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第22話 境界の目

——少し前。ロルフ。


 まだ夕日が水平線の上に見えている頃。

 畑を終えた大人たちは、口数を減らして家へ散っていく。

 屋根の低い家々から、煮炊きの煙が細く上がっていた。

 腹を満たす匂いが、疲れをごまかす時間だ。


 その時間に。


 子どもの泣き声が、村を裂いた。

 怒鳴り声でも、転んだ声でもない。

 息の奥が擦れて、胸にひっかかる泣き方だった。


 ロルフは足を止めた。

 目だけが先に、音のほうへ向く。

 考えるより早く、身体がそちらへ切り替わる。馴染んだ動きだ。


 教会へ向かう道の先に、人の輪ができている。

 近い者が先に集まり、次の者がその背中を押し、輪がひと回り太る。


 ロルフは輪の脇に立つ。踏み込まない。

 代わりに、足場と逃げ道を拾う。

 誰がどこで躓くか。どこへ退けるか。

 それを見落とすと、争いは言葉より先に身体から崩れる。


 輪の中心にいたのは、若い男——ハインツ。

 泣いている子ども。

 そして、ルシア。


 ここで騎士が割って入れば、静まりは作れる。

 だが静まりの形が“外の力に止められた”になれば、翌日から別の場所が軋む。

 村は小さい。軋みは逃げない。


 ロルフは、村が自分の言葉で戻れるかを見ていた。


「……花なんて、いらねぇだろ」


 吐き捨てる声。

 ロルフの視線は、言葉ではなくハインツの手へ落ちる。

 口は飾れる。だが手は、先に本音へ寄る。


 拳か。襟か。石か。

 そこに行く前の“癖”がある。肩が前へ出る。肘が浮く。足の爪先が、半分だけ内へ向く。

 その順番が見えたら、止める。


 ルシアはしゃがみ込んだクララの手元に、膝を落とした。


「ほら、ぎゅって持たんよ。花が痛がる」


 その声は小さい。叱らない。

 泣いている子の呼吸が乱れない高さで、言葉だけを置く。


 ロルフは奥歯を一度だけ噛む。

 この場で優しさは、贔屓に見える。

 けれど優しさを引けば、子どもはそのまま潰れる。

 どちらも“火”になる。火の向きだけは、見誤らない。


「神書に、教会に花を飾れなんて書いてない」


 ハインツの言葉が硬い。

 花ではなく、もっと前から抱えてきた何かに引っかかっている硬さだ。


 クララが涙だらけの顔で、ハインツを見上げた。


「……どうして」


 ハインツはその目を受けて、ほんの一瞬だけ言葉を失った。

 けれど黙る余裕はなく、顎が固くなる。


 譲る顔じゃない。

 譲らないことでしか、自分の立つ場所を守れない顔だ。


「こういうことを許すから、村が腐るんだ」


 その瞬間、輪の空気がひとつ跳ねた。

 言葉が鋭くなると、人は“勝つ言葉”を探し始める。

 勝つ言葉は、いつも誰かを置き去りにする。


 ルシアが一歩、ハインツに寄った。

 止めるために出る一歩が、火に近い一歩になることがある。


 ロルフの重心が、わずかに前へ動く。

 外套の金具が鳴りそうになり、膝で止める。

 音を出せば、その瞬間から“騎士の場”になる。

 まだ、そこへ渡さない。


「腐るとか腐らんとか、今ここで決めんでいい」


 低い。怒鳴っていない。

 けれど、退かない低さだ。

 正しい方向へ寄るほど、刃が立つ瞬間がある。


 ロルフは、それを知っている。


 指が留め金に触れる。

 踏み込む合図ではない。踏み込む境目を測る癖だ。


 ルシアとハインツの間に、村人が慌てて入った。


「おい、やめとけ」


 ロルフは肩の力をひとつ落とす。

 村が村の声で止めに入った。それだけで意味がある。

 “騎士が止めた”ではなく、“自分たちで止めた”に残るからだ。


 だが、そこで終わらない。

 熱は残る。残った熱は、誰かの背中を押す。


 ハインツが、村人の肩を押すように前へ出た。

 押された村人が半歩退く。


 ロルフは、ここで止める準備へ変える。

 距離。肘の角度。踏み込み一歩。届く。


 その時だった。


「違うの!」


 輪の外側から、小さな声が割り込んだ。

 レナだった。唇を噛み、まっすぐ立っている。

 数日前、言葉で場を裂いた子が、今度は裂け目を塞ごうとしている。


 レナは言った。

 クララは、ただ春が来たと伝えたかっただけだと。

 ただ、“見せたかっただけ”だと。

 息を吸い直しながら、それでも目を逸らさずに。


 その言葉が、輪の流れを一瞬だけ迷わせる。

 大人の正しさが走り出す前に、子どもの理由が割り込んだ。


 ロルフはレナを見ない。

 見れば、子どもの言葉を盾にしたように映る。

 代わりにハインツの肩だけを見る。落ちるか、固くなるか。


 レナは駆け寄って、ルシアの外套に顔を埋めた。

 小さな背が震えている。

 言葉を吐いたあと、身体が遅れて怖がる。勇気の後ろには、いつも怖さが来る。


 ルシアは二人を、自らの影に入れるような位置に置いた。


「あんたの言葉は子供に刺さる。今は、言葉置こ」


 正しさを叩く言い方じゃない。

 だから空気がほどけかける。


 このまま収まるかもしれない。

 そんな錯覚が走った。


 だが、ハインツの顔だけは硬いままだった。


「……よそモンが」


 ロルフは息を吐かない。

 これは花だけの話ではない。

 花を踏んだ足の先にあるのは、置き去りにされる怖さだ。

 その怖さは、正しさの顔をして戻ってくる。


「もういいだろ。子どもが——」


 村人の声が、逆にハインツの足を押した。

 取り残される恐怖が、怒りに変わる。

 怒りは、触れられる距離へ走る。


 伸びた手。狙いはルシアの外套の襟。

 布に触れれば、次は言葉じゃ済まない。

 言葉の外へ出た瞬間、村は戻り方を失う。


 ロルフは踏み込む。

 判断より身体が先に動く。

 ここで遅れれば、後から何を言っても遅い。


「よせ」


 声は低い。怒鳴りではない。

 それでも空気が一段冷える。線が引かれたからだ。


 ロルフは掴んだハインツの手を離さない。痛めつけもしない。

 ただ、動かせない。


 力は誇らない。けれど逃げ道は与えない。

 それが、この役目のやり方だ。


「っ! ……触るつもりは、なかった」


 言い訳にすらならない言葉。

 触るつもりのない手は、襟へ伸びない。


「手を引け」


 ロルフは短く息を吐き、ハインツの手首を放した。

 放したのは“許し”じゃない。動けば、また掴める距離にいる。


 ただ、場に残る。

 逃げ道と距離だけは、最後まで崩さない。


 輪の中の息が、揃わないまま止まった。

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