第24話 司祭館の灯
司祭に呼ばれた者たちは、司祭館に集まった。
石壁の中に声が溜まり、戸の隙間から漏れる灯りが廊下に細く伸びる。
話し合いはまだ途切れない。村の家々の明かりが、一つ、また一つと消えていくのを背に、言葉だけが残っていく。
ルシアはその間、クララの家にいた。
寝台の上で丸くなったクララの呼吸は浅いが、途切れはしない。
クララの髪を指で梳くように、そっと撫でる。
「ルシアさん」
呼ばれて振り返ると、母親が戸口に立っていた。
手を握ったり開いたりして、落ち着きどころを探している。
「ルシアでいいですよ」
「……では、ルシア。この子の心を守ってくれて、ありがとう」
母親は深く頭を下げた。
言葉の最後が震え、声が少し掠れた。
「私、クララの心、守れてましたか?」
「えぇ。間違いなく。この子はひとりで抱え込まずに済んだわ」
母親は顔を上げ、涙をこらえるように唇を結んだ。
ルシアはそれを見て、もう一度だけクララの頭を撫でる。
「それなら、よかった」
家の外がざわめき始めた。
遠くで戸が開く音が聞こえ、靴底が土を踏む気配が増える。
話し合いが終わったのだと分かった。
「私、帰ります。おやすみなさい」
ルシアは寝台から静かに立ち上がり、戸口で一度だけ振り返った。
母親が小さく頷き、胸の前で組んでいた手を、ようやくほどく。
肩の力が、さっきより少しだけ抜けていた。
外に出ると、夜気が頬を刺した。
司祭館へ向かう道の途中、話し合いを終えた男たちとすれ違う。
誰も声を発さない。歩幅が揃っていない。
疲れは顔に出るより先に、背中に出るのだとルシアは思った。
司祭館の入口が見えたところで、戸が開いた。
中から出てきたのは、ルシアの襟元を掴もうとした若い男、ハインツだった。
灯りが横顔を照らし、目の下の影が濃い。
「お疲れさん」
ルシアは足を止めずに言った。声は軽くしすぎない。だが重くもしない。いつもの調子に寄せるだけだ。
ハインツは視線を逸らした。
喉が一度、かすかに鳴る。言いたい言葉があるのに、形にならない顔だった。
唇が動き、息だけが漏れる。
「……」
ハインツは咳払いをして誤魔化した。
指先が、呼び止める形でわずかに浮く。手は中途半端に浮いたまま固まり、次の瞬間、力なく下へ落ちた。
頭も下がりきらないまま、足だけが先に動く。
ルシアはハインツの背中を追わなかった。
司祭館に入ると、ロルフと司祭が長机を挟んで座っていた。
二人とも姿勢は崩していないのに、目の奥が乾いている。
机の上には、書きつけの紙と蝋の残りが散っている。
「夜ご飯、食べた?」
「……いや」
ルシアの問いに対して、返事が短い。
ロルフの声は普段より少し低かった。
ルシアはそれを聞いて、まっすぐ司祭館の炊事場へ向かう。
棚を開け、壺の中を確かめる。
乾いた豆、干しきのこ、根菜の端、ハーブの小袋。
春前の村で使えるものは限られている。
だからこそ、火と湯気で“食べられる形”にしてしまうのが早い。
鍋に湯を張り、豆を落とす。
蓋をして待つ間に、別の鍋へ干しきのこを入れてゆっくり温める。
立ち上る香りが、石壁の冷たさを押し返した。
根菜を刻む音が、炊事場に一定の調子を作る。
刻んだ野菜を鍋へ滑り落としながら、ルシアは棚の隅に視線をやった。
「あれ、使いたいな……」
麻袋。口は固く縛られている。中身は干し肉だ。
匂いはもう、袋の外に薄く滲んでいる。
一週間ほど前、灰の日が済んだ。
それからこの家の食卓は、静かに“削る”ほうへ寄っている。
肉も、乳も、なるべく遠ざける。
けれど。今日だけは、迷いが残った。
さっき見た二人の疲れ方が、頭から離れない。
肩が落ちている。目の下に薄い影がある。司祭もロルフも、息が浅い。
干し肉の袋へ、指が止まる。
ほんの少しでいい。脂が欲しい。匂いが立てば、身体が戻る。
ルシアは、息をひとつだけ短く吐いた。
「……一欠片だけ」
誰にともなく言って、薄い干し肉を小さくちぎる。鍋に落とした瞬間、湯の匂いがふっと丸くなる。控えめな香りが、疲れにだけ届く距離で立った。
乳は酸の立ったものを少量。重くならない程度に、輪郭だけを整える。
最後に塩と棚の隅に残っていた乾いたハーブを、指でつぶしてひとつまみ。
湯気が顔を撫で、手の冷えがほどけていく。
ある程度整ったところで、ロルフが炊事場の入口に立った。
鎧の金具が小さく鳴る。いつもなら気にならない音が、今夜はやけに近い。
「何をしている?」
「夜ご飯作ってる。お腹空いてなくても、食べれるなら食べとき。身体、保たんよ」
ルシアは器にとろりとした粥を注ぎ、具の入った汁も添える。
机へ運ぶ時、ロルフの横をすり抜けた。
「料理、できるのか」
ロルフが目を見開く。驚き方が、少し遅い。
疲れが反応を鈍らせている。
「そりゃあ一通りはできるわ。生活してたんやから」
ルシアは盆を両手で支え、長机の端を回って司祭の前へ運ぶ。
置き方だけは静かだ。音を立てないように、底をそっと机に預ける。
それから、ほんの短く頭を下げた。
「司祭様。勝手に炊事場の物を使わせてもらいました。
よろしければ、お召し上がりください」
湯気が立つ。豆の匂いに、干し肉の香りが混じる。
ルシアは一拍だけ黙った。
司祭の顔を見て、喉の奥で言葉を選ぶ。
「それと……今夜は風味づけに干し肉を一欠片だけ入れました。決まりを軽んじたくはありません。でも、今夜は、お二人が倒れそうで」
言い訳は足さない。
叱られるなら受ける、という目だけを司祭に向けた。
「ありがとうございます、ルシアさん」
司祭は器に両手を添え、ほんの少しだけ目を伏せた。
そして、一口すする。ほっと息を吐く。
それだけで、司祭が相当張りつめていたのだと分かった。
「……温かい。助かります」
司祭は余計なことを言わなかった。
叱りもしないし、許したとも言わない。
ただ器を両手で包むように持ち、もう一度だけ静かにすすった。
それが答えで十分だった。
ルシアはようやく、肩をゆるめた。
司祭とロルフを残し、ルシアは炊事場へ戻って鍋を洗った。
そのまま別の鍋に水を張り、湯を沸かす。火が落ちていく夜は、拭う湯があるだけで眠りやすい。
けれど今夜は、まだ眠りの匂いがしなかった。
廊下の奥から、椅子を引く気配が一度だけ鳴って、すぐ消えた。




