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第21話 よそモン

 クララが春を知らせた日。

 夕の輪が、まだ丸く水平線の上に見えている頃。教会の扉が、きしり、と音を立てて開いた。


 入ってきたのは村の若い男だった。

 畑仕事の帰りらしく、靴の泥を乱暴に落としながら、まっすぐ前へ進む。

 土の匂いと、肩に残る冷たさが、礼拝堂の中へ流れ込んだ。


 男の目が、供物台の端に止まる。

 縁の影に、淡い紫がひとつだけ噛んでいた。

 目立たせない置き方だ。けれど、色は色で残る。


 男の眉が寄る。

 固い表情が、さらに固くなる。


「……また、こういうのか」


 吐き捨てるような声だった。


 男の手が伸びる。

 指先が茎を探り当て、つまみ上げた。

 動きに迷いがない。何度も同じことをしてきた手だった。


 男は顔を上げない。

 代わりに、扉の方へ足を向け、金具に手をかける。

 音が鳴らない角度を知っているみたいに、ゆっくり押し開けた。


 男はそのまま外へ出た。


 次の瞬間、花は教会の外の地面へ放られた。

 泥に触れ、花びらがひとつ折れる。

 折れた先が、土の黒に飲まれた。


 男は見下ろす。

 一度だけ、息を吐く。


 そして、靴底が落ちた。


 花は押しつぶされ、淡い紫が薄く広がっていった。

 春の色だけが、汚れに負けるみたいに。


 男はそれを見なかったことにして、踵を返す。

 帰る足取りは、慣れた者のそれだった。


 その時。

 背後で、砂利が小さく鳴った。


「……今、何したん?」


 低い声だった。

 怒鳴っていないのに、音だけが硬い。叩きつけず、逃がさない。


 男の背中が先に固まった。肩の筋が強ばる。


 ゆっくり振り向いた男の視線の先に、外套の裾が止まっている。

 その少し後ろで、小さな影がひとつ、息を詰めていた。


 ルシアの後ろに、クララがいた。


 男の顔を見た瞬間、ルシアの背中が冷える。

 森の中で、飾りはいらないと声を荒らげていた、あの若い男だったからだ。


 クララはしゃがみ込み、花を両手でそっと拾い上げた。

 触れると、花は簡単に折れそうだった。


 クララは息を吸って、教会の扉の隙間から中をのぞいた。

 ルードスクリーンの手前。

 今朝、こっそり寄せたはずの端に、色がない。

 空っぽだった。


「……なんで」


 クララの声が震えた。

 問いかける相手が、どこにもいないみたいに。


「なんで、こんなことに……!」


 泥のついた花に、ぽた、と涙が落ちる。小さな肩が上下する。


 声は殺すはずだった。

 けれど息がつっかえた拍子に、泣き声がひとつ、喉からこぼれて割れた。


 夕方の静かな村で、その音は思ったより遠くまで転がる。


 家の扉が開く音がして、足音が増える。

 畦道からも、井戸端からも、気配が寄ってきた。


 村は狭い。

 出来事は、すぐに形を持った。


「どうした」

「何があった」


 声が重なった。


 その外側で、外套の影がひとつ増えた。

 金具が小さく鳴り、乾いた音が寒気に混じる。


 その影は輪に踏み込まない。

 ただ、ほどけ方だけは見逃さない立ち方だった。


 誰かがクララの手元を見て、顔をしかめた。


「……やられたのか」

「また、ハインツかよ」


 言葉が重なり、空気が硬くなる。

 誰かの怒りが、別の誰かの怒りを呼ぶ。

 声の熱だけが、先に増える。


 きっかけはクララでも、火種はずっと前からここにあった。

 正しさがぶつかる前に、疑いが先に走る。


 ハインツが、息を吐く。

 笑ってはいない。

 けれど、譲る気もない顔だ。


「……花なんて、いらねぇだろ」


 言い方が硬い。

 言葉の芯は花ではなく、別のものに刺さっている。


 クララの指先が震えている。泥に濡れた紫が、掌の上で崩れそうだった。


 ただ、ほんの少しだけ見せていたかっただけなのに。

 春が来た、と言いたかっただけなのに。


 ルシアの視線が、花からいったん外れる。

 小さな結び目——朝、レナの靴紐を締め直した指の感覚が、まだ手に残っていた。

 その数息のあいだに、花は置かれた。


 胸の奥が、ひやりとした。


 ルシアは花を見ないふりをしない。

 しゃがみ込んだクララの手元に、先に膝を落とした。


 泥で濡れた花は、指の熱でさらに潰れる。

 ルシアは自分の端布でそっと泥を押さえ、折れた花弁を包むように整える。


「ほら、ぎゅって持たんよ。花が痛がる」


 小声だ。叱らない。

 泣いている子の息が乱れない高さで言った。


 ハインツの目がクララへ向きかけて、途中で止まる。

 止まっただけで、周りの空気が少しだけ詰まる。


「神書に、教会に花を飾れなんて書いてない」


 誰かが息を呑んだ。

 誰かが怒りの言葉を飲み込んだ。


 言い返せば割れると、全員が分かっている沈黙が増える。


 クララが涙だらけの顔で、ハインツを見上げた。


「……どうして」


 ハインツはその目を受けて、ほんの一瞬だけ言葉を失った。

 けれど黙る余裕はなく、顎が固くなる。


「こういうことを許すから、村が腐るんだ」


 言い切った瞬間、空気が割れそうになる。


 ルシアが顔を上げた。

 視線がハインツを捉え、足が一歩だけ前へ出る。

 庇うための動きじゃない。止めるための距離だった。


「腐るとか腐らんとか、今ここで決めんでいい」


 低い声だった。

 怒鳴らない。けれど、止める場所には届く。


 村人が慌てて間に入る。


「おい、やめとけ」


 それからルシアへ目を向け、言葉を選ぶみたいに続ける。


「旅の者が、口を出すことじゃないんだ……」


 誰も否定しない。

 沈黙が、ひとつ頷きみたいに重なる。


 だが、ハインツは引かない。

 間に入った村人の肩が押され、半歩だけ退く。


 輪もつられて、わずかにほどけた。

 その分だけ、ハインツだけが前に残る。


 その時だった。


「違うの!」


 群衆の中で、一人の少女の声が響いた。

 ざわめきが一斉にほどけ、皆の顔が同じ方向を向く。

 押し合っていた輪に、一本の割れ目が走る。


 クララが息をのんだ。


「レナ……?」


 割れ目の先にいたのは、レナだった。

 レナは唇を噛んだまま、泥の紫を見た。


「クララは!春が来たって、言いたかっただけ!」


 言い終える前に、レナは一度だけ息を吸い直した。

 目は逸らさない。

 数日前、十字のことで場を切り裂いてしまった子が、今度は止めようとしている。


「ただ、見せたかっただけなの!」


 群衆に走った割れ目を、レナが小さく駆けた。

 迷いは一瞬もない。

 足音だけがぱたぱたと近づいて、ルシアの胸に顔を埋めた。


 ぎゅっと掴まれた外套の端が、かすかに震えている。

 さっきまで皆の前に立っていた勇気が、今はこの距離に縮んでいた。


 ルシアは何も言わず、片手をレナの後頭部に添える。

 もう片方の手で、クララの肩をそっと引いた。


「……こっち」


 囁くように言って、小さな体をルシアの影にすっぽり収めた。


 子どもたちとハインツの間に、自分の身体を置く位置。

 それは守るというより、“庇う”に寄った動きだった。


 ルシアは顔を上げない。

 視線はハインツではなく、クララの手元に残った泥の紫に落としたまま、声だけを前に出す。


「あんたの言葉は子供に刺さる。今は、言葉置こ」


 ハインツを叩くためじゃない。

 これ以上、子どもに向けさせないための線だ。


 ハインツの唇が動く。

 反論が出かけて、止まる。


 張り詰めていた空気が、ほんの少しだけ緩んだ。


 このまま収まるかもしれない。

 そんな錯覚が走った。


 だが、ハインツの顔だけは硬いままだった。

 唇が引きつり、目の奥が、さらに暗くなる。

 正しさを否定されたと感じたのだろう。

 その正しさだけが、ハインツを支えていたのかもしれない。


「……よそモンが」


 低い声だった。

 誰かが割って入るように言う。


「もういいだろ。子どもが——」


 その言葉が、ハインツの顔をさらに歪めた。

 周りが引くほど、自分だけが取り残される。

 その取り残される恐怖が、怒りに変わる。


 ハインツはその場で息を吐いた。

 吐いたのに、胸の奥の熱だけが下がらない。


 ハインツの足が、一歩、ルシアへ詰まる。


 距離が縮む。

 砂利が鳴る。

 肩がぶつかりそうな近さまで来て、ようやく手が伸びた。


 狙いはルシアの胸元——外套の襟。


 その指が布に触れるより先に、別の手がハインツの手首を掴んだ。

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