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第23話 腹は膨れない

 昼は春めいた陽が差しているのに、日が傾くほど気温だけが落ちる。

 だが、いま教会前の空気が冷たいのは、寒さのせいだけではない。

 湿った土の匂いに、人の息の浅さが混ざって、場が重かった。


 クララは泣き声を飲み込み、それでも涙がぽたぽた落ちる。

 両手の中に、端布で包まれた泥で汚れたクロッカスを抱えている。握りしめすぎて、花弁が少し潰れていた。


 ロルフが一歩、前へ出た。腕は組まない。剣にも触れない。

 ただ立つだけで、輪の背筋が揃う。


「話は聞く」


 声は落ちている。怒鳴りはしない。

 それでも、その一言で場が締まった。


 ハインツは歯を噛む。

 さっきまで伸びかけていた腕を、ゆっくり下ろした。下ろしたのに、拳の形は解けない。


 ルシアは一度だけ息を吐いた。吐息が白くならない程度の冷えが、喉の奥に残る。

 周囲の村人たちの肩が、いったん下がる。それでも息は抜けきらず、力がまだ残っていた。


 もう家に帰る時間だ。なのに、誰も帰らない。

 籠を持つ者も、鍬を肩にかけた者もいる。疲れているはずの足が、そこだけ動かなかった。


 見届けなければいけない。

 それが恐さでも、責任でも、名前はどうでもよかった。とにかく輪は散らない。


 遅れて司祭が来た。事情はもう耳に入っていたのだろう。

 けれど、クララの手の中の花と、子どもたちの顔を見た瞬間、司祭の目がわずかに揺れる。


 ハインツが吐き捨てるように言った。


「……昨日今日の話じゃない」


 ロルフが視線を据える。先に言葉を戻す。


「そうだ。昨日今日の話ではない。境界巡察騎士団として、俺も何度かお前と話している」


 村人の中で小さく息が吸われた。

 ロルフが「話している」と言っただけで、この揉め事は“ただの口喧嘩”ではなくなる。

 境界の秩序に触れる火種になる。


 ハインツはロルフを睨み、すぐ視線を落とす。

 拳をほどき、また握る。殴るためじゃない。言葉が崩れないよう押さえ込む仕草だった。


「約束はした。司祭様の前でも、これ以上荒らさないってな。……でもよ」


 ハインツは唇を噛む。


「教会で花だけ見ないなんて、無理だった」


 司祭は言葉を飲み込み、目を伏せる。

 迷い続けてきた時間が、そのまままぶたの重さになっていた。


「私が決めきれず、先送りしてきた結果が、これとは……」


 その言い方が危ういのを、ロルフは見逃さない。

 司祭が自分を責めれば、村はそれに寄りかかる。寄りかかられれば、司祭は折れる。


 ロルフは司祭の言葉を受け止める位置に立ち、短く言った。


「司祭殿。ここまで拗らせたのは、私の落ち度でもあります。止めるべき火種を、止めきれなかった」


 司祭は目を瞬かせ、短く息を吐いて頷く。


「……話を聞くだけでは駄目でした。落としどころを作らねばなりませんね」


 その瞬間、ハインツの声が跳ねた。


「落としどころ? そんな呑気なこと言ってられないんですよ!」


 言ってから、ハインツは口をつぐむ。

 自分の声が大きすぎたと気づいた顔だ。だが、引っ込められない。


 ロルフは曖昧に流さない。ここで逸らせば、またすり抜ける。


「ならいい加減、理由を言え。教えの話に見せかけて、本当は別の痛みがあるんじゃないのか」


 ロルフはそこで一拍、言葉を切った。

 怒鳴れば出るものもある。だが怒鳴って出たものは、あとで毒になる。


「ここで声を荒げて終わらせても、残るのは遺恨だ」


 ハインツは笑いもしない。怒鳴りもしない。

 堪えていたものが漏れるように、言った。


「……花じゃ、腹は膨れねぇだろ」


 一言が重く落ちた。

 目を逸らす者がいる。眉間に皺を刻む者もいる。

 どちらも、身に覚えがあるからだ。


 ハインツは続ける。止めたら自分が崩れるのが分かっている。だから、止めない。


「冬の間、鍋は薄い。薪も細い枝ばっかりだ」


 喉が鳴る。言葉の方が先に乾く。


「……それでも村の連中は、飯を削ってでも花を献げるんだ」


 そこでハインツは一瞬止まった。

 続きが胸の奥で重い。重いのに、押し出すしかない。


「信心だの、見栄だの、そんな話じゃねぇ」


 声が掠れる。悔しさが先に漏れて、涙が遅れて溜まる。

 それでも泣くまいとして、ハインツは顔を上げた。


 ルシアはその間、口を挟まなかった。

 しゃがんだまま、クララの傍にいる。


 見ていたのは花じゃない。

 クララの肩の上下。息の入り方。そして、喉の奥で引っかかる音だ。

 泣き声を殺しているつもりで、身体だけが先に悲鳴を上げている。


 クララの肩が、ひく、と小さく跳ねる。

 次の呼吸が入らない。吸おうとして、止まる。


 ルシアは手を出さない。

 代わりに、自分の息をわざと少し長く吐いてみせた。

 急かさない速さで、落ち着く方へ引っ張る吐き方だ。


「……息。いっぺんだけで。ゆっくりやろ」


 声は小さい。叱らない。

 泣いている子の呼吸が、これ以上浅くならない高さで言った。


 そのうえで、ルシアが顔を上げずぽつりと言った。


「……怒りの先が花に当たってしまっただけで、腹ん中の寒さのほうが、ずっと手強いよな」


 ハインツの目が見開かれる。

 言い返そうとして唇が動く。だが声が出ない。喉の奥で言葉が潰れた。


 ゆっくり視線が落ちる。

 握っていた拳がほどける。


 ぽた、と。

 ハインツの涙が地面に落ちた。


 誰の耳にもはっきり届いた。

 そんな気がしたのは、静けさが一段深くなったせいだ。


 ロルフが言う。


「……言いたいことは分かった。だからこそ落としどころが要る。暮らしも信心も、どちらも切れば血が出る」


 司祭が頷く。


「日も沈んできました。今ここで全員に決めさせるのは、よくありません」


 司祭は一度だけ、ルシアのほうへ目を向けた。

 泣き顔を拭く手。子どもが息を乱さない高さの声。

 いま必要なのは、そちらだと分かる目だった。


 司祭は次に村の長老へ目を向け、それからハインツへ視線を戻す。


「長老殿と村人数名。それとロルフ殿。……そして、あなた。ハインツさんも来てください。これから司祭館で話し合います」


 村人の間に短いざわめきが走る。

 司祭館は広くはない。だが少人数なら座れる。板椅子を寄せれば、膝が触れる距離で向き合える。

 逃げずに言葉を出すための距離だ。


 ハインツは一瞬だけ迷い、頷いた。

 反発より先に、疲れが顔に出ていた。


 参加しない者たちは、それぞれ帰路につく。

 ただ、その足取りはどこか遅い。今日の出来事を胸に残したまま、一夜を越えるのだ。


 ルシアはしゃがみ込んだまま、クララの頬をそっと拭った。

 抱え込みすぎない。逃げられるくらいの力で、でも離れない距離で、クララとレナを胸へ寄せる。


 クララは鼻をすすり、端布の中の花を見た。

 壊れた春を、まだ手放せない目だ。


 ルシアはクララの指を見た。


「手、冷えたな。指がぎゅってなっとる」


 ルシアは端布ごと花を受け取らない。

 代わりに、クララの両手を自分の掌で包んで、温める位置だけを作った。


「落ちんように、ここで支えたる」


 泣き終わった子の呼吸は、よく迷子になる。

 ルシアはその迷子を、寄り添って連れ戻す。


 レナが、気まずそうに口を結んだまま、集まる大人たちを見ている。

 さっき輪の中で叫んだぶん、いまは息の置き方が分からない顔だった。


 ルシアはレナの襟元を直した。

 乱れた布を一箇所だけ、きちんと戻す。


「レナ。よう出たな」


 レナは視線を逸らし、照れ隠しみたいに言う。


「……クララが、泣いてたから。つい、ね」


「つい、で出るのは強いわ」


 ルシアの声は笑わない。褒めすぎもしない。

 ただ、逃げ道を作る温度だ。


 クララが小さく言った。


「……ありがとね、レナ」


「こちらこそよ、クララ」


 二人が小さく笑い合う。

 その笑いはまだ薄い。けれど、さっきまでの冷たさに、ほんのわずかに穴を開けた。


 レナの指先は、笑っていてもほどけない。

 強く引っぱる勇気はないのに、離すのも怖い。そんな硬さだった。


 レナはあの泥の紫を見た瞬間、胸の奥で繋がったことは、口にしないまま静かに飲み込んだ。


 ロルフは輪の外れに立ったまま、司祭館へ向かう男たちの背を見送った。

 司祭に呼ばれた全員が司祭館へ向かったのを確かめてから、ようやく足を踏み出す。

 今日の話し合いが“終わり”ではないことを、あの背中はもう知っている。


 夕の光はまだ残っている。

 だが、村の顔は春には見えなかった。

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