


——それでも、胸の中に一つだけ残る。


 『前に出るな。』


 冷たい。

 けれど、守るための線だった。

 守られていたのは、子どもか。場か。

 あるいは、今夜の村そのものか。


 湯気が立つ。

 ルシアは指先を丸めて開き、もう一度だけ丸めた。

 答えは出ないまま、手だけが先に落ち着こうとした。

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